R15相当になります
台風が過ぎ去って
その日の午後、近づく台風が木々を揺らしていた。空は厚い雲に覆われ、ベランダを吹く風が肌寒さを感じさせた。
「稲、倒れちゃうかな」
私は隣に並んだ悠人をそっと仰ぎ見て尋ねる。
「うん…倒れにくい品種だけど、今回は難しいかもしれないな」
ベランダから田んぼを見る悠人の横顔は険しい。
家庭菜園でさえ無縁の都会から農家に嫁いで2年目。
大型と言われる台風の接近に備えて悠人に教わりながら一緒に対策をした。田んぼに深く水を張り、水路を泥だらけになりながら掃除した。
田んぼの石拾いや苗から育てる稲作が想像を絶するほど大変だとわかったからこそ、刈り取りまでなんとか無事に育って欲しい。
「遥、大丈夫だから。倒れたら起こしに行く。大変だけど、でも、俺は親父と何回も経験してるから。今回よりもっと大型の台風が上陸したこともある。それでも、家の稲はダメにならなかった。だから今回も大丈夫」
悠人が私の頬を両手で挟み、額と額をコツンと合わせた。
大丈夫---楽感的にも思えるけれど、農家に産まれ農業高校を卒業して農業で生計を経ててきた悠人。
大好きな夫のことを私が信じなくて、誰が信じるのか。
「うん、わかった」
「よし」
悠人は額にキスを落として私の肩を抱き部屋へ誘う。
悠人が重い雨戸をガラガラと大きな音を立てて閉じると、部屋には暗さと静けさが訪れた。
悠人が私を見つめる視線が熱い。
求められるまま深くキスを交わしてゆっくりと瞳を開ける。
「夜に…」
「ん…」
熱い吐息で誘われて私は頷く。照れ臭さを隠すように、私たちは強めにギュッとハグをした。
停電に備え、早めに夕食と入浴を済ませた私たちは、手を繋ぎ雨戸を締めた寝室へ向かう。
互いの衣服に手を伸ばし取り去ると、薄暗い部屋に悠人の日焼けした肌が浮かび上がる。
しなやかな筋肉と均整の取れた身体に見惚れると、それすら見透かしたように耳元で悠人が甘く笑った。
雨戸越しに、遠く台風の唸りが聴こえる。耳元では悠人の甘い吐息と、愛の囁き。
悠人と同じだけ愛を捧ぎたくて、私は大胆になる。
硬く大きな背中に手を這わせ、悠人は私の腰を抱いて深く繋がり、溺れるように愛し合う。
「好き」「愛してる」
伝え合い、甘え合える幸せがある。
風の唸りが一瞬止んだ時、悠人は私の首筋に唇を這わせていた。雨戸が外界を閉ざし、暗闇の静寂が私たちを近づけて2人だけの吐息や鼓動を甘く濃くしていく。
互いの温もりも吐息も何もかもが溶け合って、幸福に満たされ、悠人に抱きしめられていつの間にか眠っていた。
「おはよ」
悠人の弾んだ声で目が覚めた。愛し合った翌朝、いつも悠人の声は無意識で明るいと思う。
「おはよ」
返事をしたら悠人が私を抱きしめている腕を解いてベッドから降りた。
雨戸を締め切った部屋の薄暗さは、夜の濃厚な名残のよう。遠ざかる半裸の悠人の背中は変わらず筋肉質でカッコいいし。
ベッドの端に腰掛けた悠人の手にはミネラルウォーターのペットボトルが握られていた。
「水飲む?声が掠れてるよ」
「飲む」
カチッと音を立ててペットボトルの蓋が開けられる。受け取ろうとした矢先、悠人が水を口に含み、私へと顔を近づける。
「やだ、自分で飲めるって」
ドギマギしながら半裸の胸を押し返す。弾力のあるしっとりとした感触は昨夜の愛を思い出す。
見つめた瞳は熱っぽく、今この瞬間もそれを思い起こさせるような熱情がある、と思う。
見つめあって、視線を外して、ペットボトルへと手を伸ばす。
「ダメかー」
明るく笑って伸びをした悠人はクローゼットからTシャツと短パンを取り出して身につけ、雨戸に手をかけた。
途端に朝陽が部屋に差し込んで昨夜の優しかった指、愛をくれた唇と瞳、逞しい腕と順々に光が照らしていき、胸が再び熱くなる。
悠人がベランダに出て外の景色を眺めている。レースのカーテン越しに逆三角形の広い背中のシルエットが逆光に浮かび上がっていた。それを眺めながら私はそっと息を吐いて熱を逃す。
Tシャツと短パンを身につけ、悠人に呼ばれるままベランダに出た。
悠人の言う通り、数時間前まで荒天だったとは思えないほど快晴だった。
空は突き抜けるように青は深く、浄化されたように澄んだ空気に満たされていた。
遠く連なる山脈の稜線が浮かび上がっている。
私たちが育てた稲は青々した緑から金色に変わり始めたばかりだけど、危惧した通り倒れてはいたが、それは一部だった。
「大丈夫。倒れたら起こしに行く」
昨日の悠人の頼り甲斐のある声が蘇る。
悠人はきっと、何があっても「大丈夫」、そう言って私を安心させてくれる気がする。
「今日は忙しくなるな」
悠人はベランダに手をかけて田んぼを見ていた。
「うん。悠人が言った通りだったね」
「ん?」
「あんまり稲が倒れずにすんで良かった」
「そうだな。でも、俺1人じゃ大変だから、手伝ってくれる?」
「もちろん」
返事をすると、悠人が私の頭に触れて髪をくしゃっとかき混ぜた。
「その前に一仕事だな」
庭を覗き込む悠人の視線を追うと、広い庭一面ににどこから飛んできたのか、落ち葉や小枝がたくさん散らばっていた。
「遥。俺、庭の掃除終わらせてくる。その間、寝ておいて。稲を起こす体力、回復させといて」
昨夜の体温を思い起こさせるように、ベランダに置いた私の手に重ねて触れる手が意図を持つ。悠人、私をドキドキさせて、私を二度寝させる気が本当にあるの、って聞きたくなるよ。
素早くキスを仕掛けてから、悠人は足早に階段を降りて庭にある倉庫から竹ぼうきを取り出していた。
半袖の腕がリズミカルに動き、シャッシャッとリズミカルな音と共に落ち葉や小枝が集まっていく。
ベランダから眺める悠人は朝陽に照らされ黒髪に光の輪がキラキラと輝いていた。
かっこいいな。
飽きることなく見つめていると、悠人が振り返って私に気づく。
ちょっとだけ驚いた顔をした後、満面の笑みで私に手を振ってくれる。
ひらひらと振り返し、「やっぱり私も掃除する!」と階段を駆け降りた。
「眠れなかった?」
「うん、一緒にやりたくなったから。悠人さん、農家の嫁の体力を舐めてもらっちゃ困りますよ?」
戯けて顔を覗き込むと、悠人は嬉しそうに笑った。
「越してきたばかりの時は、ヘロヘロになってたのにな!じゃ、遥さん、ちゃっちゃと片付けますか」
「はい!」
快晴の空の下、私たちはお喋りして笑い合う。2つの竹ぼうきが足元から音を奏で、芝の緑が広がっていく。
雨水が砂利を掘り、轍を深くして道路に庭の土砂が流れていた。
「結構降ったんだな」
「ね、悠人さん、ちゃっちゃと片付けよ」
「だな!」
「悠人の竹ぼうき、短くなってるね」
私が嫁いでから購入した竹ぼうきはまだ購入した時とさほど変わっていないけれど、悠人の箒は竹が折れたり抜けたりして随分と短くなっていた。
「新しいの、買わなきゃなあ。遥に掃き掃除が下手って言われたくないし」
「道具のせいだもん、言わないよ」
綺麗になっていく庭。
澄み渡った青空。
緑の匂いを運ぶ吹き抜ける風。
台風で浄化されたような、朝が始まる。
台風が過ぎ去って
腰の痛みで整形外科を受診した。レントゲンの結果、異常はなく、痛み止めで様子観察となり、ロキソプロフェンとレバミピドが処方された。
いわずと知れた、鎮痛薬と胃薬である。
ドラッグストアの処方箋取扱窓口で薬剤師さんは薬の説明を簡単に行ってくれて、私は質問ないですよ、とにこやかに返事をする。
半年前にも腰痛で同じ薬局で同じ薬が同じ飲み方で手渡された。たった2種類、難しい薬ではないし。患者の私の対応も薬剤師の対応もきっと普通なのだろう。
いざ、食後に内服薬を薬袋から取り出して、アレ、と無意識のうちに声が出た。
ロキソプロフェン、錠剤は淡いピンク色で見知った色だが、シルバーのシートに書かれた文字はインディゴブルーだった。
私の知っているロキソプロフェンは、シルバーのシートに文字はグリーンだったはず。
「フォントまで違うじゃん」フォントの大きさも文字のカタチ自体も違う。
「おしゃれになっちゃって。たった半年で」
「ってコトを、今日のお題を見たら思い出したんだよね」
夕食を食べながら、書く習慣アプリの存在を教えてくれた娘に伝える。
娘はふーん、と言いながらケチャップで味付けしたチキンを頬張っている。
「でもそれだと、レッドがないじゃん」
「ロキソ、レッドじゃダメ?」
「ピンクでしょ」
「じゃあレバミピドは?」
娘はテーブルの上に置かれたシートをチラッと見た。
「それもピンク」
「うーん、でもピンクって言ってもまあまあ濃い文字じゃん?レッドってことにしよ」
「好きにしたら?ごちそうさま」
娘の声は冷たい。まあ慣れっこだけれども。
呆れたように娘は立ち去り、私はレバミピドのシートをもう一度見る。
「レッドでいいでしょ」
Red, Green, Blue
お題の第一印象は、戦隊ヒーローみたい。YellowとPinkが足りないけど。
錠剤2錠を取り出して口の中に放り込む。
戦隊ヒーローみたく、悪を取り除いてくれますように。
リビングのソファでくつろぐ娘に声をかける。
「こんな感じ、どう?」
「ダサっ」
おまけ
「ねぇお母さん」
「ん?」
「ロキソプロフェンのシートの裏側、見た?ピンクの文字だよ」
「え!?」
シートをひっくり返すと、確かにピンクの文字。それもレバミピドよりも濃い文字色。ピンクよりもはやレッドに近い。
「完結したね」
「うん…」
あのやりとりは何だったのか、と思う幕切れ。
「腰痛は?」
「ロキソプロフェン効いてるよ」
「良かったね」
「うん」
戦隊ヒーローのリーダーはレッドって昔から相場が決まってる。
「やっぱりレッドがヒーローだ。ロキソプロフェンが影のヒーローで間違いなかった」
「はいはい」
娘はまだ言ってるよ、と呆れたような視線を寄越した。
Red, Green, Blue
地方公務員の広報として働いていたとき、広報誌の写真撮影をしていた。
地元で企業した若手にスポットを当てた記事の顔写真撮影。
起業家たちは自社のアピールになるからと写真撮影に積極的だった。俺は彼ら彼女らと同じ年齢層だったこともあり、写真を撮影しながらの雑談や企業の裏話など話は盛り上がり、撮影は滞りなく進むことが多かった。
ところが、撮影が困難を極めたことがある。
今日の撮影相手は民間の託児所を開設したばかりの人見知りのお嬢さん。
撮影交渉時に一度は写真を撮られるのは苦手だからと断られたが、それはままあること。
撮影者がいなくて困っていて、と粘ると、それならと了承を得られて、撮影にこじつけた。
託児所は自宅を建て替えして不要になった古い木造家屋をリノベーションした、木や緑の温もりに癒される空間だった。
キャラクターのエプロンを身につけ、薄化粧で髪を後ろにひとつ束ねた撮影相手の女性に話しかける。
市の広報誌と、それと全く同じ内容のデジタル版に掲載されるだけとは言え、女性でここまで飾り気がないのも珍しい。
第一印象はおとなしそうな人。元気な子どもたちの相手が務まるのかな、と頭によぎる。
「よろしくお願いします。緊張してますか?」
ぎこちない笑顔を浮かべる彼女は確認せずともわかりやすく緊張していた。
「はい、すみません、」
「大丈夫ですよ。このエリア、自然がいっぱいで素敵なところですよね」
「はい」
「前職は市の保育園で保育士さんとして働いていたんですよね?どういった経緯で託児所を立ち上げようと思ったんですか?」
「はい…」
どんなにこちらが笑顔で話しかけても、彼女の返事はYES、NOばかりで、沈黙が訪れてしまう。クローズドの質問を避けているのに、だ。
自然な笑顔は皆無、ぎこちなく引き攣った表情。
うーん、困ったなあ。
ファインダーを覗くのをやめて、俺は彼女に笑いかけた。
「一旦休憩しますか。俺、子ども好きなんです。ちょっとだけ見に行きたいんですけど良いですか?」
「はい、」
唐突な申し出に戸惑いながらも、彼女はホッとしたように微笑んだ。
本当は知ってたんだよね。
子どもの泣き声が聴こえたとき、彼女は子どもがいるだろう部屋の方向を気にしていた。
俺に様子を見に行きたいって言おうか言うまいか迷っていたんじゃないかって。
部屋を案内してくれる彼女の横顔を盗み見る。
フィルター越しに見ていた少しおどおどしていた瞳はそこになく、あるのは前をまっすぐに見つめた瞳。
天然の睫毛、ビッシリ生え揃ってクルンと上向いてる。
たっぷり自然光が差し込んで照らされた横顔は輪郭が浮かび上がっていた。
天然美人---そんな言葉が思い浮かぶ。
「この託児所は、保育園に入れなかったという子どもたちの預かり所なんです」
部屋に着いて、彼女は走り寄った子どもを抱っこした後俺を振り返って説明した。
って言うか、めっちゃ説明できるじゃん!さっきまでの、何だったんだよ…!
「せんせい、おしごとおわった?」
「まだだよ。さっき、泣いてたでしょ?聴こえたよ?」
「うん、ぼく、ころんじゃったの。でも、ドクターイエローはってもらったからだいじょうぶ!」
「そっかそっか」
膝にはドクターイエローのバンドエイドがひとつ。彼女がそっと抱っこを降ろすと、走って行く男の子。
彼女や男の子にとって写真撮影は仕事。じゃああなたにとって保育は何ですか、ってツッコミたくなる。
それに、泣き声で幼児の特定ができるって、すごくね?
男の子も女の子もいっぱいいるぞ?
女の子2人組が俺に近づき、俺を見上げた。俺は腰を落とす。小ちゃくて可愛いなあ。
「だあれ?」
「あ、僕は先生の写真を撮りに来たんだよ。先生、雑誌にのるから」
「わあ、すごいっ」
「みんなの写真も撮ってあげるよ。先生、子どもたちの遊んでいるところ、撮っても良いですか?」
「え…」
「雑誌には載せませんから。良ければ飾ってあげてください」
「ありがとうございます」
ペコリとお辞儀した彼女に笑う。ぎこちなさは抜け切ってないけど、はにかみの方が勝ってる。
俺はカメラを構え、フィルター越しの世界を見つめる。
どの子も笑顔。彼女も笑顔。
子どもと一緒の彼女は、楽しそうで幸せそうで、俺はシャッターを切る。
広報誌の今回のテーマは、託児所をオープンした若い保育士の素顔。だから、こういう写真でも良いはず。
フィルター越しに、彼女を中心に添え、彼女の視線は子どもへと向かう。
俺は笑顔の彼女に、シャッターを切った。
「休憩、ありがとうございました」
彼女は穏やかに微笑んだ。
俺への緊張も溶けてくれたみたいだ。
「さっきは緊張してしまいごめんなさい。もう、大丈夫だと思います」
彼女の瞳は俺を捉え、瞳はキラキラと輝いている。
この部屋に来る前の廊下で見た横顔の光景を思い出した。
俺は笑って言う。
「今日は良い写真がたくさん撮れました。ありがとうございました」
「え?えっと…」
戸惑う彼女に笑って、俺は彼女の前にカメラを掲げて画面を覗き込んでもらう。この部屋で撮れた写真をカメラの画像モードで再生した。
「良い写真ばかりでしょう?」
「いつの間に…驚きました」
「カメラ目線じゃないんですけど、先生が子どもを優しく見つめる横顔が素敵だったんで、コレが今日のベストだと思います」
「はい…」
「コレを見たら保育園じゃなくてこの託児所に預けたい親御さんも出てくるかもしれませんね。先生、忙しくなるかも」
「そんなこと、ないと思いますけど、」
「半分冗談、半分本気です」
彼女は俺に向かって、初めて楽しそうに声をたてて笑った。
「もしもそうなったら頑張ります」
「はい。応援してます」
あのフィルター越しの子どもたちと彼女の笑顔は、俺の宝物であり、原点。
今、俺はプロの写真家として活動している。
隠された魅力を引き出して映し取るためにその人の世界を広く眺めてフィルター越しに一瞬の魅力を切り取っている。
フィルター
大学の講義が終わると、霧雨が降っていた。キャンパスの並木道は薄い水のベールが張っているような淡い景色。
マラソン大会が行われた霧雨の陸上競技場の並木道みたい。神谷先生が貸してくれた大きな黒いこうもり傘の中、鈴ちゃんと一緒に歩いたセピア色の世界。
不意に霧雨の柔らかな音を掻き消す水が跳ねる足音が近づき、私の横を足早に人が通り過ぎていく。
「森田くん!?」
「米田さん!?雨、降ってるから!じゃあね!」
「待って!傘!入って!」
走る速さに負けないように叫ぶと、森田くんは足を止めて振り返った。
「駅までだけど」
「やった!」
森田くんは背を縮めて私の傘に入り、俺の方が背が高いからと傘を持ってくれた。
傘を私の方へ傾けて私を濡らさないようにしてくれる。
普通に差してって言ったところで、森田くんは私の方へ傾けるのをやめないだろう。
すごく良い人だってわかってる。
最近、私の時間がある時に、という注釈付きでカフェ巡りを一緒にしたいと誘われたけど、私は断ってしまった。それでも態度を変えずにずっと笑顔で接してくれる。
だから私も今まで通り、森田くんとはゼミの仲間として接することができている。
「俺さ、相合傘初めて」
森田くんが照れ笑いをこぼす。
私はちょっと笑って言った。
「私はあるよ」
「えっ、誰と!?」
中学校2年生の駅伝大会は曇天のち霧雨だった。
私は駅伝の選手として3位で襷を受け取ったのに、競技場には6位で帰ってきて、次の走者の鈴ちゃんに襷を渡した。それで元顧問の早坂先生に練習不足を指摘された。
鈴ちゃんは大会終了後霧雨の陸上競技場を見つめながら私に付き添ってくれた。現顧問の神谷先生が私たちを迎えにきて、二人で入りなさいと自分の傘を貸してくれた。
「中学校のとき、長距離を一緒に走ってた親友の鈴ちゃん。大会後、今日のような霧雨で、顧問が傘を貸してくれたの。先生の背中はしっとり濡れてたのにね」
「良い先生だね」
「うん。その先生に憧れて、鈴ちゃんは中学校の教師になりたいって教育大学に通ってる」
「へえ。…もしかして、米田さんの初恋って、その先生だったり?」
思いもしないことを言われてビックリして森田くんを見上げる。森田くんは私を静かな瞳で見下ろしていた。
霧雨の柔らかな音がする。雨の匂い---ペトリコールが包み込む。
「ち、違うよ。ビックリした」
「そっか。なんか米田さんの特別な想い出のような気がしたから。目が、優しい感じがした」
森田くんはフッと静かに笑みをこぼす。
あのとき恋をしたわけじゃないけど、森田くん、鋭い。
「その2年生の大会の前に、私、捻挫してて。大会では治ってて選手として走ったんだけど、私が順位を落としたの」
森田くんは私の話を黙って聞いてくれている。私は安心して、続きを話した。
「走り終えて、1年のときに顧問だった先生に練習不足を指摘されて叱られて」
「それ、米田さんが捻挫して満足に練習できなかったせいじゃない?」
「森田くん、鈴ちゃんと同じこと言ってる」
私は笑った。森田くん、やっぱり暖かくて良い人だ。
「早坂先生って言うんだけどね。傘を貸してくれた神谷先生に捻挫のことを聞いて、その日のうちに謝ってくれたの。私を子ども扱いしないで、誠心誠意謝ってくれた」
「うん。良かった。米田さんは良い恩師に恵まれたんだね」
「でもね」
なんでだろう。森田くんはすごく話しやすい。
「あんなに謝ってくれたのに、カフェで再会したら、早坂先生、まだ謝り足りなかったんじゃないかって後悔してたの。ビックリだったよ」
大学入学後、バイト先の緑地公園のカフェで再会した日を思い出す。
霧雨で泣いてたからって、ずっと後悔してくれてた早坂先生。
先生の誤解を解いて先生が笑ってくれたとき、楽しいなって思った。すごくすごく楽しいなって。
「そっか。米田さんの好きな人は早坂先生だね」
ズシンと言葉が胸に響いて、ドキドキと鼓動が速く大きく刻み始める。
「その先生とはどうなってる?バイト、辞めてから」
霧雨のように優しい声音で聴いてくれる森田くんに、私は想いを吐露する。
「どうもなってなくて…。私、ずっと…あの夏に忘れ物をしたみたいに感じてる…」
緑の木立、夕焼けを映す池、ひぐらしの音。
早坂先生の笑顔、掴まれた手首、至近距離の横顔、先生の赤くなった頬。
ずっと忘れられない。忘れたくない。
「忘れ物か…。米田さん、その忘れ物、回収した方が良さそうだね」
森田くんが優しく微笑んだ。森田くんは…霧雨のように、傘のように優しくしてくれる。カフェ巡りを無碍に断った私なのに。
「一緒に着いて行こうか?ひとりじゃ心細いんじゃない?」
ううん、と私は小さく首を横に振った。
「先生、ランニングの後でカフェに寄るの、いつも週末だったから、週末に行ってくる」
「週末でも付き合うよ」
森田くんは躊躇いなく私に告げた。
森田くんの強さが、私を後押ししてくれる。躊躇いを取り去ってくれる。
「ありがとう。私ね、本当はもっと前から、忘れ物を探しに行きたいと思ってた。でも、あと一歩の勇気を持てなかった」
「米田さん…でも、今、良い顔してる」
「森田くんのおかげで踏ん切りついた。週末、早坂先生に会いに行こうって」
森田くんがうん、と大きく頷く。
「頑張って。応援してる」
キッパリと告げられた言葉。
応援してる---あの夏、早坂先生にも言われた言葉だ。
暖かくて強い響きを持つ言葉。
「頑張るね」
「うん、頑張れ」
森田くんは大きく頷いてくれた。
週末の夕方も霧雨が降り注いでいた。
早坂先生は霧雨くらいの雨なら緑地公園へランニングに来ていた。だから今日もきっと来てる。
霧雨が緑地公園を薄い水のベールが張っているようにセピア色の世界を作っていた。
それは霧雨がキャンパスをセピア色に変えていたときと同じ。
森田くん、頑張るね。そっと彼の名を囁く。
霧雨が私のズボンの裾をしっとりと濡らしていくことに気づく。あ、これ、帰りに寒くなるかも。
コンテナのカフェ、飲食スペースの屋根はすぐそこ。
屋根の下に駆け込むと、誰かと勢いよくぶつかってしまった。
「あ、ごめんなさ、」
「すみません、って、米田?」
「あ、早坂先生、」
心の準備なく出逢ってしまって、走ったことも相まって心臓の音がうるさく鳴り響く。
「久しぶりだな。バイト以来」
「はい」
首からかけたタオルは変わらず仄かに柔軟剤の良い香りがする。
「悪い。俺とぶつかって米田まで濡れちゃったな。拭いとけ」
ぶつかった肩はほんの少しだけ濡れている。ありがとうございます、という返事は緊張のせいか少し小さくなった。
ふわっと柔らかな温かいタオルは先生の優しさみたい。
タオルを返すとき、先生と私の指先が触れ合う。トクントクンと鼓動が暖かく響く。
「どうした?今日は。ランニングってわけじゃなさそうだし」
傘を差さずにランニングしていた先生は、頭からタオルを被り、ゴシゴシと頭を拭いていた。
自分の頭を拭く手は乱暴なのに、私を見る目は優しい。問いかける声も。
霧雨のペトリコール。中学校の大会での先生との時間は切なかった。
「私、今年の夏に忘れ物をした気がして、探しに来たんです」
「何を?暗くなるからな、すぐ探さなきゃな」
キョロキョロと辺りを見回し始めた早坂先生に、物じゃないんです、と告げる。
私に何かを感じたのか、先生は静かな眼差しで私を見つめた。
「忘れ物は私の気持ちです。先生に伝えたいことがあって…」
声が震える。私は胸元を両手で軽く押さえた。鼓動が手のひらへ伝わる。
「中学のマラソン大会、先生は誤解したって、すごく謝ってくれました。あのとき、早坂先生に子ども扱いされずに謝られて、大人なのにすごいって思いました。その後、バイト先でまだ先生が後悔してることがわかって、私は誤解を解きたくなりました。神谷先生の優しさで泣いただけだから、って。それを聞いて脱力した早坂先生を、かわいいって思っちゃいました」
「恥ずかしいな、俺」先生が口元に手を当てて私から視線を逸らす。
こんなふうに素直だから、きっと中学生相手に本気で謝ってくれた。
そう思ったら、少し落ち着き始めた鼓動はまたトクトクと騒がしくなる。
「カフェで、先生とお話しするのをいつも楽しみにしてました。すごく、楽しかった。
最後の日、私の指先が火傷にならないようにすぐに冷やしてくれたこと、感謝してます。あのときのこと、今思い出してもドキドキします。ドキドキしながら、嫌じゃなかった。先生がすぐそばにいてくれたこと」
そっと早坂先生を見上げる。先生は私をジッと見つめて私の話に耳を傾けてくれていた。
「私、早坂先生のこと、ただの元顧問以上に想ってるみたいです。好き、なんだと思います。好きです」
言葉が震えながら溢れて、瞳が潤む。
声に出して初めて自分の想いを知る。夏の忘れ物は、先生への恋心だった。
潤んで霞む視界で、先生は私を見つめてくれていた。
沈黙を霧雨の音が埋める。ペトリコールが包む。
「米田」
「はい」
先生は優しい声で呼んでくれた。
「ありがとう。俺のこと、そんなふうに想ってくれて。…正直、すごく驚いたけど」
明るく微笑む先生の笑顔はいつも眩しい。
「俺もさ、米田とのカフェの時間、楽しかったよ。あの最後の日、バイトを辞めるって知って、寂しくなるなって言ったのも、俺の本心だったよ」
本当に寂しそうな顔で言ってくれた言葉。先生は誤魔化さずにちゃんと伝えてくれる。
その誠実さに、好き、と胸が熱くなる。
「だけど、元生徒とどうにかなる気持ちは…今はないんだ」
元生徒、という言葉が重くのしかかる。
わかってる。わかってた。早坂先生は神谷先生に憧れてる。生徒想いの神谷先生を目標にしている人だって。
涙が溢れそうになる前に、早坂先生が自分のタオルを私の頭にふわりと被せて、泣きそうな顔を隠してくれる。
暖かな優しさに鼻を啜って、顔にタオルを当てる。
「この先ずっと…ですか?私、元生徒のままですか…?だって、先生、夏の最後の日、私とすごく距離が近くなったとき、頬が赤くなってたのに…」
タオルを口元に当てたまま、そっと見上げる。
先生は一度大きく息を吐き出した。
「鋭いな。あの日、俺の心は揺れてたよ。だから…」
いったん言葉を切ってから、私を見つめた。
「今は元生徒だと思ってるけど、未来はわからない。永遠って難しいから。わかってるのは、米田にはキラキラした出来事がこれからもたくさん待っているよ」
強く微笑まれて、寂しいけれど勇気も与えられている。前に進みなさい、とチカラ強くエールを送ってくれている。
式辞みたい、と笑ったときよりも早坂先生は明確に私にエールを送ってくれてる。
「わかりました。私、この気持ちはここに置いていきません。忘れ物は持って帰ります」
私の声はもう震えていなかった。
早坂先生は一瞬目を見開いて、楽しそうに笑った。
「そういうところも、米田らしいよ。最後には明るく強くなるところ。俺がどれだけそれに救われたか」
ぽんぽん、とタオル越しに頭に手のひらが乗る。
そっと見上げると、優しい瞳の先生と目が合った。
「良いよ、忘れ物を大切に持ってくれてても。色々と経験を積んだ後で、それでも取り戻したかったら、そのときは、元生徒の枠を取っ払うよ。米田に向き合うって約束するよ」
「先生…」
「じゃあな。元気で頑張れよ」
片手を挙げて微笑んだ後、早坂先生は霧雨に煙る池のほとりに向かって駆け出した。
大きな背中はどんどん小さくなっていく。
あ、タオル…
頭にのっているタオルを引っ張って、胸に抱えてその香りを吸い込む。
柔軟剤の優しい香りは先生の優しさ、暖かさみたい。
早坂先生の背中は見えなくなっていた。
それでも心には暖かな燈が灯っている。
夏の忘れ物、全部回収できたわけじゃないけど、でも、大切に持っててくれても良いって言ってくれた。大切な私の気持ちを、先生は知ってくれている。
傘を開き、屋根から出て霧雨の緑地公園を歩く。
あのマラソン大会の照明のように、街灯が霧雨を浮かび上がらせていた。
雨と君
夕陽が差し込む誰もいない教室で、私はメガネケースから真新しいメガネを取り出した。
学校の視力検査で引っかかり、眼科受診の後眼鏡屋さんでたくさんのフレームを試着して迷いながらなんとか1本に決めて、昨日受け取ったばかりのメガネ。
友人やクラスメイトから、メガネをかけた自分をどう思われるかわからなくて、自信がなくて、かけられなかったもの。
でも、昨日受け取ったメガネをかけて店内でお試ししてるときに、思ったのだ。
メガネをかけて、教室から見える海が見たい、と。
4階建ての校舎の最上階に私たちのクラスがある。
一緒に帰る友人には1階の昇降口で「忘れ物しちゃって取りに行ってくる。先に帰って良いよ」と伝えた。
「じゃあ待ってるよ」と口々に言ってくれたけど、誰も一緒に行くよとは言わなかった。それで良い。だって誰もいない教室でメガネをかけたかったんだから。
俯き加減でそっとメガネのツルを耳にかけた。まだ慣れなくて恭しい手つきになる。
「わ…っ!」
高台にある校舎の4階から、湾や半島が見えることは聞いていた。
視力が悪すぎて、薄ぼんやりしか見えなかった景色がメガネをかけてクリアになる。
海、半島、風力発電のプロペラ、遊園地の観覧車も見える。
夕陽を受けてキラキラ輝いてる。
「すごい。見てて飽きないかも」
もう少し、あと少しと見ていたい気分だったけど、友人は「待ってるよ」と言ってくれている。もう戻らなきゃ。
メガネを外そうかどうしようか迷って、とりあえずかけたまま教室を出る。
廊下には生徒の作品が飾られているし、渡り廊下から校舎外の景色も見てみたい。
「あー、メガネー!」
昇降口よりもだいぶ手前で、迎えに来てくれた友人と合流した。
友人の前で不思議とメガネを外そうという気にはならなかった。
クリアな視界の新しい発見が楽しかったから。
「うん、メガネ忘れちゃって」
私は笑顔の友人たちに、メガネをかけたまま答える。
「うん、似合う気がする」
「うん、かわいい気がする」
「気がするって」
笑いながらツッコミを入れる。
「なんか見慣れなくて。でもやっぱりかわいいよ」
「似合う気がするよね。朝からメガネすれば良かったのに」
「なんか、自信なくて」
「大丈夫、大丈夫。かわいいし、似合ってる気がするから」
「やっぱり気がするなんだ」
誰もいない教室で、初めてメガネをかけた日。
初めて教室から海を眺めて感動した日。
友人の軽やかな明るさに触れた日。
誰もいない教室