僕は持病があってたびたび小児科病棟に入院する子どもだった。
ネフローゼ症候群という病気だった。
「腎臓の病気で再発しやすいから、頑張って治療しようね」と言ってくれたのは、主治医の佐々木先生と看護師の宮島歩さん。二人の優しい笑顔と言葉がけに励まされて、僕は黙って頷いた。
自閉症児でもあった僕はまともに返事もできなかったけれど、二人はいつも笑顔を向けてくれて、そっと触れてくれた。
優しさだけを向けてくれる佐々木先生と歩ちゃんが僕は大好きだった。
歩ちゃんと初めて会った日のことも覚えてる。
病室の大きなベッドの片隅で膝を抱えて座っていた僕に、歩ちゃんは自己紹介がてら、「あゆむ」「あゆみ」って僕の名前の隣に自分の名前を書いたメモを僕の足元にそっと置いてくれた。
僕と自分の名前が1文字違いだとお母さんと楽しそうに笑って、歩ちゃんは病室を後にした。
幼稚園児でもひらがなは読める。僕はメモを持ち続けた。どうしてかわからなかったけど、とても大切なものに思えたから。
歩ちゃんのメモはいつしか僕の宝物になっていた。
いつも握っているからメモがシワだらけになっていることに気づいて、お母さんがカードホルダーに入れてくれた。メモは首にかけられるようになった。
お風呂に入るとき、寝るとき、外遊びをするときは外す約束をして、それ以外はずっと身に付けていた。
歩ちゃんは「もっと可愛く書けば良かった。たくさん色を使ったり、イラストを描いたり、シールを貼ったりすれば良かった」と残念そうに眉を下げてもう1枚描きたいと言ってくれたけど、僕は首を横に振った。
初めて会った日、僕は何も喋らず、歩ちゃんの目も見なかった。それでも戸惑いもせずにただ明るく受け入れてくれた歩ちゃんが僕の味方だと思ったから。
中学校を卒業した春休みの今日、「通院は不要だよ。長い間、よく頑張ったね」と僕の担当の小児科医は検査結果をプリントアウトした用紙を渡しながら伝えてくれた。
その人は、僕が大好きだった佐々木先生じゃない。「歩くん、良かったね」と笑ってくれる看護師さんも歩ちゃんじゃない。
二人はこの病院を僕が小学校の頃に辞めて、佐々木先生の地元の長野県で佐々木先生が開業したクリニックで一緒に働いているから。
「佐々木先生と宮島さん、喜んでくれるね」
ベテランの看護師さんに言われて、僕はちょっと考えて尋ねる。
「佐々木先生と宮島さんに連絡を取れるんですか?」
「え?ええ。宮島さんのLINE、知ってるから」
僕は口数は少ない方だけれど、人と話ができるようになった。
でも自分から発信することは珍しくて、そんな僕に看護師は面食らっている。
僕は服の下に隠していた首元に提げたカードホルダーを外して検査データの用紙の上に置いた。
「写真を撮って、宮島さんに送ってもらいたいです。ありがとうございました、って伝えながら」
「あ…、じゃあ、歩くん、検査データ持って、首からカードを提げるのダメ、かな?その方が宮島さんと佐々木先生、喜ぶと思うし。無理にとは言わないんだけど、」
遠慮がちに提案してくれた看護師さんを見た後、電子カルテに入力する手を止めた小児科医が頷いているのに気づく。
この看護師さんの言うとおり、歩ちゃんと佐々木先生が喜んでくれるなら、と僕はカードホルダーを再び首に提げて検査データを胸元に掲げた。
ホッとしたような看護師さんに少し笑顔を向けると、その顔を写真に撮られた。
「歩くん、良い顔してるよ」
撮ったのは医師だ。
「でも、目線、こっちにちょうだい」
楽しそうに笑う医師に苦笑すると、それを医師と看護師に撮られ、看護師もこっちを向いてとスマホを構える。
上手に撮れた、と二人から見せられたスマホ画面の僕はちゃんと楽しそうに笑っていた。
「あの、僕にもエアドロで送ってくれませんか?」
「ん?」
「両親にも見せようかと思って」
「良いね!」
医師と看護師、それぞれから写真が届く。
「長い間、ありがとうございました」
僕は二人にお礼を言って小児科外来を後にした。
見送ってくれた医師と看護師は楽しげに手を振ってくれていた。
総合病院前のバス停でバスを待つ間、僕は総合病院を眺めた。
外科小児科混合病棟のプレイルームの片隅にいる間、歩ちゃんはいつも僕の隣に座ってくれた。
僕を膝に抱っこすることもなく、遊びにも誘わず、ただ隣に優しい横顔で佇んでくれた。
僕が腎臓の生検をするときも、歩ちゃんとたかひろ先生のペアで検査してくれるなら、と頑張る約束をすることもできたし、頑張って検査に協力することもできた。
毎日飲まなきゃいけない薬も、薬の量が増えたときも、歩ちゃんが僕にわかるように説明してくれたから、ちゃんと飲むことができた。
歩ちゃんが、僕の初恋だったよ。
あの頃の僕にとって、歩ちゃんはたくさんの看護師のうちの1人じゃなかった。
何も言わない、目も合わせない僕に柔らかな笑顔で自分と1文字違いの名前だよと教えてくれた人。
いつも僕のペースに合わせてそっと寄り添ってくれた人。
幼稚園児、小学校の頃は優しくて大好きとしか思っていなかったけれど、中学生になって歩ちゃんを見て胸が熱くなるようになって気づいたんだ。
歩ちゃんが僕の初恋だって。
僕は小児科病棟に入院中、歩ちゃんの姿をよく目で追っていた。
病室のベッドや、廊下からナースステーションを見たり、子どもたちの声が賑やかなプレイルームで。
そのうち、歩ちゃんに1番多く話しかけているのはたかひろ先生だと気づいた。
たかひろ先生は歩ちゃんに笑顔だったり、真剣だったり、時には心配そうな眼差しを向けていた。僕たち子どもに向ける表情とは少し違う。それは、お父さんがお母さんに向ける眼差しと同じ。
たかひろ先生は歩ちゃんのことが好き。
それに初めて気づいた日、僕の胸はざわめいて、僕は笑顔で会話している歩ちゃんとたかひろ先生の間に体を滑り込ませて、歩ちゃんにあっちへ行こうと歩ちゃんの体を押した。
「佐々木先生、すみません」と謝る歩ちゃんの声が遠くに聴こえた。それは明るく優しい声音ではなくて、歩ちゃんを悲しませてしまったんじゃないかと心配し、胸がチリリと痛んだ。
あれは嫉妬だったんだ、と僕は中学生になって気づいた。
歩ちゃんは、最初はたかひろ先生を小児科のお医者さんとして見ていたと思う。
たかひろ先生が僕の病気について説明しているのを聞いて、歩ちゃんは真剣な顔でメモを取っていた。歩ちゃんは家でも勉強しているみたいで、先生は歩ちゃんの努力をいつも褒めていた。
いつしかたかひろ先生はプレイルームによく来てくれるようになった。歩ちゃんは僕の隣でたかひろ先生が子どもたちと遊んでいる姿を微笑んで見つめるようになった。
まるで宝物を閉じ込めるように優しい表情だった。プレイルームに降り注ぐ陽の光みたいに暖かくて、プレイルームに流れる控えめなオルゴールの音色のようにキラキラしていた。
僕以外を見つめる歩ちゃんに少しだけ寂しくなって、僕はカードケースを見下ろした。
「あゆむ」「あゆみ」
もらったときは気づかなかったけれど、とっても丁寧に名前を書いてくれていた。
歩ちゃんの視線に気づいたのか、見たかったから見たのか、佐々木先生が歩ちゃんを見て微笑んだ。
とても優しくて暖かくて、深い笑みだった。
お父さんがお母さんに向けるような笑みで、僕は両親と手を繋いで初めて退院した日を思い出した。
たくさんの着替えや入院に必要な物品が入ったバッグを2つ、肩に重そうに担いで、それでも反対の手で僕の手を握ってくれたお父さん。お母さんがバッグを1つ持つと言っても、大丈夫だよ、とお母さんに持たせなかったお父さん。
きっと佐々木先生も、歩ちゃんを守ってくれる。
優しくて、皆んなの病気を治していく佐々木先生なら、きっと。
僕の心の中の風景は、病室と、明るい陽射しのプレイルームと、歩ちゃんの笑顔と佐々木先生の笑顔がある。
いつか僕にも、僕を見つめてくれる人が現れるのかな。
そのとき僕はちゃんと、僕の想いを打ち明けられるようになっているのかな。
僕の団地方面へ向かうバスに乗り込んで車窓から病院を眺める。
ありがとう、と佐々木先生と歩ちゃんにそっと囁いて。
心の中の風景
8/30/2025, 1:56:44 AM