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大学の講義が終わると、霧雨が降っていた。キャンパスの並木道は薄い水のベールが張っているような淡い景色。
マラソン大会が行われた霧雨の陸上競技場の並木道みたい。神谷先生が貸してくれた大きな黒いこうもり傘の中、鈴ちゃんと一緒に歩いたセピア色の世界。

不意に霧雨の柔らかな音を掻き消す水が跳ねる足音が近づき、私の横を足早に人が通り過ぎていく。
「森田くん!?」
「米田さん!?雨、降ってるから!じゃあね!」
「待って!傘!入って!」
走る速さに負けないように叫ぶと、森田くんは足を止めて振り返った。
「駅までだけど」
「やった!」
森田くんは背を縮めて私の傘に入り、俺の方が背が高いからと傘を持ってくれた。
傘を私の方へ傾けて私を濡らさないようにしてくれる。
普通に差してって言ったところで、森田くんは私の方へ傾けるのをやめないだろう。
すごく良い人だってわかってる。
最近、私の時間がある時に、という注釈付きでカフェ巡りを一緒にしたいと誘われたけど、私は断ってしまった。それでも態度を変えずにずっと笑顔で接してくれる。
だから私も今まで通り、森田くんとはゼミの仲間として接することができている。

「俺さ、相合傘初めて」
森田くんが照れ笑いをこぼす。
私はちょっと笑って言った。
「私はあるよ」
「えっ、誰と!?」

中学校2年生の駅伝大会は曇天のち霧雨だった。
私は駅伝の選手として3位で襷を受け取ったのに、競技場には6位で帰ってきて、次の走者の鈴ちゃんに襷を渡した。それで元顧問の早坂先生に練習不足を指摘された。
鈴ちゃんは大会終了後霧雨の陸上競技場を見つめながら私に付き添ってくれた。現顧問の神谷先生が私たちを迎えにきて、二人で入りなさいと自分の傘を貸してくれた。

「中学校のとき、長距離を一緒に走ってた親友の鈴ちゃん。大会後、今日のような霧雨で、顧問が傘を貸してくれたの。先生の背中はしっとり濡れてたのにね」
「良い先生だね」
「うん。その先生に憧れて、鈴ちゃんは中学校の教師になりたいって教育大学に通ってる」
「へえ。…もしかして、米田さんの初恋って、その先生だったり?」
思いもしないことを言われてビックリして森田くんを見上げる。森田くんは私を静かな瞳で見下ろしていた。
霧雨の柔らかな音がする。雨の匂い---ペトリコールが包み込む。

「ち、違うよ。ビックリした」
「そっか。なんか米田さんの特別な想い出のような気がしたから。目が、優しい感じがした」
森田くんはフッと静かに笑みをこぼす。
あのとき恋をしたわけじゃないけど、森田くん、鋭い。
「その2年生の大会の前に、私、捻挫してて。大会では治ってて選手として走ったんだけど、私が順位を落としたの」
森田くんは私の話を黙って聞いてくれている。私は安心して、続きを話した。
「走り終えて、1年のときに顧問だった先生に練習不足を指摘されて叱られて」
「それ、米田さんが捻挫して満足に練習できなかったせいじゃない?」
「森田くん、鈴ちゃんと同じこと言ってる」
私は笑った。森田くん、やっぱり暖かくて良い人だ。
「早坂先生って言うんだけどね。傘を貸してくれた神谷先生に捻挫のことを聞いて、その日のうちに謝ってくれたの。私を子ども扱いしないで、誠心誠意謝ってくれた」
「うん。良かった。米田さんは良い恩師に恵まれたんだね」
「でもね」
なんでだろう。森田くんはすごく話しやすい。
「あんなに謝ってくれたのに、カフェで再会したら、早坂先生、まだ謝り足りなかったんじゃないかって後悔してたの。ビックリだったよ」

大学入学後、バイト先の緑地公園のカフェで再会した日を思い出す。
霧雨で泣いてたからって、ずっと後悔してくれてた早坂先生。
先生の誤解を解いて先生が笑ってくれたとき、楽しいなって思った。すごくすごく楽しいなって。

「そっか。米田さんの好きな人は早坂先生だね」
ズシンと言葉が胸に響いて、ドキドキと鼓動が速く大きく刻み始める。
「その先生とはどうなってる?バイト、辞めてから」
霧雨のように優しい声音で聴いてくれる森田くんに、私は想いを吐露する。
「どうもなってなくて…。私、ずっと…あの夏に忘れ物をしたみたいに感じてる…」

緑の木立、夕焼けを映す池、ひぐらしの音。
早坂先生の笑顔、掴まれた手首、至近距離の横顔、先生の赤くなった頬。
ずっと忘れられない。忘れたくない。

「忘れ物か…。米田さん、その忘れ物、回収した方が良さそうだね」
森田くんが優しく微笑んだ。森田くんは…霧雨のように、傘のように優しくしてくれる。カフェ巡りを無碍に断った私なのに。
「一緒に着いて行こうか?ひとりじゃ心細いんじゃない?」
ううん、と私は小さく首を横に振った。
「先生、ランニングの後でカフェに寄るの、いつも週末だったから、週末に行ってくる」
「週末でも付き合うよ」
森田くんは躊躇いなく私に告げた。
森田くんの強さが、私を後押ししてくれる。躊躇いを取り去ってくれる。
「ありがとう。私ね、本当はもっと前から、忘れ物を探しに行きたいと思ってた。でも、あと一歩の勇気を持てなかった」
「米田さん…でも、今、良い顔してる」
「森田くんのおかげで踏ん切りついた。週末、早坂先生に会いに行こうって」
森田くんがうん、と大きく頷く。
「頑張って。応援してる」
キッパリと告げられた言葉。

応援してる---あの夏、早坂先生にも言われた言葉だ。
暖かくて強い響きを持つ言葉。
「頑張るね」
「うん、頑張れ」
森田くんは大きく頷いてくれた。


週末の夕方も霧雨が降り注いでいた。
早坂先生は霧雨くらいの雨なら緑地公園へランニングに来ていた。だから今日もきっと来てる。
霧雨が緑地公園を薄い水のベールが張っているようにセピア色の世界を作っていた。
それは霧雨がキャンパスをセピア色に変えていたときと同じ。
森田くん、頑張るね。そっと彼の名を囁く。
霧雨が私のズボンの裾をしっとりと濡らしていくことに気づく。あ、これ、帰りに寒くなるかも。
コンテナのカフェ、飲食スペースの屋根はすぐそこ。

屋根の下に駆け込むと、誰かと勢いよくぶつかってしまった。
「あ、ごめんなさ、」
「すみません、って、米田?」
「あ、早坂先生、」

心の準備なく出逢ってしまって、走ったことも相まって心臓の音がうるさく鳴り響く。
「久しぶりだな。バイト以来」
「はい」
首からかけたタオルは変わらず仄かに柔軟剤の良い香りがする。
「悪い。俺とぶつかって米田まで濡れちゃったな。拭いとけ」
ぶつかった肩はほんの少しだけ濡れている。ありがとうございます、という返事は緊張のせいか少し小さくなった。
ふわっと柔らかな温かいタオルは先生の優しさみたい。
タオルを返すとき、先生と私の指先が触れ合う。トクントクンと鼓動が暖かく響く。

「どうした?今日は。ランニングってわけじゃなさそうだし」
傘を差さずにランニングしていた先生は、頭からタオルを被り、ゴシゴシと頭を拭いていた。
自分の頭を拭く手は乱暴なのに、私を見る目は優しい。問いかける声も。
霧雨のペトリコール。中学校の大会での先生との時間は切なかった。

「私、今年の夏に忘れ物をした気がして、探しに来たんです」
「何を?暗くなるからな、すぐ探さなきゃな」
キョロキョロと辺りを見回し始めた早坂先生に、物じゃないんです、と告げる。
私に何かを感じたのか、先生は静かな眼差しで私を見つめた。
「忘れ物は私の気持ちです。先生に伝えたいことがあって…」
声が震える。私は胸元を両手で軽く押さえた。鼓動が手のひらへ伝わる。
「中学のマラソン大会、先生は誤解したって、すごく謝ってくれました。あのとき、早坂先生に子ども扱いされずに謝られて、大人なのにすごいって思いました。その後、バイト先でまだ先生が後悔してることがわかって、私は誤解を解きたくなりました。神谷先生の優しさで泣いただけだから、って。それを聞いて脱力した早坂先生を、かわいいって思っちゃいました」
「恥ずかしいな、俺」先生が口元に手を当てて私から視線を逸らす。
こんなふうに素直だから、きっと中学生相手に本気で謝ってくれた。
そう思ったら、少し落ち着き始めた鼓動はまたトクトクと騒がしくなる。

「カフェで、先生とお話しするのをいつも楽しみにしてました。すごく、楽しかった。
最後の日、私の指先が火傷にならないようにすぐに冷やしてくれたこと、感謝してます。あのときのこと、今思い出してもドキドキします。ドキドキしながら、嫌じゃなかった。先生がすぐそばにいてくれたこと」
そっと早坂先生を見上げる。先生は私をジッと見つめて私の話に耳を傾けてくれていた。
「私、早坂先生のこと、ただの元顧問以上に想ってるみたいです。好き、なんだと思います。好きです」
言葉が震えながら溢れて、瞳が潤む。
声に出して初めて自分の想いを知る。夏の忘れ物は、先生への恋心だった。
潤んで霞む視界で、先生は私を見つめてくれていた。
沈黙を霧雨の音が埋める。ペトリコールが包む。

「米田」
「はい」
先生は優しい声で呼んでくれた。
「ありがとう。俺のこと、そんなふうに想ってくれて。…正直、すごく驚いたけど」
明るく微笑む先生の笑顔はいつも眩しい。
「俺もさ、米田とのカフェの時間、楽しかったよ。あの最後の日、バイトを辞めるって知って、寂しくなるなって言ったのも、俺の本心だったよ」
本当に寂しそうな顔で言ってくれた言葉。先生は誤魔化さずにちゃんと伝えてくれる。
その誠実さに、好き、と胸が熱くなる。

「だけど、元生徒とどうにかなる気持ちは…今はないんだ」
元生徒、という言葉が重くのしかかる。
わかってる。わかってた。早坂先生は神谷先生に憧れてる。生徒想いの神谷先生を目標にしている人だって。
涙が溢れそうになる前に、早坂先生が自分のタオルを私の頭にふわりと被せて、泣きそうな顔を隠してくれる。
暖かな優しさに鼻を啜って、顔にタオルを当てる。
「この先ずっと…ですか?私、元生徒のままですか…?だって、先生、夏の最後の日、私とすごく距離が近くなったとき、頬が赤くなってたのに…」
タオルを口元に当てたまま、そっと見上げる。
先生は一度大きく息を吐き出した。
「鋭いな。あの日、俺の心は揺れてたよ。だから…」
いったん言葉を切ってから、私を見つめた。
「今は元生徒だと思ってるけど、未来はわからない。永遠って難しいから。わかってるのは、米田にはキラキラした出来事がこれからもたくさん待っているよ」

強く微笑まれて、寂しいけれど勇気も与えられている。前に進みなさい、とチカラ強くエールを送ってくれている。
式辞みたい、と笑ったときよりも早坂先生は明確に私にエールを送ってくれてる。
「わかりました。私、この気持ちはここに置いていきません。忘れ物は持って帰ります」
私の声はもう震えていなかった。
早坂先生は一瞬目を見開いて、楽しそうに笑った。
「そういうところも、米田らしいよ。最後には明るく強くなるところ。俺がどれだけそれに救われたか」
ぽんぽん、とタオル越しに頭に手のひらが乗る。
そっと見上げると、優しい瞳の先生と目が合った。
「良いよ、忘れ物を大切に持ってくれてても。色々と経験を積んだ後で、それでも取り戻したかったら、そのときは、元生徒の枠を取っ払うよ。米田に向き合うって約束するよ」
「先生…」
「じゃあな。元気で頑張れよ」

片手を挙げて微笑んだ後、早坂先生は霧雨に煙る池のほとりに向かって駆け出した。
大きな背中はどんどん小さくなっていく。
あ、タオル…
頭にのっているタオルを引っ張って、胸に抱えてその香りを吸い込む。
柔軟剤の優しい香りは先生の優しさ、暖かさみたい。


早坂先生の背中は見えなくなっていた。
それでも心には暖かな燈が灯っている。
夏の忘れ物、全部回収できたわけじゃないけど、でも、大切に持っててくれても良いって言ってくれた。大切な私の気持ちを、先生は知ってくれている。

傘を開き、屋根から出て霧雨の緑地公園を歩く。
あのマラソン大会の照明のように、街灯が霧雨を浮かび上がらせていた。




雨と君

9/7/2025, 10:08:16 PM