誰にも言えない秘密
秘密にするために、口を閉ざした。
その唇にそっと人差し指を置いて、頭に浮かんだ言葉は霧の向こうへ追いやって、喉元までせりあがってきた言葉は無理やりに飲み込んだ。
秘密は秘密のままで。誰にも明かさずに、いつか自分すらも忘れてしまうくらいに、心の奥底へと閉じ込めるんだ。
ごめんね、一体何に対して謝っているのかもわからないけれど、そう呟いて、それを秘密にし続ける覚悟を決めたんだ。
狭い部屋
ずっと、狭い部屋の中にいたんだ。
その中の小さな世界で、狭い視野のまま生きてきたんだ。
でもある日、その部屋の鍵は勝手に開いて、外というものを知った。
とても広くて、大きくて、楽しそうで、わくわくして、それでいて、ちょっぴり怖かったんだ。
怖じ気づいて、また部屋に戻ろうと後ずさったとき、その人は言ったんだ。
「外に出てきてくれて、ありがとう。君の世界は、君が思っているよりも、もっと広いんだよ、楽しいんだよ、優しいんだよ。だから、どうかずっとそこにはいないで、もっと色んなものを見てほしいんだ。経験してほしいんだ。……そこから出るのが怖いのは、よくわかる。でもね、案外世界は怖くないんだよ。もし、それでも怖いというなら、一緒に行こう。君が怖くなくなるまで、そばにいるから」
ただ、ただ優しく、それでいて背中を押すように、腕を引っ張るように、その言葉は体を突き動かして、後ずさった足はいつの間にか一歩前に踏み出していた。
ずっと、狭い部屋の中にいたけれど、歩き出したその世界は優しくて、あたたかかった。
失恋
あの日見た夕焼けはとても美しくて。
二人で歩いた快晴の夏は眩しくて。
星が降る幻想的な夜はロマンチックで。
繋いだその手も、絡み合う指先も、触れ合う肩も、お互いの温度を分け与えるみたいに混ざり合って、一つになるのが心地よくて好きだった。
でも、君はもういなくて。悲しくて泣いていたはずなのに、いつしか、何故泣いていたのか、思い出せなくなってしまったんだよ。
過ぎる時は、決して速くはないのに。何年、何十年、いや何百年、何千年もの膨大な月日がそれを忘れさせてしまったんだ。
ようやく失った恋は、ひどく穏やかな日々を連れてきて、風が優しく頬を撫でた。
その触れ方が、何故だか懐かしくて、勝手に涙が出てきて。
そこでようやく思い出すんだ、君のことを。大好きだった君のことを、君と過ごした宝物みたいだった日々を。
もう誰もいないこの世界で、声も、顔も、名前すらも、思い出せない君のことを想って。
これは滅びゆく地球で、誰よりも長生きした人ならざるものの、最後の失恋のお話。
正直
嘘にまみれ、自分自身をも騙し、偽りと言う名の仮面と言葉で着飾って、そこにほんの少しだけ正直な気持ちを混ぜる。
これは決して嘘ではない。でも、本当でもない。
それは、本当、に限りなく近い何かで、嘘によく似た何かだった。
梅雨
「もう、やだぁ」
目覚まし時計のアラームが鳴る中、彼女は布団にもぐり込みながら、そう言って出てこなかった。
決して朝が苦手だとか、そういうものでないのはよく知っていたし、いつもならいの一番に起きて、こちらを起こしてくれるのだ。ただし、この時期を除いては、だ。
雨が多くなるこの時期は、元気で活発な彼女から少し不機嫌な彼女へと変わる。
雨のせいで髪が広がってまとまらない、と。何だか頭がズキズキと痛む、と。雨の暗い雰囲気につられて、気分まで落ち込む、と。
そのせいでこの時期の彼女はちょっとだけ不機嫌で、それでいて可愛らしかった。
いつもとは違う、少し弱った彼女の姿が見れるのは不謹慎かもしれないけれど、少し嬉しくて、いっぱい甘やかしてあげたくなるのだ。
だから、だろう。君が嫌いだと言うこの時期を、僕が嫌いにはなれないのは。