夕方の駅前でビジネスバッグの中をゴソゴソと漁りまくっている若いビジネスマンがいた。
空からはしとしとと弱い雨が降り続いている。
ビジネスマンが私のよく知っている幼馴染とわかって、私は離れた所から観察する。
探してる、探してる。
一度開けて確認して閉めたファスナーを全部また開けたりして。
それだけ探してないのにまだ諦めないんだ。
私なら、駅のコンビニでビニール傘を買っちゃうけどね。
…自宅の玄関に私が買った3本はあるビニール傘を思い出して、だからやたら物が多いんだ、と今更ながら気づいた。
さて。
目の前で困っている幼馴染を放っておけるほど、私はろくでなしでもないしね。
「お兄さん、私の傘に入りませんか?」
背後から声をかけたら、ビクッと体をびくつかせて顔を強張らせて私を見る。
おいおい、子供の頃も、中学校と高校も同じ仲良しグループだったのに、私の声を忘れちゃったのぉ?
「…ビックリした」
「傘、入る?」
「入る」
傘を忘れた幼馴染に私の傘を持たせる。
彼氏にプレゼントされた今日のような小雨に似合う、ウォーターグリーンの24本骨の長傘。日傘にもなる超軽量の優れ物。
「晴雨兼用なら、傘をまた買わなくても良いしな」
って、雑貨屋デートで買ってくれた。
私のことをよく知ってくれているみたいで嬉しかった。
それなのに。
職場で、私以外の傘に入って帰って行った彼氏を思い出す。
ワインレッドで1つ大きな薔薇の刺繍が目を引く大人っぽい傘と、長く緩やかな茶色のカール。
彼氏が時々言ってた人だ。
あの受付の人、すごい綺麗。高嶺の花だなって。
私にヤキモチ妬かせて楽しんでいるって信じたかったけど、やっぱりあの女性の方が良かったんだ---
「どうした?溜息なんか吐いて。溜息吐くと幸せが逃げるんだって昔誰かさんに言われたなぁ」
「…私だよ、それ」
中学生の時。皆んなで遊びに行ったあの雨の日に、幼馴染は傘を電車で無くした。
深い紺色でダークブラウンの竹製の持ち手が特徴の、和傘風の素敵な傘だった。
電車を降りて改札を出た後で電車の中に忘れたって涙ぐむ。大好きなおじいちゃんの肩身だったのにって。
傘の持ち手におじいちゃんのイニシャルが小さく刻まれていたからすぐに見つかり、終点の駅で預かってくれることになって。
結局その日の予定を変更して、行ったことのない街へ皆んなで繰り出した。
電車の窓をしとしとと弱い雨が濡らす中、片道1時間の行きの車内の皆んなの口数は少なかった。
けれど帰りの1時間は皆んな笑顔だった。幼馴染が傘をずっとギュッと握っていたから。
行きと帰りは同じ行程なのに、帰り道は片道1時間の電車旅のよう。
あの帰り道はとても楽しくて、今でも仲間が集まれば思い出話に花が咲く。
「この傘さ、彼氏がプレゼントしてくれたんだよね。晴雨兼用、これをいつも持っていればビニール傘を買わなくて良いからって」
「…うん」
ぽつりと呟いた私に思うところがあったのか、幼馴染は言葉少なに頷いた。
「今日、一緒に帰ろうと思ったのに、受付の綺麗な女性と帰っちゃった」
「え、」
幼馴染の声が固くなった。
気遣うように私に視線を下ろしているのを感じる。
私は前を向いたまま、さっきまでと同じようにぽつりと呟いた。
「私たちの交際、まだ社内で内緒にしてたの」
「……どうして?」
「どうしてだろう。彼の元カノも同じ職場だからかなと思ってたんだけど、理由は聞いてないの」
何となく聞けなかった。
幸せが逃げていく気がして。
無言になった私に、幼馴染は何も言わなかった。
ただ、私の腕には幼馴染の温もりがある。
「…今度、遊びに行こうか」
「えっ、」
「寂しそうだから」
足を止めて隣を仰ぎ見る。
幼馴染も私を見下ろしていて目があった。
この雨のような、深く静かな黒目がちの瞳。
「2人で。彼氏に内緒で」
ドクンドクンと強く鼓動が打つ。
不自然にならないようにそっと視線を下ろすと、幼馴染の肩がしっとりと濡れていた。
私は濡れていない。ずっと傾けてくれて……
「考えてみて。俺は遊びに行けたら良いなと思うけど」
彼は私に傘を持たせて、傘を飛び出して家に向かって走り出した。
徒歩5分の距離。走ったらどのくらいなのだろう。
あんなに折りたたみ傘を探していたのに、今も小雨は降り止まないのに。
パシャパシャとアスファルトの雨水を跳ね返させながら走る後ろ姿を傘の中から見送る。
街灯や車のライトが暗いアスファルトにキラキラ反射して綺麗だった。
傘の中で、幼馴染の低く優しい声を思い出す。
私と幼馴染の秘密の---
傘の中の秘密
勝ち負けなんて関係なかった。
俺は、最後までトラックを走り抜く米田と鈴木が誇らしかった。
勝ち負けなんて
陸上競技場のスタンド席の屋根の下、中学校の指定ジャージに着替えた米田と鈴木が霧雨の向こうに霞んで見える。2人はスタンド席に座り、霧雨のトラックをぼんやりと眺めていた。
そんな2人を視界の端にとらえながら、俺は撤収作業をしていた。
曇天の下で先ほど終了した中学生市民長距離継走大会。生徒、教師、大会関係者、保護者、地域住民が集い選手の力走と各々の応援に熱が入り、曇天とは思えないほど活気に溢れていた。
表彰式終了を待つかのように弱い雨がポツリポツリと降り出し、大会に参加していた人々は大急ぎで撤収作業に入り、教師らは生徒を先に帰宅させた。
うちの生徒の鈴木が、陸上競技場に佇む米田の隣に寄り添っていた。
「神谷先生、お疲れ様です」
隣のブースで撤収作業を終えた早坂先生に声をかけられた。
早坂先生は去年までうちの中学校で長距離継走部の顧問をしていた体育教師。
「お疲れ様です」
「鈴木、速かったですね。区間賞、おめでとうございます」
「ありがとうございます」
鈴木彩花は米田から6位で襷を受け取り、4位まで順位を上げていた。
「西中も3位入賞おめでとうございます」
「ありがとうございます」
互いの健闘を讃えあう。
そこに勝ち負けは関係ない。素晴らしい世界だと思う。
「鈴木は1年生の練習では3年の走るペースについて行けなくて、米田と一緒になってヘラヘラ笑いながら走っていたんですよ」
「そうなんですか」
「ええ。どれだけ叱責したことか」
俺は苦笑する。
今年、この中学に赴任して長距離継走部の顧問をすることになって、1,000M走のタイムを見て2年生女子はあいつらを選んだ。
選抜メンバーだと告げた時、開口一番に「なんでウチらが!」って抗議されたっけ。
「おまえらが1番速いんだからしょうがないだろ」
「でもウチら、去年は大会の補欠にも選ばれなかったくらい遅かったの!」
「まだ1年だったからな。俺がフォームチェックしてタイム伸ばしてやるよ」
笑う俺に露骨に嫌そうな顔をする2人。
「ほら、頑張るぞ。練習は嘘を付かないからな」
背中をバンッと叩いた。
「前を見据えろ」「背筋は伸ばせ」「腕は小さくリズミカルに触れ」「膝は少し曲げて走れ」
練習中に大声を張り上げてフォームを改善していく。
2人は俺には照れ隠しでやる気のないようなことを言うけど、タイムは初日とは比べ物にならないほど日毎に伸びていった。
「鈴木は伸びましたけど、米田は相変わらずですかね。
今日も走り込み不足でトラックに戻って来るのがやっとの状況で」
米田を1年のときと同じ練習態度だと誤解している。
米田は練習を頑張っていた。
今日だって、懸命に走っていた。
「米田は、夏休み直前に捻挫をしたんですよ」
「そうでしたか」
「練習再開まで1ヶ月を要しました。
練習再開後にタイムは落ちましたけど、捻挫までは米田と鈴木の実力は伯仲していました」
早坂先生の顔が強張る。
米田の名誉のために言ってやりたかった。
あいつは頑張っていた。本当に良く頑張っていた。
早坂先生が口元を手で押さえる。
俺の口調は強かったと思う。言い過ぎたか?
早坂先生が深く頭を下げた。
「先生、すみません…」
「いえ、そんなに気にすることじゃ、」
「違うんです。俺、さっき、米田に会って言ってしまったんです。走り込み不足だなって。本当にすみません」
米田は普段、本心を隠しがちなヤツだ。
ヘラヘラするし、冗談を言うし、言い返したりもするけれど、本当は傷つきやすく繊細なヤツだ。
繊細に見える鈴木の方がよっぽど芯が強くストレスに耐性がある。
米田は、自分のせいでマラソンの順位を落として落ち込んでいると思っていた。
それだけじゃなく、早坂先生がワザとでないにしろ、拍車をかけていたなんて……。
苦い思いで後ろを振り返る。
トラックの向こうにいる2人は霧雨越しでぼんやりとしか見えないが、相変わらずトラックを眺めているようだった。
俺の視線を追って、早坂先生がアッと声を上げた。
「あれ、米田と鈴木ですか…?」
「ええ」
「俺、米田に謝ります」
スタンド席に歩き始めた早坂先生を制する。
「先ずは俺が2人を落ち着かせます。
駐車場に2人を連れて行きますから、それで良いですか?」
「わかりました。お願いします」
頭を下げた早坂先生に大丈夫だと笑いかける。
あの2人は素直だから、心からの謝罪をきっと受け入れる。
大丈夫。俺があいつらを守る。
「早坂先生」
「はい」
「今日の鈴木は、実力以上を発揮してくれましたよ」
「えっ?」
「米田に順位を落として襷を渡されて、鈴木は米田が気に病まないように精一杯走ったんです。俺もあんなに早く帰って来るとは思いませんでした」
「……」
「米田も。走り込み不足で練習も今日も辛かったと思うんです。それでも、彼女の今日のタイムは伸びました。もう少し前半セーブできたら、もっとタイムは伸びたと思うんですけどね」
襷を次のランナーの鈴木に渡した直後、ふらつく米田を抱き留めたとき、あいつは過換気手前で、呼吸がままならなかった。
それほど頑張っていた。
「俺の指導力不足ですね。来年は表彰式のトロフィーを持ち帰りますよ」
「そうはさせませんよ」
早坂先生に笑顔が戻る。
「今日、神谷先生とお話できて良かったです。
俺、教師としてもっと生徒をよく見て、思い込みで判断してはいけないことを学びました」
「早坂先生…」
「米田も鈴木も、きっと先生が好きなんでしょうね。
俺が指導していたときは、ホント、2人チンタラ走ってましたから」
想像はできる。俺は笑った。
トラックを照らす白く眩しいライトが、霧雨を浮かび上がらせる。
俺が行くまで。早坂先生が謝罪してくれるまで。
霧雨に優しさを託そう。
「さあ、行きましょうか。もう暗くなりつつありますし」
「ええ。駐車場で待っています」
早坂先生と別れて紳士用の傘を差してスタンド席に向かう。
「帰るぞー」
普段の俺の口調で、態度で、米田と鈴木を和ませる。
傘を2人で差すように貸して、自転車は此処に置いて、車で自宅まで送ると告げて歩き出す。
霧雨が髪を、顔を、肩を、背中を濡らしていく。
優しい雨だ。
濡れて気持ちの良い雨だ。
傘を差さずに歩いたら2人と距離が開いてしまって、振り返って待った。
俺を待たせちゃ悪いと歩くスピードを速めた2人。
そんなこと気にしなくても良いのに、意外にかわいいところがあるんだよな、あいつら。
微笑ましく思った次の瞬間、俺はギョッとする。
傘を閉じた鈴木。
バッグからタオルを出して胸に抱えた米田。
「おまえら、なぁにやってんだー」
叫ぶ俺と、すっげぇ楽しそうに笑いながら走って来る2人。
早歩きが面倒なのはわからなくもないけれど、わざわざ雨の中、走って来ることないだろうが。
「あーあー」
呆れてるけど、ホッとしてもいる。
こいつら2人、意外に元気になっている。
鈴木が米田を癒してくれたのか。
あの米田が捻挫した暑い夏の日。
太陽がアスファルトを照りつけ、汗が噴き出していた鈴木は、自分のことのように心を痛めて悔しがっていたもんな。
霧雨は変わらず優しく降り続ける。
白いライトが木々の葉に降り注ぐ霧雨を優しく照らす。
駐車場に着く前に、早坂先生が話をしたいからと駐車場で待っていることを告げる。
顔を強張らせる米田。鈴木は先ほどあったことを俺に怒り口調の早口で悔しそうに告げる。
「それを含めてだそうだ。とにかく、早坂先生の話を最後まで聞きなさい。その後で、言いたいことは言えば良い。人の話を最後まで聴くのは最低限の礼儀だぞ」
「…わかりました」
「米ちゃん」
静かに頷く米田と心配そうにそっと見つめる鈴木。
「米田」
「はい」
「言いたいことは我慢するなよ。米田はよく頑張ったんだから。俺はずっと見てきたから」
「……はい」
泣きそうになる米田と、鈴木。
俺は笑った。
「鈴木まで感極まらなくても」
「だって、良いこと言い過ぎ」
「鈴木も米田のためによく頑張ったな。あんなに速く帰ってきて驚いたよ」
2人は鼻をグスっと鳴らした。
「頼むから、駐車場に着く前に泣き止めよ。早坂先生に会う前に」
「先生が泣かせたくせに」
2人は米田のタオルで顔を拭っていた。
俺はまた微笑んで、前を向いてゆっくり歩く。
霧雨の傘を滑る音は優しかった。
駐車場に入ると、早坂先生は足早に歩いてきた。
駐車場の一角にある屋根の下に入り、俺たちは早坂先生が目を潤ませ頭を下げる心からの謝罪を聞く。
聞き終わって、米田は言った。
「私、来年も選ばれたら、もっと筋力トレーニングとか柔軟とか真面目にやって怪我しないようにします」
「米田」
「隣の体育教師にいっぱい教えてもらいます。鈴ちゃんと頑張ります」
明るい笑顔で、淀みなく、優しく強く。
早坂先生は少し呆気に取られた後、安心したように笑った。
「米田、ありがとう」
「打倒西中!」
「「そこは今年1位の南部中だろ」」
早坂先生と俺が同時にツッコミを入れる。
サワサワと木の葉が擦れる音がして、微風が足元をしっとりと濡らす。
「帰りますか」
「ですね」
早坂先生に「さようならー」と元気に挨拶をする2人。
本当に良い子たちだ。きっと、親御さんが素晴らしいんだな。
この日の俺たちに、勝ち負けなんて関係なかった。
最後までトラックを走り抜く米田と鈴木が誇らしかった。
勝ち負けなんて
桜の葉が生い茂る川沿いをいつものようにワンコと散歩する。
以前、この場所で私たちはランニングしている男に川沿いの遊歩道を譲られた。
黒のタンクトップ、黒の短パンで褐色の肌としなやかな筋肉の日本人と思われるやや小柄な男。肩から肘にかけて貫く太筆で描かれたアラビア文字のような刺青。
そして男とすれ違いざまに、ふわん、と強く香った石鹸の匂い。
その日、川沿いから住宅街へワンコと散歩を続けていると、もう一度その男とすれ違った。
今度は、黒のハッチバックの運転席に肘をかけ、腕に彫られた刺青と石鹸の香りを私に強烈に印象づけて。
あの日、2度もすれ違ったのに、それ以降はずっと見かけない。
否、見かけたのはあの日だけ。
あの日以外、この街に住んで10年は見かけたことはなかった。
あの男、日本人に見えたけど違ったのかも。
本当はこの街にたまたま寄っただけの旅人で、灼熱の砂漠のアラブ民族なのかもしれない。
あの男は何処に向かったんだろうね?
ワンコに問いかけても笑顔で「散歩楽しいね」って瞳をキラキラさせるばかり。
まあワンコだから、そうなるよね。
ワンコの匂い探索に付き合った後、顔を上げる。
あっ。
黒のタンクトップ、黒の短パン、褐色の肌、しなやかな筋肉、腕に彫られた刺青---
短髪の耳に真っ白なワイヤレスイヤホン。
「…わかっている……そっちへ向かうから……」
息を乱さず、小声で、正面を向いて走り去る瞬間、またあの石鹸の香が強く漂う。
清潔なシャボンの香。
優しく落ち着いた声。
まるで愛しい女性に話しかけているかの如く---
振り返ると、男は遊歩道から消えていた。
遊歩道にはワンコを散歩する主婦、小さな子ども連れの家族。
ウォーキングする年配夫婦。
暑さを避けた夕方のいつもの景色が広がっている。
あの男は何処に向かったんだろうね?
私の呟きは空に溶けていった。
まだ続く物語
俺と大和の行きつけの焼き鳥屋でサシ飲み中、俺は大和に尋ねてみることにした。
「俺さ、今度扁桃腺の手術することになったんよ」
「そうなん?いつ?」
「日にちは決まってないけど、手術することは決定してる。俺、扁桃腺の手術なんて簡単に考えてたけど、全身麻酔なんて、なんか怖いな」
「そうか。そうだよな」
大和は中央総合病院のレントゲン技師だ。
これまでも気になる症状の相談に乗ってもらったり、俺がイビキをかいて彼女に五月蝿がれると愚痴ったら、耳鼻咽喉科受診を勧めてくれた。
で、町医者で中央病院を紹介されて受診したら、手術で扁桃腺を切ることが決定。
扁桃腺の手術を抜歯の延長くらいに考えてたのに全然違って、地味にショックを受けていた。
「全身麻酔ってさ、全身麻酔の前に、全身の検査をして万全の体制で臨むんだよ。麻酔科医って麻酔を専門にしてる医師が手術中ずっと一般状態を観察してるし、対応もしてくれる。
麻酔の前に台の上で眠くなる薬を点滴の管から入れたらすぐに眠くなって、覚醒するのは手術が終わってから。先生たちに任せれば大丈夫だよ」
大和は医療従事者らしく、わかりやすく丁寧に説明してくれる。
寝てる間に終わるのか。手術中は怖くなさそうだな。
でも。
「耳鼻科外来の看護師にさ、絶対に禁煙してくださいって強く言われなかった?」
大和は揶揄うような瞳を向ける。
んっだよ、俺が喫煙者だからって。
「言われたよ!ハッキリ言って脅されたよ!傷の治りが悪くなるとか手術後出血するとか、肺炎になるとか!あの看護師、美人だけど怖かったよ!」
俺が医者からの説明を聞いている間、ビビってる俺の背中にそっと手を当ててすっげえ優しいなあって感動してたのに。
俺が喫煙者で禁煙の自信ないかなぁって言った途端豹変して迫力にビビったよ。
結局全身麻酔や手術の怖さは抜け切ってないし、禁煙が本当にできるか不安だし。
愚痴る俺の話を大和は頷きながら聞いてくれる。
医療従事者に必要なのは、この傾聴の姿勢じゃねーか?
「やっぱり優しいなあ、大和は。持つべきものは友人だ」
大和は可笑しそうに笑った。なんか可笑しかったか?
「その看護師、俺の奥さん」
「は!?嘘だろ!?」
「ホント。外科病棟の時から有名なんだよ。意地でも禁煙させる看護師って」
「マジか…って言うか、ゴメン!奥さんのこと、色々言っちゃって」
両手を合わせて頭を下げる。
奥さんのこと悪く言って気分が良いわけないもんな。
「良いよ。気にしなくて大丈夫。
奥さん、由希奈ちゃんって言うんだけど、由希奈ちゃんは患者のことを想っての優しさゆえの厳しさだから。たくさん手術後の看護をしてきて、肺の合併症になる患者さんをたくさん見てきて、絶対に禁煙はしてもらうべきだって思ったんだろうな。俺もそれには同意だよ。手術後の肺が真っ白で人工呼吸器をなかなか外せない人も中にはいるから」
「でもそういう人でも治療をしていくんだろ?」
「勿論。何度もレントゲンを撮るし、看護師は四六時中人工呼吸器の管理をしたり、昼夜構わず痰を吸引したり、1日になんども吸入したり。医師もすごいけど、医療は看護師がいて成り立つ。尊敬するよ」
「そうか。奥さん、すごいな」
「今は耳鼻科外来だけどな。それでも、ウチの奥さんすごいよ」
大和の瞳が輝いた。
「由希奈ちゃんの働きかけのおかげで、ウチの病院も禁煙外来を始めるって言うし、禁煙に不安があるなら予約してみるのも手だよ」
「そっか。どうしてもなら考えてみる」
禁煙への誓いを新たにねぎまの塩と手羽先のタレを注文する。
でも、なんか忘れてることがある気がするんだよなぁ。
って、思い出した!
「大和、昔、タバコ吸ってたろ!」
「思い出した?由希奈ちゃんと付き合ってから辞められた」
「そうなのかよ!」
「ああ。それまでもレントゲンで真っ白の肺の人とか見ててさ、何度も禁煙にチャレンジしたけど失敗してたんよ」
「へぇ。レントゲン見ててもダメだったんだ」
「ああ。でも由希奈ちゃんに『これで最後ね』って約束させられて、俺も覚悟を決めて1本由希奈ちゃんの前で吸ったんよ。由希奈ちゃんとの約束絶対に破れねえって決意して禁煙に成功した」
「なるほどねぇ。これで最後か」
ポケットに入っている電子タバコ。
俺はスマホを取り出して彼女にLINEする。
「禁煙するから協力してください」と。
大和にもLINEを見せて言った。
「今夜、これで最後にするよ」
大和は親指を立てて力強くサムズアップして明るく笑った。
「これで最後」
「彩花!」
出会い頭に飛び出して来た自転車を避けるため、彩花の手首を強く引く。
自転車はスピードを緩めずに走り去って行った。
危なかった、こいつに何かあったら俺は…
「せんせい…」
小さな声で呼ばれて、細い手首を握ったままだと気づく。
パッと離したが、鈴木は俺の顔を驚いたように見つめている。
綺麗な瞳だ。
元教え子なのに。いくら鈴木が同僚で、同じ立場になったとしても、俺は鈴木よりも10歳以上も年上なのに…
「どうした?思いっきり引っ張ってごめんな」
優しく笑いかけたつもりだったけど、鈴木は何も反応しない。
「どこか傷めたか?肩か?手首か?」
俺が握りしめた手首を確認しようとして腕を伸ばす。
「そうじゃなくて」
鈴木が俺をまっすぐに見上げて言った。
「彩花って言ってくれた…」
ハッとする。
そうだ、俺は慌てて鈴木を彩花と呼んでしまった。
「悪いっ、咄嗟だったから。つい、呼んだだけで、」
情けない。
ここのところ夜毎鈴木が夢に現れるんだ。
鈴木の夢だけは、翌朝いつも鮮明に記憶があるんだ。
ある夜は7年前のこの中学のグラウンドや木漏れ日の緑地公園で、鈴木や米田を長距離継走部の顧問として走らせる夢だったり。
またある夜は鈴木と米田の指導初年度、大会本番で米田が順位を落としてしょぼくれているのを慰める鈴木の姿とか。その後、霧雨の中、俺の貸した傘を閉じて米田と鈴木がすっごい笑顔で俺の所へ走り寄ってくる姿とか。
鈴木が新卒の教員として、職員室に現れて二人ですっげえ驚いて校長に睨まれ、鈴木が小さく笑ったこととか。
指導案の作成を夜の職員室で手伝ったり、陸上部の練習を一緒に監督したり、鈴木が部員を大声で応援したり、本番で力を出せなかった生徒に鈴木が優しく寄り添っていたり…
夢の中で俺は、教員の鈴木を「彩花」と呼びたいといつも願っていた。
だからと言って。
焦る俺に鈴木はふうわりと笑った。
幸せそうに口角が上がり、瞳は煌めきを放つ。
「先生に彩花って言われて、私、すごく嬉しいです」
「鈴木、」
それって。それって。
「私、先生が好きです」
可愛い声だった。
今まで聞いた中で1番、ときめいた。
元教え子だけど、俺は10歳以上歳上だけど。でも。
「俺も、同じ。彩花が好きだ」
認めて心が楽になる。
ああそうか。俺は我慢してたんだな。
必死で同僚として線を引いて。
本当は毎夜夢に現れるほど好きなのに。それを全部覚えているくらい好きなのに。
「えっ、うそ、ホントに…」
胸に手を当てて心臓のドキドキを隠すような仕草の彩花。
やっぱり可愛い声で、紅に染まる頬が可愛くて。
「ホント…?」
視線を逸らした小さな声の呟きをそよ風が運んでくれる。
彩花、俺だって年甲斐もなく動悸が激しいよ。
同僚としての線引きを壊したのは、彩花だぞ。
俺の心のハードルを彩花の告白が飛び越えてくれた。
咳払いをする。じゃないと、喜びに声が掠れてしまいそうだから。
「俺が嘘言ったことあったか?」
彩花が顔を上げた。
「先生、真っ赤…」
彩花が呟く。知ってるよ!頬っぺた熱いからな!これも全部彩花のせい。
彩花がふふっと幸せそうに笑みを溢す。
そして空を見上げた。俺も視線を追うように見上げると、晴れた空に柔らかな雲は緩やかに流れている。良い天気だ。
彩花は俺に視線を移していた。その笑顔は中学校の頃のようなどこか悪戯な微笑み。
「ないって言いたいけど、ありますね」
「あった!?」
デカイ声で驚く俺に彩花は声を立てて笑った。
「私たちが2年生のときの長距離継走大会の後で、米ちゃんが先生にタオルを差し出したとき」
「…ああ」
俺が2人に傘を貸して霧雨で濡れたから、米田は頭を拭いて良いよと俺にタオルを渡そうとした。それを俺は「汗臭ぇ」と嘘を言ったんだった。
「あれはノーカンだ。米田に自分の頭を拭かせるためなんだから」
「わかってますよ。米ちゃん、言ってましたよ?
『もう怪我しないように優しい体育教師にストレッチとかトレーニングを教えてもらおうかな』って」
「彩花も一緒に来たな。嬉しかったよ、俺。教師になって良かった、長距離教えて良かったと心から思ったから」
「先生…」
見上げる瞳はまっすぐに俺を映す。
めっちゃ素直に喜んでいる笑顔の俺を。
「彩花」
「はい」
「返事、ちっさい声だな」
「名前呼ばれてすごく嬉しいんですけど、照れちゃいます」
ちっさい声も可愛いし照れ笑いも可愛い。
「気づいてるか?彩花に先生って呼ばれるの好きだけど、名前を呼んでくれたらなって思ってること」
「…剛士(たけし)さん」
「やべえな。嬉しいわ」
手で口を覆ってニヤける顔を隠す。
込み上げる笑みを抑えられねーよ。
「今、手を繋いだらさ、まずいかな」
「まずいですよ。私、緑地公園の木立や池のほとりでランニングしてると、よく保護者さんのジョギングや犬の散歩で挨拶されますよ」
「あ、俺もだ」
「ほらぁ」
彩花は笑う。楽しそうに、幸せそうに。
彩花が中学3年のマラソン大会で、米田のクソデカボイスの応援の中、1位を守り抜いてゴールテープを切ったときの面影を残して。
「週末、どっか出かけるか」
「部活ありますよ?」
「あーじゃあ夜だなぁ。飯でも食う?」
「そうですね」
俺たちは中学校行きつけの商店での買い出しを終える。
彩花の荷物を持とうと思ったら小さな声で断られた。
俺の片手が開いてたら、手は繋げないけど少し距離が近くなるからって。
学校に戻る並んだ二人の距離は、今までの自分たちよりも少しだけ近づいていた。
「君の名前を呼んだ日」