midnight blue
深夜の病院は、まるで世界がそっと息をひそめるような静けさに包まれていた。消毒液の香りと、遠くで響く機械の微かな音が、病棟の空気を満たしていた。
宮島歩は、叔母の美津子の遺体を前に目を瞑って両手を合わせた。美津子を挟んで正面に立つ元同僚の看護師、田中さんも両手を合わせている。そして歩は美津子の顔へ蒸しタオルをしばらく乗せてから、目元、額、頬と順に優しくタオルを滑らせていった。それは、生きている患者と同じ手順で、肌を傷つけないようなら労りがあった。田中さんも同様に、白い腕を優しく清拭している。美津子の肌はまだほのかに温かく、まるで穏やかな眠りについているようだった。
「おばちゃん、後でお化粧もするね。おじちゃんに綺麗なおばちゃんを見てもらおうね。楽しみにしててね」
歩のささやきは、病室の白いカーテンにそっと溶けた。
美津子は、肺がんの骨転移で入院してから、痛みが強く満足に顔も洗いに行けないと嘆いていた。おじちゃんは蒸しタオルで顔を拭い、温泉宿で買ったという化粧水をコットンに浸しておばちゃんに渡していた。「いつもありがとう」と微笑む彼女の掠れた声が、歩の心に今も響いていた。
美津子の肺がんを発見したのは、宮島歩のかつての想い人、外科医の浅尾だった。浅尾は、自分の以前の勤務先であった総合病院の外科へ彼女を紹介し、そこで肺がんがステージ4で頸部のリンパ節転移があると診断された。
手術はできず、入院して抗がん剤と放射線治療が始まった。
美津子はつらい治療を耐え抜き、がんは小さくなって退院できた。
温泉好きの美津子は、「これでまた温泉に行けるわね」と笑い、歩はほっと胸をなでおろした。だが、その安堵は長く続かなかった。
およそ半年後、美津子の腰に鋭い痛みが走った。「転移…」と、彼女は静かに呟いた。病院に行けば、もう家に帰れないかもしれない。そんな予感が、美津子をためらわせた。
叔父の健一は受診を勧めたが、美津子はそっと首を振った。「残りの時間は、家で過ごしたい。たくさん迷惑かけてごめんね」
美津子は健一の手を握り、その手を美津子は自分の頬に押し当てた。健一からも涙が溢れ、ひとしきり二人で泣いた後、健一は覚悟を決めた。妻の心を受け止め、介護に寄り添おう。
美津子が安らぎを感じるのは、熱いお風呂だった。「お湯に浸かると、痛みが少しだけやわらぐの」と、日に何度も湯船に身を委ねた。健一はそんな美津子を支え、時には車で温泉宿へと連れて行った。湯気の向こうで、美津子は目を閉じ、穏やかな笑みを浮かべていた。
だが、温泉からの帰り道、痛みがあまりに強く、美津子は一時意識を失った。健一の懇願で病院を訪れると、骨転移が判明。美津子は緩和ケア病棟へと移った。歩は連絡を受け、仕事の休みを連休にしてもらって、長野県から上京して見舞いに通った。麻薬や硬膜外麻酔チューブを入れて24時間持続的に痛み止めを使っても、痛みは消えず、美津子の表情は常に険しかった。
美津子の身体には管が入り、温泉のような入浴は叶わなかった。歩は美津子の体調を見計らって、清拭や洗髪、足浴でそっと寄り添った。足浴の洗面器には入浴剤を入れる。温泉の匂いなんてしないのに、美津子は「温泉に浸かっているみたい」と微笑んだ。
幼い頃、叔母ちゃん家族と自分の家族で温泉旅行をしたことがある。露天風呂ではしゃいでちょっとだけ泳いで母と叔母ちゃんに叱られてしまったあの日。白く濁った温泉は肌が見えなくなるのが楽しくて、温泉に腕を沈めたり浮ばせたり遊んだあの夕暮れ。「楽しい?」「うん!」大きく頷いて、おばちゃんは「あゆみちゃんと一緒で私も楽しい」と笑っていた。
食事の後、旅館の外へ出て、川のせせらぎを聴きながら群青色の夜空を皆んなで眺めた。
「あゆみちゃん、そばにいてくれてありがとう」
美津子は微かに微笑み、目を閉じて、まもなく眠りについた。
美津子は痛みが強く、麻酔で傾眠状態にさせる方法がとられているからだった。
痩せ細って張りのない手を握りながら、歩の心には、看護師としての無力感が広がった。かつて外科小児科病棟で、憧れの浅尾先生の背中を追いながら、ターミナルケアを学びたいと願ったあの頃。その想いは今、美津子の痛みを前に、もっと強く灯っていた。
美津子が静かに息を引き取ったのは、深夜の病室だった。歩は家族と共に看取り、叔父の健一が美津子へ「ありがとう、よく頑張ったよ」と涙を溢しながら何度も髪を撫でている。
歩はその姿を見つめながら涙を溢していたが、その涙をそっと拭って、おじちゃんの肩にそっと触れて、おばちゃんの身体を清拭して着替えるね、と告げる。おじちゃんは頷き、病室を後にした。
姪として、かつての職場の看護師として、歩は田中さんと共に美津子の身体を清拭した。タオルを動かしながら、歩はふとホスピスの話を思い出した。亡くなった後、入浴ケアを行う施設もあると聞いたことがある。もし自分がもっと知識を持っていたら、美津子を温泉のような温もりに浸らせてあげられたかもしれない。無力感と、学びたいという想いが、歩の心で静かに響き合った。
着替え終わった後、おじちゃんを病室へ招き入れ、おじちゃんにいつものように化粧水で顔の保湿をしてもらう。
おじちゃんは震える手でコットンを滑らせていった。歩はその後で乳液を乗せ、化粧下地を馴染ませた後、ファンデーションをはたいていった。血色が良くなるようチークやリップを施すと、おばちゃんは穏やかに眠っているようだった。
健一は「あゆみちゃんが綺麗にしてくれたよ」と美津子の頬を撫でた。
美津子と健一を載せた霊柩車が病院のロータリーを離れる。赤いテールランプが闇に揺れ、病院の地下から深夜の地上へと吸い込まれて行った。
歩の隣には、小児科医で現在の職場の上司でもある婚約者の佐々木貴弘が静かに立っていた。彼の手の温もりが、歩の凍えた心をそっと包んだ。見上げると、ミッドナイトブルーの空が広がっていた。星のない、深い青が、美津子と共に見上げた温泉宿の夜を思い出させた。
「外科小児科病棟にいた頃のこと、話してもいい?」
歩の囁く声は、夜の空気にそっと溶けた。貴弘は優しく頷き、彼女の言葉を待った。
「あの頃、貴弘さんが開業するクリニックに誘ってくれたけど、外科を学びたいからって断ったよね」
「うん、そうだったね」
貴弘の声は柔らかく、過去を温かく受け止めるようだった。あの頃、歩は浅尾先生に憧れて、浅尾先生の力になりたいと人一倍頑張っていた。貴弘はそんな歩に片想いしながら、そっと見守っていた。
「ターミナル期のことを学びたくて」
歩の声は、そっと震えた。「おばちゃんの痛み、薬でも取れなかった。そばにいるのに、何もできなくて。ホスピスで入浴ケアがあるって聞いたけど、私にはその知識がなくて…」
歩の目に涙が滲んだ。「力になりたいのに、なれてる自信もないし、そんなの烏滸がましいのかなって」
「わかるよ、歩の気持ち」
貴弘の声は、まるで夜空のように穏やかだった。彼もまた、医者として、救えない命の重さを知っていた。
ミッドナイトブルーの空の下、二人の間に静かな時間が流れた。歩は美津子の言葉を思い出した。「あゆみちゃん、そばにいてくれてありがとう」微笑んでくれたおばちゃん。何度も伝えてくれた。おばちゃんもおじちゃんも。
私、少しは力になれたのかな。
貴弘が静かに言った。「あの頃、歩は小児科ナースが合うって思ったし、そう伝えた。今もその想いは変わらないよ」
歩は涙を堪え、そっと頷いた。貴弘の言葉は、彼女の迷いを優しく包んだ。
「でも、ターミナル期にもキミは合うよ。キミの寄り添いは、温かくて優しい。おばちゃんも、きっとそう感じてた」
歩の頬を涙が滑り落ちた。貴弘はポケットからハンカチを取り出し、そっと拭った。その仕草は、歩の心の傷をやわらかく癒すようだった。
「看護師の仕事は広いよ。小児科だけじゃなくていい。ターミナルケアを学びたいなら、それがキミの道だ」
「貴弘さん…」
歩の声は震え、言葉が途切れた。貴弘は微笑み、そっと続けた。
「勉強したいんだよね? いいよ。キミの生き方は、キミにしかできない。僕の夢はもう叶ってる。歩とクリニックで一緒に働くこと。プロポーズをOKしてくれたこと。…これからの夢も、たくさんあるから、ゆっくり叶えていこうね」
貴弘の笑顔は、深い夜空のようだった。歩は小さく微笑み、涙をこらえながら言った。
「ターミナル期のことも勉強して、小児科にも生かしたい。おばちゃんのためにも、子どもたちのためにも」
「うん、ありがとう、歩」
貴弘は歩をそっと胸に引き寄せた。歩は彼の鼓動を感じながら、泣き止むまでその温もりに身を委ねた。ミッドナイトブルーの空は、二人の未来を優しく見守っていた。美津子の愛した温泉の湯気のように、歩の心に温かな決意が広がった。ターミナルケアを学び、子どもたちや家族に寄り添うこと。自分にしかできない看護を、歩み続けたいと。
夜空の青は、まるで二人の新しい一歩をそっと祝福するように、静かに輝いていた。
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midnight blue
8/23/2025, 7:40:24 AM