僕は持病があってたびたび小児科病棟に入院する子どもだった。
ネフローゼ症候群という病気だった。
「腎臓の病気で再発しやすいから、頑張って治療しようね」と言ってくれたのは、主治医の佐々木先生と看護師の宮島歩さん。二人の優しい笑顔と言葉がけに励まされて、僕は黙って頷いた。
自閉症児でもあった僕はまともに返事もできなかったけれど、二人はいつも笑顔を向けてくれて、そっと触れてくれた。
優しさだけを向けてくれる佐々木先生と歩ちゃんが僕は大好きだった。
歩ちゃんと初めて会った日のことも覚えてる。
病室の大きなベッドの片隅で膝を抱えて座っていた僕に、歩ちゃんは自己紹介がてら、「あゆむ」「あゆみ」って僕の名前の隣に自分の名前を書いたメモを僕の足元にそっと置いてくれた。
僕と自分の名前が1文字違いだとお母さんと楽しそうに笑って、歩ちゃんは病室を後にした。
幼稚園児でもひらがなは読める。僕はメモを持ち続けた。どうしてかわからなかったけど、とても大切なものに思えたから。
歩ちゃんのメモはいつしか僕の宝物になっていた。
いつも握っているからメモがシワだらけになっていることに気づいて、お母さんがカードホルダーに入れてくれた。メモは首にかけられるようになった。
お風呂に入るとき、寝るとき、外遊びをするときは外す約束をして、それ以外はずっと身に付けていた。
歩ちゃんは「もっと可愛く書けば良かった。たくさん色を使ったり、イラストを描いたり、シールを貼ったりすれば良かった」と残念そうに眉を下げてもう1枚描きたいと言ってくれたけど、僕は首を横に振った。
初めて会った日、僕は何も喋らず、歩ちゃんの目も見なかった。それでも戸惑いもせずにただ明るく受け入れてくれた歩ちゃんが僕の味方だと思ったから。
中学校を卒業した春休みの今日、「通院は不要だよ。長い間、よく頑張ったね」と僕の担当の小児科医は検査結果をプリントアウトした用紙を渡しながら伝えてくれた。
その人は、僕が大好きだった佐々木先生じゃない。「歩くん、良かったね」と笑ってくれる看護師さんも歩ちゃんじゃない。
二人はこの病院を僕が小学校の頃に辞めて、佐々木先生の地元の長野県で佐々木先生が開業したクリニックで一緒に働いているから。
「佐々木先生と宮島さん、喜んでくれるね」
ベテランの看護師さんに言われて、僕はちょっと考えて尋ねる。
「佐々木先生と宮島さんに連絡を取れるんですか?」
「え?ええ。宮島さんのLINE、知ってるから」
僕は口数は少ない方だけれど、人と話ができるようになった。
でも自分から発信することは珍しくて、そんな僕に看護師は面食らっている。
僕は服の下に隠していた首元に提げたカードホルダーを外して検査データの用紙の上に置いた。
「写真を撮って、宮島さんに送ってもらいたいです。ありがとうございました、って伝えながら」
「あ…、じゃあ、歩くん、検査データ持って、首からカードを提げるのダメ、かな?その方が宮島さんと佐々木先生、喜ぶと思うし。無理にとは言わないんだけど、」
遠慮がちに提案してくれた看護師さんを見た後、電子カルテに入力する手を止めた小児科医が頷いているのに気づく。
この看護師さんの言うとおり、歩ちゃんと佐々木先生が喜んでくれるなら、と僕はカードホルダーを再び首に提げて検査データを胸元に掲げた。
ホッとしたような看護師さんに少し笑顔を向けると、その顔を写真に撮られた。
「歩くん、良い顔してるよ」
撮ったのは医師だ。
「でも、目線、こっちにちょうだい」
楽しそうに笑う医師に苦笑すると、それを医師と看護師に撮られ、看護師もこっちを向いてとスマホを構える。
上手に撮れた、と二人から見せられたスマホ画面の僕はちゃんと楽しそうに笑っていた。
「あの、僕にもエアドロで送ってくれませんか?」
「ん?」
「両親にも見せようかと思って」
「良いね!」
医師と看護師、それぞれから写真が届く。
「長い間、ありがとうございました」
僕は二人にお礼を言って小児科外来を後にした。
見送ってくれた医師と看護師は楽しげに手を振ってくれていた。
総合病院前のバス停でバスを待つ間、僕は総合病院を眺めた。
外科小児科混合病棟のプレイルームの片隅にいる間、歩ちゃんはいつも僕の隣に座ってくれた。
僕を膝に抱っこすることもなく、遊びにも誘わず、ただ隣に優しい横顔で佇んでくれた。
僕が腎臓の生検をするときも、歩ちゃんとたかひろ先生のペアで検査してくれるなら、と頑張る約束をすることもできたし、頑張って検査に協力することもできた。
毎日飲まなきゃいけない薬も、薬の量が増えたときも、歩ちゃんが僕にわかるように説明してくれたから、ちゃんと飲むことができた。
歩ちゃんが、僕の初恋だったよ。
あの頃の僕にとって、歩ちゃんはたくさんの看護師のうちの1人じゃなかった。
何も言わない、目も合わせない僕に柔らかな笑顔で自分と1文字違いの名前だよと教えてくれた人。
いつも僕のペースに合わせてそっと寄り添ってくれた人。
幼稚園児、小学校の頃は優しくて大好きとしか思っていなかったけれど、中学生になって歩ちゃんを見て胸が熱くなるようになって気づいたんだ。
歩ちゃんが僕の初恋だって。
僕は小児科病棟に入院中、歩ちゃんの姿をよく目で追っていた。
病室のベッドや、廊下からナースステーションを見たり、子どもたちの声が賑やかなプレイルームで。
そのうち、歩ちゃんに1番多く話しかけているのはたかひろ先生だと気づいた。
たかひろ先生は歩ちゃんに笑顔だったり、真剣だったり、時には心配そうな眼差しを向けていた。僕たち子どもに向ける表情とは少し違う。それは、お父さんがお母さんに向ける眼差しと同じ。
たかひろ先生は歩ちゃんのことが好き。
それに初めて気づいた日、僕の胸はざわめいて、僕は笑顔で会話している歩ちゃんとたかひろ先生の間に体を滑り込ませて、歩ちゃんにあっちへ行こうと歩ちゃんの体を押した。
「佐々木先生、すみません」と謝る歩ちゃんの声が遠くに聴こえた。それは明るく優しい声音ではなくて、歩ちゃんを悲しませてしまったんじゃないかと心配し、胸がチリリと痛んだ。
あれは嫉妬だったんだ、と僕は中学生になって気づいた。
歩ちゃんは、最初はたかひろ先生を小児科のお医者さんとして見ていたと思う。
たかひろ先生が僕の病気について説明しているのを聞いて、歩ちゃんは真剣な顔でメモを取っていた。歩ちゃんは家でも勉強しているみたいで、先生は歩ちゃんの努力をいつも褒めていた。
いつしかたかひろ先生はプレイルームによく来てくれるようになった。歩ちゃんは僕の隣でたかひろ先生が子どもたちと遊んでいる姿を微笑んで見つめるようになった。
まるで宝物を閉じ込めるように優しい表情だった。プレイルームに降り注ぐ陽の光みたいに暖かくて、プレイルームに流れる控えめなオルゴールの音色のようにキラキラしていた。
僕以外を見つめる歩ちゃんに少しだけ寂しくなって、僕はカードケースを見下ろした。
「あゆむ」「あゆみ」
もらったときは気づかなかったけれど、とっても丁寧に名前を書いてくれていた。
歩ちゃんの視線に気づいたのか、見たかったから見たのか、佐々木先生が歩ちゃんを見て微笑んだ。
とても優しくて暖かくて、深い笑みだった。
お父さんがお母さんに向けるような笑みで、僕は両親と手を繋いで初めて退院した日を思い出した。
たくさんの着替えや入院に必要な物品が入ったバッグを2つ、肩に重そうに担いで、それでも反対の手で僕の手を握ってくれたお父さん。お母さんがバッグを1つ持つと言っても、大丈夫だよ、とお母さんに持たせなかったお父さん。
きっと佐々木先生も、歩ちゃんを守ってくれる。
優しくて、皆んなの病気を治していく佐々木先生なら、きっと。
僕の心の中の風景は、病室と、明るい陽射しのプレイルームと、歩ちゃんの笑顔と佐々木先生の笑顔がある。
いつか僕にも、僕を見つめてくれる人が現れるのかな。
そのとき僕はちゃんと、僕の想いを打ち明けられるようになっているのかな。
僕の団地方面へ向かうバスに乗り込んで車窓から病院を眺める。
ありがとう、と佐々木先生と歩ちゃんにそっと囁いて。
心の中の風景
雷の音が遠くで響いた。
空は暗く、運動場を吹き抜ける風は冷たい。体育大会の責任者として生徒を見守る俺は、無意識に半袖の腕を組んでいた。鳥肌が立ち、産毛が逆立つ。
校長と教頭を呼び、3人で雷注意報が発令されたことを確認し、体育大会の一時中止を決定する。
グラウンドの指揮台で胸元のホイッスルを吹き、生徒や保護者の視線を集める。放送ブースのテントに入り、放送委員に「天国と地獄」を止めてもらう。
「お知らせいたします。現在、雷が鳴っており、雷注意報が発表されています。騎馬戦を一時中止といたします。生徒の皆さんは校舎内で待機してください。保護者の皆様は体育館へお入りください。」
「ええー!?」
「安全を確認後、再開いたします。」
「神セン、騎馬戦だけやっちゃおうよ!」
騎馬を組む中学生男子が不満を叫び、なかなか崩れない。待機列に並ぶ生徒たちからも、「続けたい!」と声が上がる。
気持ちはわかる。戦況は両チーム互角、休憩後の再開でどうなるかわからない。そして今現在、再開の目処も立っていない。
マイクを切り、テントから出て声を張り上げる。
「早く校舎に入れ! 大切な人を守りたいなら急げ!」
グラウンドから「ヒューっ!」と指笛が響き、冷やかす声が飛び交う。テントを振り返ると、元同僚であり妻である育児休暇中の彩花が穂花を連れて立っていた。彼女の顔は真っ赤に染まり、狼狽えている。
「彩花、穂花。さあ、中に入ろう。」
「はい…剛士さんてば、もう…。」
彩花から穂花を受け取り、そっとグラウンドを振り返る。何人かの男子生徒が、恋人のいるクラスへと駆け出していた。
「思い出に残る体育大会になりそうだな。」
「そうね。」
彩花の微笑みが、雷雲の下でひときわ輝く。遠雷が低く響く。
遠雷
midnight blue
深夜の病院は、まるで世界がそっと息をひそめるような静けさに包まれていた。消毒液の香りと、遠くで響く機械の微かな音が、病棟の空気を満たしていた。
宮島歩は、叔母の美津子の遺体を前に目を瞑って両手を合わせた。美津子を挟んで正面に立つ元同僚の看護師、田中さんも両手を合わせている。そして歩は美津子の顔へ蒸しタオルをしばらく乗せてから、目元、額、頬と順に優しくタオルを滑らせていった。それは、生きている患者と同じ手順で、肌を傷つけないようなら労りがあった。田中さんも同様に、白い腕を優しく清拭している。美津子の肌はまだほのかに温かく、まるで穏やかな眠りについているようだった。
「おばちゃん、後でお化粧もするね。おじちゃんに綺麗なおばちゃんを見てもらおうね。楽しみにしててね」
歩のささやきは、病室の白いカーテンにそっと溶けた。
美津子は、肺がんの骨転移で入院してから、痛みが強く満足に顔も洗いに行けないと嘆いていた。おじちゃんは蒸しタオルで顔を拭い、温泉宿で買ったという化粧水をコットンに浸しておばちゃんに渡していた。「いつもありがとう」と微笑む彼女の掠れた声が、歩の心に今も響いていた。
美津子の肺がんを発見したのは、宮島歩のかつての想い人、外科医の浅尾だった。浅尾は、自分の以前の勤務先であった総合病院の外科へ彼女を紹介し、そこで肺がんがステージ4で頸部のリンパ節転移があると診断された。
手術はできず、入院して抗がん剤と放射線治療が始まった。
美津子はつらい治療を耐え抜き、がんは小さくなって退院できた。
温泉好きの美津子は、「これでまた温泉に行けるわね」と笑い、歩はほっと胸をなでおろした。だが、その安堵は長く続かなかった。
およそ半年後、美津子の腰に鋭い痛みが走った。「転移…」と、彼女は静かに呟いた。病院に行けば、もう家に帰れないかもしれない。そんな予感が、美津子をためらわせた。
叔父の健一は受診を勧めたが、美津子はそっと首を振った。「残りの時間は、家で過ごしたい。たくさん迷惑かけてごめんね」
美津子は健一の手を握り、その手を美津子は自分の頬に押し当てた。健一からも涙が溢れ、ひとしきり二人で泣いた後、健一は覚悟を決めた。妻の心を受け止め、介護に寄り添おう。
美津子が安らぎを感じるのは、熱いお風呂だった。「お湯に浸かると、痛みが少しだけやわらぐの」と、日に何度も湯船に身を委ねた。健一はそんな美津子を支え、時には車で温泉宿へと連れて行った。湯気の向こうで、美津子は目を閉じ、穏やかな笑みを浮かべていた。
だが、温泉からの帰り道、痛みがあまりに強く、美津子は一時意識を失った。健一の懇願で病院を訪れると、骨転移が判明。美津子は緩和ケア病棟へと移った。歩は連絡を受け、仕事の休みを連休にしてもらって、長野県から上京して見舞いに通った。麻薬や硬膜外麻酔チューブを入れて24時間持続的に痛み止めを使っても、痛みは消えず、美津子の表情は常に険しかった。
美津子の身体には管が入り、温泉のような入浴は叶わなかった。歩は美津子の体調を見計らって、清拭や洗髪、足浴でそっと寄り添った。足浴の洗面器には入浴剤を入れる。温泉の匂いなんてしないのに、美津子は「温泉に浸かっているみたい」と微笑んだ。
幼い頃、叔母ちゃん家族と自分の家族で温泉旅行をしたことがある。露天風呂ではしゃいでちょっとだけ泳いで母と叔母ちゃんに叱られてしまったあの日。白く濁った温泉は肌が見えなくなるのが楽しくて、温泉に腕を沈めたり浮ばせたり遊んだあの夕暮れ。「楽しい?」「うん!」大きく頷いて、おばちゃんは「あゆみちゃんと一緒で私も楽しい」と笑っていた。
食事の後、旅館の外へ出て、川のせせらぎを聴きながら群青色の夜空を皆んなで眺めた。
「あゆみちゃん、そばにいてくれてありがとう」
美津子は微かに微笑み、目を閉じて、まもなく眠りについた。
美津子は痛みが強く、麻酔で傾眠状態にさせる方法がとられているからだった。
痩せ細って張りのない手を握りながら、歩の心には、看護師としての無力感が広がった。かつて外科小児科病棟で、憧れの浅尾先生の背中を追いながら、ターミナルケアを学びたいと願ったあの頃。その想いは今、美津子の痛みを前に、もっと強く灯っていた。
美津子が静かに息を引き取ったのは、深夜の病室だった。歩は家族と共に看取り、叔父の健一が美津子へ「ありがとう、よく頑張ったよ」と涙を溢しながら何度も髪を撫でている。
歩はその姿を見つめながら涙を溢していたが、その涙をそっと拭って、おじちゃんの肩にそっと触れて、おばちゃんの身体を清拭して着替えるね、と告げる。おじちゃんは頷き、病室を後にした。
姪として、かつての職場の看護師として、歩は田中さんと共に美津子の身体を清拭した。タオルを動かしながら、歩はふとホスピスの話を思い出した。亡くなった後、入浴ケアを行う施設もあると聞いたことがある。もし自分がもっと知識を持っていたら、美津子を温泉のような温もりに浸らせてあげられたかもしれない。無力感と、学びたいという想いが、歩の心で静かに響き合った。
着替え終わった後、おじちゃんを病室へ招き入れ、おじちゃんにいつものように化粧水で顔の保湿をしてもらう。
おじちゃんは震える手でコットンを滑らせていった。歩はその後で乳液を乗せ、化粧下地を馴染ませた後、ファンデーションをはたいていった。血色が良くなるようチークやリップを施すと、おばちゃんは穏やかに眠っているようだった。
健一は「あゆみちゃんが綺麗にしてくれたよ」と美津子の頬を撫でた。
美津子と健一を載せた霊柩車が病院のロータリーを離れる。赤いテールランプが闇に揺れ、病院の地下から深夜の地上へと吸い込まれて行った。
歩の隣には、小児科医で現在の職場の上司でもある婚約者の佐々木貴弘が静かに立っていた。彼の手の温もりが、歩の凍えた心をそっと包んだ。見上げると、ミッドナイトブルーの空が広がっていた。星のない、深い青が、美津子と共に見上げた温泉宿の夜を思い出させた。
「外科小児科病棟にいた頃のこと、話してもいい?」
歩の囁く声は、夜の空気にそっと溶けた。貴弘は優しく頷き、彼女の言葉を待った。
「あの頃、貴弘さんが開業するクリニックに誘ってくれたけど、外科を学びたいからって断ったよね」
「うん、そうだったね」
貴弘の声は柔らかく、過去を温かく受け止めるようだった。あの頃、歩は浅尾先生に憧れて、浅尾先生の力になりたいと人一倍頑張っていた。貴弘はそんな歩に片想いしながら、そっと見守っていた。
「ターミナル期のことを学びたくて」
歩の声は、そっと震えた。「おばちゃんの痛み、薬でも取れなかった。そばにいるのに、何もできなくて。ホスピスで入浴ケアがあるって聞いたけど、私にはその知識がなくて…」
歩の目に涙が滲んだ。「力になりたいのに、なれてる自信もないし、そんなの烏滸がましいのかなって」
「わかるよ、歩の気持ち」
貴弘の声は、まるで夜空のように穏やかだった。彼もまた、医者として、救えない命の重さを知っていた。
ミッドナイトブルーの空の下、二人の間に静かな時間が流れた。歩は美津子の言葉を思い出した。「あゆみちゃん、そばにいてくれてありがとう」微笑んでくれたおばちゃん。何度も伝えてくれた。おばちゃんもおじちゃんも。
私、少しは力になれたのかな。
貴弘が静かに言った。「あの頃、歩は小児科ナースが合うって思ったし、そう伝えた。今もその想いは変わらないよ」
歩は涙を堪え、そっと頷いた。貴弘の言葉は、彼女の迷いを優しく包んだ。
「でも、ターミナル期にもキミは合うよ。キミの寄り添いは、温かくて優しい。おばちゃんも、きっとそう感じてた」
歩の頬を涙が滑り落ちた。貴弘はポケットからハンカチを取り出し、そっと拭った。その仕草は、歩の心の傷をやわらかく癒すようだった。
「看護師の仕事は広いよ。小児科だけじゃなくていい。ターミナルケアを学びたいなら、それがキミの道だ」
「貴弘さん…」
歩の声は震え、言葉が途切れた。貴弘は微笑み、そっと続けた。
「勉強したいんだよね? いいよ。キミの生き方は、キミにしかできない。僕の夢はもう叶ってる。歩とクリニックで一緒に働くこと。プロポーズをOKしてくれたこと。…これからの夢も、たくさんあるから、ゆっくり叶えていこうね」
貴弘の笑顔は、深い夜空のようだった。歩は小さく微笑み、涙をこらえながら言った。
「ターミナル期のことも勉強して、小児科にも生かしたい。おばちゃんのためにも、子どもたちのためにも」
「うん、ありがとう、歩」
貴弘は歩をそっと胸に引き寄せた。歩は彼の鼓動を感じながら、泣き止むまでその温もりに身を委ねた。ミッドナイトブルーの空は、二人の未来を優しく見守っていた。美津子の愛した温泉の湯気のように、歩の心に温かな決意が広がった。ターミナルケアを学び、子どもたちや家族に寄り添うこと。自分にしかできない看護を、歩み続けたいと。
夜空の青は、まるで二人の新しい一歩をそっと祝福するように、静かに輝いていた。
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midnight blue
「泡になりたいな」
私の隣でレモン酎ハイを傾けている同僚が吐息混じりに呟いた。
彼女のレモン酎ハイからはジョッキの下に沈んだレモンの種から微細な気泡が上昇していた。
確かこの気泡って閉じ込めてある炭酸ガスが刺激されて、炭酸ガスイコール二酸化炭素が発泡する現象だった気がする。
シュワシュワと細かな気泡は見てる分には飽きないような気がする?どうだろ?
「二酸化炭素になりたいってこと?」
彼女、宮島さんは私と同期の看護師。
私たちは既婚者である外科医の浅尾先生に不毛な恋をしている。って、宮島さんは私が浅尾先生を好きなことを知らないけれど。
「じゃなくて、酸素の方。水が温まると溶けてた酸素が気泡になるでしょ?私も人を温めて、酸素の泡として人の役に立てたらいいなあって」
頬を紅潮させて力なくへにゃりと笑う顔は同性から見ても可愛い。
「好きな人の役に立ちたいんだ?」
私は自分のシャンパンを一口飲んでクスッと笑った。
彼、浅尾先生は既婚者なのに、宮島さんに秘めた恋をしている。
二人は実際は両想いで、浅尾先生は宮島さんの好意を知っていて、宮島さんは浅尾先生の恋を知らない。浅尾先生も教えるつもりはない、はず。
「うん」と恥じらいつつ頷いた宮島さんは、両頬を両手でパタパタと扇ぎながら「あつーい」と笑っている。
「でも、酸素で良かった」
「ん?」
「人魚姫みたいになりたいって言われたらどうしようかと思った」
ポツリと呟いた声は、自分が思った以上に寂しげでドキッとした。
王子様に失恋して、王子様を刺して人魚に戻らずに海の泡として消えてしまった人魚姫。
初めて読んだのは、小学校の教室の後ろに並べられた絵本だった。
悲しい物語はずっと心に残り、中学生になって、人魚姫の結末が自己犠牲の愛のカタチだと知った。
「…私、片想いしてるけど、今でじゅうぶん幸せだから」
でも、あなたはもっと浅尾先生の役に立ちたいと思っているんでしょう?
ちょっとだけ悔しいけれど、宮島さんは誰よりも浅尾先生のために一生懸命に看護師の仕事をしてる。でも、まだ、浅尾先生の役に立ちたいんだね。
「ふぅん。じゃあ私は酸化ヘモグロビンになろうかな」
「あっ、ズルい。古川さん!」
「ズルいって」
真剣に抗議の声を上げる宮島さんに笑ってしまう。
私は酸化ヘモグロビンになって、浅尾先生の全身の血液中を巡り巡って酸素を届けて、彼の身体を活性化させてあげよう。
「二人の会話、聴こえちゃった。面白い話をしてるね」
「佐々木先生、お疲れさまです。救急の患者さん、大丈夫でした?」
「うん、単純性の熱性けいれんだったからね。様子見て帰宅させたよ」
小児科医の佐々木先生は穏やかに笑った。
飲み会始まってすぐに呼ばれてそろそろお開きになる時間だと言うのに、笑顔を絶やさない穏やかさは私も見習わなくちゃと思う。
「それで?なんで酸化ヘモグロビンの話?」
小児科の待機当番だからと烏龍茶を頼んだ佐々木先生は、さっそく私に水を向けた。
ほんとは宮島さんと話したいですよね、なんて思ってしまう。
さりげなく宮島さんの前に座ってるし、佐々木先生は宮島さんのことを好きなことを視線や態度に隠してないし隠そうとも思っていないのは明白だから。
酸化ヘモグロビンの話に至った経緯を話すと、僕は、と私のシャンパングラスを指差した。
「シャンパンですか?」
宮島さんが尋ねる。「綺麗だからかなあ」なんて酔っている宮島さんは普段の聡明さはどこへやら、子どもみたいな感想を漏らした。
「正確にはシャンパンの泡。
シャンパンの泡ってね、『天使の拍手』『幸せが湧き上がる』なんて言われていてね、二人の幸せが永遠に続くことを意味してるんだよ」
シャンパンを注いでもらったときの、気泡が弾けて小さな音を立てながらたくさんの泡が立ち上っていたことを思い出す。
「あ、だから結婚式の乾杯はシャンパンなんだ」
「うん、古川さん、その通り」
佐々木先生が私に笑いかけて、私も笑う。
シャンパンの泡になりたい、だなんて、佐々木先生は随分とロマンチストだなあと思う。
肝心の宮島さんには佐々木先生の好意は届いていなさそうだけど、でも、佐々木先生は穏やかに微笑んで楽しそうだ。
『天使の拍手』『幸せが湧き上がる』
シャンパンの泡の意味、素敵だなあ。
それを知ってる佐々木先生が、さりげなく私たちに教えてくれるって、素敵なこと。
こんなふうに佐々木先生はいつも患児や家族、私たちスタッフにも優しく寄り添ってくれる。
佐々木先生に愛される人---宮島さんが佐々木先生の手を取ったなら、宮島さんは絶対に幸せになれるはずなのに。
現実の宮島さんは離れた席にいる浅尾先生の後ろ姿を眺めていて、佐々木先生は宮島さんの視線をたどって一瞬だけ唇を噛んだ。
私と目が合った佐々木先生が、あ、と小さく声を漏らして額に手を当てた後、肩をすくめた。
「妬いたの、バレちゃった?」
「はい」
私にコッソリ問いかけ、私は肯定する。
宮島さんには内緒にね、という意味で佐々木先生は自分の口元に人差し指を立てて悪戯っぽく笑った。
そこには浅尾先生の嫉妬を綺麗に消し去った佐々木先生がいる。
「佐々木先生、お疲れさまです!救急の子、大丈夫でした?」
「あ、うん。熱性けいれんだったんだけど---」
佐々木先生が外科の看護師に囲まれて、私たちと一緒に飲もうと外科ナースの集団へ連れて行かれる。
佐々木先生が宮島さんを好きだとこの飲み会で認めさせちゃおう!と宮島さん不在の昼休憩で盛り上がっていた集団だ。
小児科ナースは宮島さんと一緒に飲みたいと連れて行く。
小児科ナースたちは佐々木先生を慕っている。
佐々木先生が宮島さんへの好意を隠していないことと、宮島さんは素直な頑張り屋だから、彼女への信頼はとても厚い。
宮島さんの浅尾先生への想いは知られていないだろうから、佐々木先生の恋を皆んなで応援しちゃうのだろう。
「泡になりたい」「片想いしてるけど、今でじゅうぶん幸せだから」
宮島さんの呟きは私の耳に残ってる。
佐々木先生の恋を応援するが故に、彼女の秘めた恋を暴かないでほしい。宮島さん今、それで幸せだから。
そう願うのは、私の恋も暴かないでいてほしいと思うからか。
目の前のシャンパンは琥珀色に輝きを放っている。
誰しもきっとシャンパンの泡のような恋がしたくて、でも、それはひと握りで。
「泡になりたい」
彼女と初めて結ばれて幸せだと思った月明かりの夜。
翌朝、朝陽の明るさに目覚めると、彼女が居たはずのシーツは冷たく、浴衣は元通りに畳まれていた。
彼女は元彼を忘れて俺のことを好きになってくれたと思っていたのに、それは俺の独りよがりだったのだろうか?
波が寄せては返す波打ち際に白いワンピース姿で座って波音に耳を澄ます彼女。
朝陽を受けて波がキラキラ輝いている。
真っ白なワンピースが眩しい。
ふと、旅館の白いシーツを思い出した。彼女不在の真っ白なシーツとその冷たさを。
波音に耳を澄ませた彼女は何を想っているのだろう。
それはきっと、俺のことではなくて……
あの初めて結ばれた翌朝から、俺たちに流れる空気はなんとなくよそよそしくなったように思う。
どこかお互いの顔色を伺うような、意識的に笑顔を見せているような気がする。
気のせいだったら良いのだけど……アイスコーヒーを飲む彼女の横顔を伺う。
「味見したい?」
「え、」
「ジッと見てくるから」
「……あ、うん、俺のも良かったら」
「ううん、コーラはどこで飲んでも一緒だもん」
「…だよな」
彼女のブラックコーヒーに口をつける。
苦い。めちゃくちゃ苦い。
一口飲んで顔を顰めた俺に、彼女はふふっと笑った。
「どうせお子様舌だよ」
アイスコーヒーを返す。同じ歳だけど、彼女の方が大人だと思い知る。味覚だけじゃなくて、何もかも。
俺が初めて結ばれた人は彼女だけど、彼女はすでに経験していた。元彼と。
「あの……私、手紙を書いたの。言葉で話すの、難しいと思って」
彼女がバッグから真っ白な封筒を取り出して両手で差し出した。
俺の名前が細く小さめな丁寧な文字で書かれていた。
封筒の裏をひっくり返すと、彼女の名前が宛名よりさらに小さな文字で書かれていた。
封をした水色のマスキングテープが、あの渚を思い出させる。
心臓が強く打ち付け、鳴り止まない。
この手紙には何が書いてあるのだろうか。
愛の言葉、別れの言葉…。
薄い封筒なのに重たさを感じて、指先が微かに震え始める。
俺は封筒が折れ曲がらないように注意深くカバンへ入れた。
彼女が一連の流れを不安そうに見守っている。
心配してくれるのなら、まだ、俺に可能性が残されているのだろうか。
「帰ろうか」
「……うん」
彼女を家まで送る。その間、手紙のことは俺も彼女も一切触れなかった。
一刻も早く手紙を読んで、彼女の想いを知って、俺の想いを告げてしまえばこのよそよそしい関係から脱せられるかもしれないのに。
ベッドに寝転び白い封筒を手にしても、開封する勇気が持てない。
水色のマスキングテープは意図的か、偶然か。
眠れない夜を過ごし、空が白んだ頃眠ったらしい俺が起きたのは、太陽が真上に登ってからだった。
歯磨きをして身支度を整えて彼女からの白い封筒に入った手紙をまたカバンに入れる。
ローカル線とバスを乗り継ぎ、あの渚に向かう。
初めて二人で旅したあの海岸へ。一人で。
彼女が波音に耳を澄ませていた海岸へ到着したのは、空が夕焼けに移行しつつある時間だった。
手にしている白い封筒に目を留める。
あの日着ていた彼女のワンピースと旅館のシーツの白い冷たさを思い出して、水色のマスキングテープを剥がす勇気が出ない。
手紙を読むのが怖い。読まなければ彼女の想いを受け取ることができないのに、受け取るのが怖い。
そのまま歩き続けて桟橋に辿り着いた。
桟橋の先で、手紙を読もう。そう決めて、桟橋を歩く。
キシキシと歩くたびに小さな音が鳴っているけれど、それ以上に絶え間なく果てしなく続く波音が心を揺らしている。
俺は、彼女が好き。
きっと手紙を読んでも。変わらずに好きだ。
テープを外し、便箋を開く。
細く小さめな丁寧な文字が並ぶ。彼女らしい繊細さと可愛らしさに知らず笑みが溢れる。
「二人で旅行した日、楽しかった。あなたの想いが嬉しかったのも本当だよ。あの夜、幸せだとも思った。
だけど……私の気持ちがあなただけに向いているのかどうか、正直わからない。
こんな中途半端な気持ちであなたのそばにいることが心苦しくなることがあるの。
あなただけを愛したいから、私に時間をください。
お願いします」
彼女の心はやはり揺れている。
寄せては返す波のように、俺と元彼の間で。
それを誠実に手紙に認めてくれて、俺はホッと息を吐いた。
俺を簡単に切り離さず、嘘を吐かず、誠実な彼女は俺の好きになった彼女のままだった。
彼女はきっと答えを導き出す。
時間をかけた結果、俺だけを好きだ確信してくれるかはわからない。
だけど、俺は彼女のことが好きだから。待ってる。
便箋を封筒に入れて、水色のマスキングテープをしっかりと押さえた。
桟橋から手を伸ばして海へ差し出すと手紙は海へ滑り落ちていった。
キラキラ光る海に白い封筒が漂う。
彼女の気持ちはわかった。
俺は彼女を待つことに決めた。
それで良い。
彼女の憂いは、彼女が最終的にどうするか決めた後には、なかったことになった方がきっと良い。
夕焼け色にキラキラ光る海は美しい。
「波にさらわれた手紙」