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3/27/2023, 2:13:11 PM

My Heart


その人は月夜に舞い降りた。夜にまぎれるような黒い服を着て、ベランダの縁に腰掛けるようにして、やって来た。
「あなたの心臓を奪いに来ました」
そんなキザなセリフを甘い声で口にする。そんな姿に少しだけ微笑んで、そちらを向いた。
はめ込んだようなルビー色の瞳が爛々と輝く。先ほど言ったように、本当に奪いに来たのだろう。この心臓を食べに。でもあいにく、そう簡単に喰われやしない。私のを食べるのだから、こちらももらわないとフェアじゃない。
だから、私もいただこう。あなたの心ってやつを。そして、一生苦しめばいい。忘れるなんて、許さない。
あなたの心は私のもので、私の心臓はあなたのものなんだから。後悔したってもう遅い。
そう彼に微笑みながら、その心を奪ったのだ。

3/26/2023, 1:27:15 PM

ないものねだり


あれがない、これが足りないって、ないものを今日も探していた。
たとえば、目に見えるもの。お金とか美味しい食べ物とか、ほしいものとか。目には見えているのに、私のものじゃないから。ほしいなぁ、なんて思ってもすべて手に入るわけじゃない。
それから、目に見えないもの。嬉しいとか、楽しいとか、友情とか、愛とか、夢とか。これらは目に見えるものより厄介で、わかりにくい。目に見えないからこそ、手に入ったのかすら気づかなかったりするから。
ないものねだりだね、って君が言うから。
あるものをねだってどうするんだ。ないから、ほしがっているのに。ないから、焦がれているのに。
あるものに感謝しなよ、って君は言うけれど。
そんなの、わかってるよ。もうすでにあるものに感謝はしている。
でもね、それでもまだ足りないんだ。
私はまだそれを諦めたくはないから。

3/25/2023, 3:05:01 PM

好きじゃないのに


「好きじゃないのになぁ」
「まだ言ってるんですか? それ」
隣に座るその人はどこか嬉しそうに笑っていた。好きじゃないと言われ続けているのに、彼が諦めたところを一度も見たことがなかった。
「好きじゃないよ、君のこと」
「それなのに五年も付き合ってくれるんですね。先輩ってやっぱりやさしー」
「優しいのは君の方でしょ? こんな人に五年も費やすなんて、バカだよ」
「バカでいいよ。その代わり、先輩は俺に一生愛されていてください、ね?」
絡み取られた指先にキスをされ、先程付けられた指輪がキラリと光ったのが目に入る。
「好きじゃなかったのになぁ」
呟いたそれが過去のことであることはとっくの昔に気づいていた。
そう、これは君に向けた最初の言葉だ。

3/24/2023, 2:00:14 PM

ところにより雨


「なんかどっちつかずじゃない?」
「何が?」
唐突にそう言い出した友人に話の主語がよくわからなくて、スマホから顔を上げて問いかける。
「天気予報」
「なに? 雨でも降るって?」
「いや、ところにより雨だって」
「ふーん」
「ふーんって、もう少し興味持ってよー」
むりー、と軽く言いながらスマホに目線を戻す。
たしかに先ほどから空は雲に覆われて、なんだか暗いし、雨が降ってもないもおかしなことはない。
それなのに、友人はむー、と唇を尖らせながら曇り空を見上げる。
「降るならちゃんと降ってほしいって思わない? 降るのかどうかわからない感じがどっちつかずだし、降るってわかってるなら色々用意できるけどさ、降らないかもしれないって思ったら……」
「思ったら? 新しい靴は履いてこなかったって?」
「うん、そう。……え、気づいてたの?」
「そりゃわかるでしょ。下手くそなスキップしてたし」
「下手じゃありませーん」
「ごめん、ごめん。スキップじゃなかった。よくわかんない不規則に飛び上がる歩き方だったね」
「バカにしてるでしょ」
「んふ、ごめん」
「まったく……」
「まぁ、空もそんな気分なんでしょ」
「え?」
「ところにより雨ってことはさ、降る予報の範囲より狭い範囲で降るってことでしょ? たまには空も大泣きするより一筋涙を流したくもなるんだよ」
「そういうもん?」
「そういうもん」
そう強引に納得させて、帰る準備をする。どうせ降らないよ、と傘はあえて置いていくことにした。
降ったところできっと、その雨は涙みたいに優しいから。

3/23/2023, 2:22:04 PM

特別な存在


それは、愛によく似ていた。
恋愛的な酸いも甘いもなく、ただただ穏やかで味のない水のような、それでいてそれがないと不安になるようなそんなものだった。
唯一で、他とは少し違う。だからなのか、それに対する感情は愛によく似ていた。慈しみ、寄り添い、特別だと思える存在だった。

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