Mey

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5/26/2025, 4:12:39 AM



陸上競技場のスタンド席の屋根の下で、私と鈴ちゃんは霧雨のトラックをぼんやりと見ていた。

曇天の下で先ほど終了した中学生市民長距離継走大会。生徒、教師、大会関係者、保護者、地域住民が集い選手の力走と各々の応援に熱が入り、曇天とは思えないほど活気に溢れていた。
表彰式終了を待つかのように直後に弱い雨がポツリポツリと降り出し、大会に参加していた人々は大急ぎで撤収作業に入り、慌てて帰宅して行った。
鈴ちゃんだけが、この陸上競技場に佇む私の隣に寄り添ってくれている。

「早坂先生…」
「あ、いたね。去年までウチの中学で長距離継走部の顧問やってた先生。今、西中にいるんだっけ」
私の呟きを拾って、鈴ちゃんが引き受けてくれた。
「そう。さっきね、私、走り終わった後、声をかけられたの」
「……なんて?」
鈴ちゃんの心配そうな瞳に少し微笑んだ。
柔らかな優しい雨音が競技場に満ちていて、鈴ちゃんの声も優しかった。
「走り込み不足だなって」
「それは…!」
鈴ちゃんが勢いよく立ち上がり、私を見下ろす。
鈴ちゃんの怒った声が雨の音をかき消した。
「だって、米ちゃんは捻挫したから、夏休みの間、走れなかったんだよ?練習したくても練習できなかった!」
鈴ちゃんの瞳に涙が光る。
私の代わりに怒ってくれる。
あの瞬間、言いたくなったけど飲み込んだ言葉を、鈴ちゃんはわかってくれている。
「でもやっぱり、試合に出たら選手だから。走り込みが足りないのも事実だから」
「米ちゃん…」

鈴ちゃんはさっきと同じように私の隣に腰をかけた。
私たちの沈黙を霧雨の音が埋める。
トラックを照らす白く眩しいライトが、霧雨を浮かび上がらせている。


太陽が照りつけるあの夏休み直前の熱い日。
中学校近くの緑地公園に向かって鈴ちゃんと走っていた。
緑地公園は木々の間を風が吹き抜け、木漏れ日がキラキラ輝く長距離継走部の練習コース。
そこへ向かう途中のアスファルトの歩道で、私は小石に滑って足を挫いた。

ズキズキする足首の強い痛み、ギラギラと照りつける太陽、ミンミン五月蝿い蝉の声。
私は足首を押さえて痛みに顔を歪めて悔しさで溢れそうになる涙を抑えるのに必死だった。
鈴ちゃんは悔しそうに唇を噛んで瞳には涙を湛えていた。
私の背中を鈴ちゃんが何度も優しく摩ってくれて、顧問が愛車で到着するのを一緒に待ってくれていた。
軽度の捻挫と診断され、完治まで1週間、本格的な練習開始まで4週間かかった。

捻挫の前は鈴ちゃんと同じペースで走れていたのに、捻挫後は鈴ちゃんについて行けなくなった。
大会前には鈴ちゃんとの差は少しは縮まったけれど、私はいつも疲労困憊。
足首は痛くないのに、前みたいに鈴ちゃんに追い抜かれないように走ることはできなくなった。私は常に、鈴ちゃんのだんだんと遠くなる背中を追いかけていた。

「私たちしかいないからサボれないじゃん」
「選抜されたんだからサボるな」
顧問にうそぶいていたけど、本当は捻挫なんかしたくなかった。
鈴ちゃんと一緒に走りたかった。


今日のレース、私は3位で襷を受け取り、6位で襷を次に走る鈴ちゃんに渡した。
疲労困憊で鈴ちゃんを応援する声も出せずに、私は顧問に抱えられた。
鈴ちゃんは4位で帰って来て、先輩に襷を渡した。
ウチの中学校は4位でフィニッシュした。
目標の表彰台に登ることは叶わなかった。
先輩たちが啜り泣く中で、私は自分を責めながら、表彰式をただぼんやりと眺めていた。


「帰るぞー」
顧問が黒い紳士用の大きな傘を差しながら私たちに近づいてきた。
「ここ、もう締めるからって管理人が言ってる。ほら、早く」
普段と変わらない豪快さで私たちを立たせて傘を鈴ちゃんに持たせた。
「3人で入るのは無理だから、俺の車まで2人で来なさい」
「来なさいって、私たち自転車だけど」
自転車にカッパも置いてある。
自転車に乗る時にはカッパを携帯するように。傘さし運転は厳禁。それが中学校のルールだ。
「2人とも、学校までは徒歩通学だろ?」
「そうだけど」
「じゃあ、今日はここに自転車を置いていきなさい。暗いから家まで送ってやるよ。明日、学校へ来なさい。俺も学校にいるから、ここまで連れて来てやるよ」
軽く微笑んで、顧問は踵を返して駐車場に向かって行く。
私たちは顔を見合わせた後、大きな傘の下で体を寄せて先生の後をついていく。
傘が雨音をリズミカルに鳴らす。
先生の大きな背中はしっとりと濡れて染みになっている。

「米ちゃん」
「ん?」
「私初めて顧問を見直したかも」
真面目な口調が可笑しくてちょっと笑った。
「私も」

二人で密やかに笑い合った後、沈黙を雨音が埋める。
優しい音で。

「私たち、このまま行ったら3年生でも選ばれるじゃん?」
「うん、そうだね」
「そしたら、もっと筋力トレーニングとか柔軟とか真面目にやって怪我しないようにする」
「米ちゃん」
「あの優しい顧問の体育教師に聞いてさ。喜んで教えてくれそうじゃん?」
「うん。私も一緒にやりたい」
傘をさす私たちのペースが遅いのか、顧問は振り返って私たちが近づくのを髪を濡らして待っている。

私たちは顧問に追いつくために足を速める。
速足は焦ったくなって、鈴ちゃんと顔を見合わせて。
鈴ちゃんは傘を閉じた。私はバッグのファスナーを開けてタオルを取り出す。

ギョッとした顔の顧問に笑いながら走る。
「おまえら、なぁにやってんだー」
私たちに叫ぶ声。
しっとりと顔を濡らしていく優しい霧雨。
雨が降り注ぐアスファルトの上を走るリズミカルな足音。
なんでもない音が、とても優しく私たちを包む。
「あーあー」
近づいた顧問は呆れ顔で、私は濡れないように抱えていたタオルを「はいっ」と差し出した。
「頭拭いて良いよ」
顧問はタオルを少し眺めて「やだよ。汗臭ぇ」
「嘘っ」
「嘘だけど。他人のことより自分の頭拭け。あと、傘も差しなさい。今更と言えば今更だけど」
顧問は再び駐車場に向かって歩き出す。今度は傘を差した私たちと距離が開かないようゆっくりとした速さで。

「狭いけど」
そう言って助手席のドアを開け、助手席を倒してから後部座席に私たち二人を誘導してくれる。
「これ、ジムニーでしょ」
「そう。狭くないか?」
「大丈夫」

優しく雨音を響かせながら、霧雨が窓を滑り落ちていく。
私はもう大丈夫。
皆んなが優しいから、大丈夫。



「優しい雨音」

5/23/2025, 8:37:51 AM



公立中学校2年C組。ウチのクラスは同じ学年の他のクラスに比べて目立たない。
ヤンチャな人がいない、飛び抜けて勉強のできる人もいなければ、運動ができて目立つ人もいなかった。リーダーとして活発に意見を言う人もいない。その代わり、落ちこぼれもおらず、登校拒否の人もおらず、皆んなそれぞれが気の合うグループに属していて、その中で平々凡々に学校生活を送る。そんなクラスだった。
私も、そんな1人だった。


そんなある日、2年C組に事件は起きた。
それは給食を食べ終えて、気の合うグループ同士でお喋りに興じるいつもの日常に突然。

教室の後ろの方で、派手な大きな音がした。身体をびくつかせて音がした方へ振り返ると、椅子が倒れ、同級生男子2人が腕を掴み合っていた。
喧嘩!?
2人の表情は硬く、喧嘩は収まりそうもない。
クラスの皆んなは固唾を飲んで2人を見つつ、どうしよう…という雰囲気になっている。
腕を掴み合う2人は「お前が悪い」「悪くない」と口からツバを吐きながら大声で罵り合っている。
私はそっとこの教室の中にいる教育実習生を見る。
大学生は、青ざめながら2人を見ていた。
こんな場面に遭遇するなんて、ツイてないね。
クラスの子が担任を呼びに行ったのを横目で捉えて、先生が早く来ればと私は思っていた。
他のクラスの子たちが喧嘩に気づいて廊下からC組を眺めていた。

「やめろよっ!2人ともやめろって!」
クラス委員長が、2人の中に入って、2人を引き離し始めた。
それがきっかけとなって、2人の仲の良い男子たちが引き剥がしに加勢し、なんとか羽交い締めにして引き剥がす。
クラス委員長は、罵り合っている2人を静止させようとしている。

走って来た担任が一喝し、2人とも教室から連れ出されていった。
廊下の野次馬も、自分のクラスへ戻っていく。

斜めになった机、倒れた椅子をもくもくと元に戻していく委員長。
手助けをしたい気持ちに駆られて私は倒れた机に手を伸ばす。金属の冷たさ、机の重さ。委員長が「ありがとう」と私に向けて微笑んで、私は「うん」と小さく頷いた。

何をするにも一緒の女の子2人組の内緒話が聴こえてくる。
「結局、何が原因だったの?」
「さぁ」
「ビックリした…あんなにいつも仲が良いのにね」
「ね、大人しい2人なのに」


ビックリしたと言えば、と机や椅子を並べ終えた後、乱れた制服を整える委員長の横顔を見る。
2年C組の、目立たない委員長さん。
他のクラスのような陽キャな感じは全くなく、クラスの決め事の司会の声だって落ち着いてて声量も普通なのに。推薦で選ばれたけど、私はよく知らないから別の人に投票したくらい、真面目そうだけど普通の人だと思ってた。

すごく正義感のある行動だった。私が物心ついてから初めて接した勇気だった。
推薦した人、投票した人は彼の本当の姿を知っていたのだろうか。
それとも、彼はクラス委員長という肩書き故の責任感で、喧嘩の仲裁に飛び込んでいったのだろうか。

斜め前に座る委員長。
小柄で、色白で、目立たないと思っていた人が、あの瞬間は誰よりも勇敢で。
別に恋をしそうとかそういうんじゃないけど、でも、喧嘩を仲裁する行動は正直、カッコ良かった。


教室はまだ密やかにざわめいている。
委員長が席を立ち、仲の良い友人へ話しかけに行く。
友人は少し戸惑いつつも笑顔で迎え入れて、すごかったと委員長を褒め、彼は照れた笑顔を見せつつも謙遜している。

その姿は私が知っている委員長さん。
だけど彼の内面はとても正義感が強く実行力がある。
今日、私はそれを知った。


放課の間だけ許されているスマホの電源を入れる。
ビデオモードで自分の顔を映せば、それはよく知る平凡な私。
ただ観察して、人に深く関わらない私。
今までの私は平凡で、そんな生き方しかできないと思い込んでいたけど、そうではないかもしれない。
内面を磨くこともせずに、自分を評価するべきではないんだ。

ビデオモードの自分の瞳は、強い意志を持っていた。



「昨日と違う私」

5/20/2025, 12:03:57 PM

桜の葉が生い茂る川沿いでワンコの散歩をしていると、黒のタンクトップ黒の短パンでランニングする色黒の日本人と思しき男が前から走ってきた。
しなやかな筋肉を持つその男の腕には、アラビア語のような黒い文字の刺青が肩から肘まで一直線に描かれている。
川沿いの遊歩道を私たちに譲り、その男は車道の端へ。
男とすれ違いざま、ふわん、と石鹸の香が強く漂う。
えっ?
石鹸の香りを残し、その男はあっという間に去って行った。

その後も私とワンコはいつもの散歩コースを歩く。
川沿いを離れ、住宅街へ。
ワンコはハイテンションが落ち着き、今は私がゆっくり歩けるペースでトコトコ歩く。
後方から車のエンジン音がする。
道路の端へ避けると、また、あの石鹸がふわんと香る。
えっ!?
黒いハッチバックの運転席の窓は開いており、窓枠に肘が乗っていた。
刺青の腕が見える。
石鹸の香りが強く漂う。

ワンコは変わらず散歩を続ける。
刺青の男は、どこへ向かったのだろう。
あんなに石鹸を強く香らせて。

ワンコに引かれてその場を離れると石鹸の香りは空に溶けてなくなった。
それでも私は刺青の男の行き先が気になっている。



空に溶ける

5/20/2025, 8:18:38 AM

「どうしても…」


今日は沙希が久しぶりにテニスをしにやってくる。
靴擦れが治るまでテニス禁止令を出して1週間。
昨日の夜「靴擦れ治ったよ。明日からテニス行く!」と沙希から連絡をもらって、俺は心躍らせながら咲希の到着を待っている。

沙希がテニスコートへ向かって歩いてくる。
何て話しかけようかなあ。
靴擦れ治って良かったな、かな?
そう思いながら沙希の姿を目で追っていると、テニスコート入口で同じテニスサークルに参加する1年後輩の女に沙希が捕まった。

過去にテニス仲間から揶揄われたことがある。
「1年のあの子って、祐樹のこと絶対好きだろ。めっちゃ羨ましい。付き合っちゃえば?」って。
「何とも思わねー奴と付き合えねーだろ」って返したけど、その子が沙希に個人的に話しかけてるっぽいのは胸騒ぎがする。
後輩の女と連れ立っていく沙希を慌てて追いかけた。

近づくと声が聞こえた。
「付き合ってないよ」
沙希の声音は硬く緊張していた。
後輩の女が、沙希に絆創膏を貼ったのを見て、俺たちが親密な感じがしたと告げている。
そう見えたのか。
靴擦れが痛そうで心配して、なのにキュッと締まった白い肌の足首が女らしくてどうしようもなくドキマギしていたあの時。
幼馴染がただの幼馴染じゃなくなったあの時。

「ただの幼馴染だよ。…祐樹もそう言ってたし」
言った。言ったよ。俺は沙希に幼馴染だって。タクシー代を折半なって笑いながら。
けどアレは俺の照れ隠しで、沙希はわかれよ!

後輩が遠去かり、沙希は用品庫の方に体を向けて、リストバンドで目元を覆う。
また何でもないフリしやがって。

足元で砂利を踏み締める音がする。
俺の苛立ちのような荒い音。
沙希の頭のてっぺんを拳で小突く。少し痛い。

「何でもないフリは禁止って言ったじゃん」
「だって、幼馴染じゃん…祐樹もそう言ったし…」
言った。言ったよ。だけど!
「ただの、なんて付けることないじゃん。無理、してるじゃん」
何も言わない沙希の後ろ姿。
こんな時でも黒いウェアの華奢な肩や目元を覆うように伸びた細い腕が綺麗だと思ってる。
「俺、言ったよな。誰かに何か言われるなら、2度と言えないように言い返してやるって」
「だって、言われたわけじゃないから」
「沙希に泣かれるのは何か言われたのと俺にとっては同じだよ」

怒り口調になってる。だって、苛立っているから。
沙希にただの幼馴染だなんて言わせたくない。
言わせないためにはどうすればいい?
俺の気持ちを話せば、沙希は信用してくれる?

「俺さ、あの子のこと、何とも思ってないから」
「祐樹?」
沙希が驚いて振り向く。
マスカラは滲んでパンダみたいな目をしてる。でも、瞳は潤んで可愛い。
自分のリストバンドを外して、沙希の目元をリストバンドで傷つかないように優しく拭いた。
「…沙希」
顔を覆わず俺を見つめる沙希が眩しい。

「実は俺もさ、あの絆創膏を貼った日、何でもないフリをしてたんだ」
「えっ?」
「絆創膏を貼りながら、沙希って……」
そこまで言って、緊張していることに気づく。
沙希が俺を見つめて続きの言葉を待っている。
続きを早口で言い初めて、どんどん口調が早くなった。
「綺麗だなって思ってた。俺は咲希の特別でいたいかもしれないって。でも、言えなくて。もっと気持ちが固まったら言おうって」
恥ずかしくて腕で顔を覆う。
でも恥ずかしさと沙希に本音を伝えられた安堵や嬉しさが同居する。
まともに沙希の顔は見られない。
だって驚いている顔が、どんどん破顔していってるから。
ほんと…?
沙希が呟く。
しっかりと頷いて、俺はテニスコートへと体を反転させた。

「じゃあ、そういうことだから。先に行ってるから」
沙希の返事を待てずに俺はテニスコートへ走って行く。
伝わったよな?
あんなに嬉しそうに笑ってたし。

心のモヤは晴れている。

テニスコートで、サークル仲間と準備運動をしながら、心は沙希が合流するのを待っている。
沙希が後輩の前を通る時、互いに会釈してすれ違った。
その後、小走りで沙希は俺の元へ駆けてくる。
その顔は、可愛い笑顔。

俺も笑顔で、隣に来なよと手招きした。



(どうしようもなく恋が加速する)

5/13/2025, 9:42:46 AM

ただ君だけ




抑えきれなかったなぁ…

僕は宮島さんがマンションのエントランスに入って行くのを、車内から見えなくなるまで見送った後、車を静かに発進させた。




僕は総合病院に勤務する小児科医で、宮島さんは同じ小児科病棟の看護師。

宮島さんを知ったのは、小児科の改装工事のために外科病棟が一時的に外科小児科の混合病棟になったことからだった。
外科病棟勤務の看護師も小児看護をせざるを得ず、小児看護の経験のない宮島さんは戸惑うことも多かったと思う。
それでも、小児と接するときの楽しげな笑顔、自閉症児にそっと寄り添う優しさ。
宮島さんは看護師として責任感を強く持ち、自分にできることを懸命に行ったし、小児科経験のある先輩看護師や僕からのアドバイスをとても素直に受け入れて少しづつ自分のモノにしていった。
僕がそんな宮島さんを知って、好きになるまでに多くの時間はかからなかった。

けれど宮島さんは外科医の浅尾先生のことが好きで。
宮島さんは浅尾先生が既婚者だったのもあって、彼にアプローチをしようとせず恋心をいつも内に秘めていた。
彼の仕事がやりやすいように看護師として懸命に介助して、彼に褒められる。そんなときの彼女は浅尾先生に顔を見られないように俯いて、笑みをこぼさないように唇を引き結ぶ。
彼女の幸せはそんな毎日が続くことのように僕には感じられた。その控えめな愛情は僕を益々虜にした。

僕は地元へ帰って小児科のクリニックを開院する。
僕はクリニックで宮島さんと一緒に働きたい。
彼女は小児看護に片足を突っ込んだばかりだけれど、自閉症児に寄り添う優しさがあって、素直さがある。その誠実さで子どもたちも、親からの信頼も厚かった。
まだ知らないことが多く何にも染まっていないからこそ、僕が宮島さんに小児医療を教え、育ててみたい。

僕が自分のクリニックへ熱心に勧誘したとき、彼女は不思議がった。どうして僕が自分にそんなに良くするのか、と。
「わからない?」頷く宮島さんに少し笑って、「僕のことをもっともっと知りたいと思ったら教えてあげるよ」と頬を撫でた。思っていた以上に柔らかくしっとりと滑らかにキミの肌が僕の手に沿って、胸が高鳴る。
僕は宮島さんに恋心を仄めかした。触れてしまって、もう抑えられないと悟ってしまった。


小児科病棟の改装工事が終了し、外科病棟で働く宮島さんとの接点がなくなっても、僕は宮島さんに恋焦がれていた。
月日が流れ、外科病棟の休憩室でひとり涙を流している宮島さんを見つけたとき、僕は浅尾先生と宮島さんとの間に何か重大なことが起きたことを悟った。
何も聞かないつもりだったけれど、宮島さんは浅尾先生が僕が宮島さんの力になるからと伝えられたと僕に告げて、益々泣いた。
僕は無意識のうちに背中を摩る手を彼女の身体にまわし抱きしめていた。
宮島さんの涙は僕を切なくさせるし胸の痛みを強くさせるけれど、どうしようもなく僕を優しく振る舞わせる。
気の済むまで泣いて良いよ。一人で泣かないでね。泣きたい時は僕を頼ってね。
そのためなら何回でも何時間でも、いつでもどこでも駆けつけるよ。
「優しすぎます」と涙ながらに呟くキミが愛おしくて。
「僕はキミのことが好きだからね。どうしようもなく優しくしたくなる」と告げる。
僕がキミに優しいのは、キミのことを愛しているから。
ただ僕が好きなだけだから、僕のことは気にせず泣いてくれれば良いからね。

僕は以前、僕のクリニックへキミを誘いながら告げたことがある。
「僕のことをもっともっと知りたいと思ったら教えてあげるよ」と。
あれは僕のことをキミが好きになってくれて、僕のことを知りたくなったら教えてあげる、という意味だったけれど、宮島さんが僕のことを好きになる前に告白してしまった。
僕は…宮島さんのことを愛しているが故に、感情を抑制しきれないところがあると薄々気づいてたけど…これ以上抑制するのは無理かもしれない。
もちろん、僕は宮島さんの気持ちはこれからも慮っていくつもりだけど……
僕は宮島さんを抱きしめながら、僕の想いは僕自身でもコントロールができないほど強くなっていることを悟った。


浅尾先生もまた、自分のクリニックを開業するために辞めて行った。
浅尾先生は、宮島さんを自分のクリニックに誘わなかったし、俺を頼れと告げるほど、彼女には自分の心を隠し通した。宮島さんが俯いている間でしか柔らかな笑顔を見せないほど、宮島さんに恋していたのに。


宮島さんは配置換えにより、僕と一緒に小児科病棟で働きだした。
やっぱり、宮島さんには小児科が合っている。
ちょっとした変化に敏感で、子どもの感情を汲み取る能力があり、不安に自然と寄り添うことができる。
僕は病棟で個々の患児について宮島さんや病棟スタッフと一緒にサポートしながら、やっぱり宮島さんと僕のクリニックで一緒に働きたい想いを募らせた。
小児科病棟の子どもたちの可愛さや忙しさが、なんとなく宮島さんの浅尾先生への想いを忘れさせたような気もした。

僕は改めて宮島さんを僕のクリニックへ勧誘し、彼女からは僕に誘われてすごく嬉しいと、本当に感謝している様子がありながらも、一緒に働くことを断られた。
小児科病棟でせめてリーダー業務を独り立ちできるくらいには、小児看護の経験を積みたいから、とのことだった。
その決断は、とても宮島さんらしかった。
彼女はなにより努力家で、看護師としての責任感が強い人だったから。
僕は宮島さんの考えを支持した。
小児科病棟でしか経験できないことはたくさんある。
日中、一時的に関わるクリニックと、四六時中目を離さない病棟看護では、小児の情報量が全く違うし、昼間は元気に見えても、朝方、夕方、夜間と状態が悪くなることはとても多い。
その時間帯の看護判断はとても難しいがとても重要で、患児の病状に強く影響する。
それは僕が懇切丁寧に口頭で説明したとしても、経験に勝るものはない。

僕は限りある宮島さんとの時間を大切にしていこうと決めた。
この頃にはもう、僕は自分の気持ちを抑えきれなくなっていた。
小児科病棟のスタッフたちは僕と宮島さんを応援してくれているらしく、気づけば僕たちを二人きりにしてくれていることがよくあった。
「キミのことはわかるよ。もう何ヶ月も好きだからね」
僕は宮島さんに僕の気持ちをそっと伝えていった。
宮島さんは瞳を逸らし俯いてしまったり、小さく佐々木先生と呟いたり、何か用事を見つけたフリをして僕から離れてしまったり。
決して嫌がっているわけではなく、照れた上での行動だとわかるから、僕はいつも穏やかに笑っている。



そうして別れがすぐそこに来たある日、僕は職員食堂で宮島さんと一緒になった。
検食のスイーツを彼女が笑顔で食べるのを眺めるのが好きだから、杏仁豆腐を彼女のトレーへ載せた。
「いただきます…」と言った後の宮島さんはスプーンを持ったけれど、その手は動かなかった。
「宮島さん?」
気遣わしげに読んでみると、「何でもないです」と食べ始めたけれど、僕に返事をした声は湿っている。
何度もこんなやりとりをしてきたけれど、僕が検食をするのは今回が最後だもんね。
僕との小さな幸せのやり取りがなくなってしまうことに、寂しさを感じてる?僕はとても寂しいよ。

宮島さんに今夜の用事を聞いて、ラーメンに誘った。
あの外科小児科病棟合同の飲み会の後で、料理好きの店主が創作料理も提供してくれる、キミが気に入ってくれたラーメン屋さん。
僕の提案に同意してくれたことに安堵して、僕は宮島さんを眺めた。
どうしたら、キミの寂しさを埋めてあげられるかな…

ラーメン屋を出て、都会の夜の街で宮島さんと手を繋いで僕のコートのポケットへ。
やっぱり冬の夜だから宮島さんの手は冷たい。
「嫌なら…」手を繋ぐのをやめるよ、と最後まで言わずとも宮島さんは僕の手を握り返した。
驚く僕に気づいて、宮島さんは笑みをこぼした。
ちょっとした悪戯が成功したような得意気な微笑みが新鮮で、新しい発見で、僕は笑う。
どうしよう。今夜は楽しくて、嬉しくて、幸せで。
でもこの夜はずっと続く幸せではなくて、僕が長野へ帰郷してしまえば終わってしまう幸せで…それが切ない。
どんなに僕が宮島さんを想っても、キミが少しだけ僕に好意的なのだとしても、もうすぐ終わってしまう。

僕は大きく息を吐いた。
「自分で決めたことだけど、地元に帰るのを躊躇いたくなるね」と自嘲気味に告げる。
どうしようもないけれど、本当にどうしようもないのかな。
だって宮島さんは僕の手をずっと握ってくれているのに。

宮島さんの小さな声が聞こえた。
「私も…先生と過ごした日々が楽しかったです。すごく…」
湿り気を帯びた途切れ途切れの声音。
足を止めて宮島さんに向き直る。
「あ、泣いてないですよ、私…」
「…今にも泣きそうだよ」
僕に心配をかけまいと、泣いていないと伝えるキミが益々愛おしくなる。
こんなときでも、僕のことを考えてくれるいじらしさに僕は夢中になる。
どうしよう。僕は君のことを好きすぎる。
「僕と離れるの、寂しい?」
問いかけは優しい声になった。
しっかりと頷いてくれたことに安心して、宮島さんを安心させるために背中に手を回して優しく抱きしめる。
本当は…僕が抱きしめたいだけなのかもしれない。
君の寂しいという本音が、僕を昂揚させる。
「寂しがってくれて、喜んじゃってごめんね」
「素直すぎます…」
「うん、ごめんね」

寂しかったら寂しいと素直に伝えて欲しいこと、
君に我慢させたくないこと、
寂しさを受け止めに会いに行くことを伝える。


新幹線で1時間半。近いよね、と笑ってあげる。
うん、近いよ、1時間半なんて、宮島さんのことを考えていたらあっという間だ。
「近いです…」
そう言って僕の顔を見た宮島さんの瞳は涙に濡れて、キラキラ輝いて綺麗だった。
その瞳に吸い込まれていると、君はそっと言葉を紡いだ。
「私も会いに行っても良いですか?」
目を見開いた僕は、その言葉を頭の中で反芻して返事して抱きしめた。
ううん、今となっては抱きしめたのが先か、返事をしたのが先か思い出せない。
「もちろん。会いに来て。待ってる」
強く強く抱きしめていた。



宮島さんが泣き止むまで抱きしめた後、車で宮島さんのマンションまで送った。
僕も宮島さんもシートベルトを外したけれど、宮島さんは立ち去りがたいのか、膝の上に置いたバッグの持ち手をギュッと握っていた。
「宮島さん、思い出をひとつ作ろうか」
僕の提案に、宮島さんは顔を上げて「今からどこかに…」出かけるんですか?と続くだろう言葉に微笑む。
違うよ、お出かけじゃなくてさ。
僕は瞳を閉じて顔を傾けて宮島さんの唇にそっとキスを落とした。
唇を離して見えた顔はすごく驚いていて可愛くて、目元にも優しくキスを落とした。

これで二人だけの思い出ができたね。
寂しくなったら、僕は何度でもこのキスを思い出すよ。
キスを拒まないでいてくれるとは思ったけれど、驚かせてごめんね。
でも僕はキスをしたら、君ともっと離れがたくなったよ。
未だ驚いて固まっている宮島さんを皿に驚かせるようなことを言うけど、これは僕の本音。
怖がらないで欲しいな。

「帰らないの?僕の部屋に連れてっちゃうよ」

宮島さんが我に帰って僕の瞳を見る。
真っ直ぐに見つめ返す。
まだ一緒にいたい。でも、これ以上僕の気持ちを伝えても大丈夫なのかな。宮島さんのキャパシティオーバーしちゃうかな。
宮島さんは息を呑んで、慌てて僕にお礼を言って車から降りて行く。
キャパオーバーか。
僕は宮島さんの慌てぶりを感じつつも伝えずにいられなかった。
「最高の思い出をありがとう」
宮島さんは病棟の廊下ですれ違うときのように律儀にペコリとお辞儀した。



抑えきれなかったなぁ…

僕は宮島さんがマンションのエントランスに入って行くのを、車内から見えなくなるまで見送った後、車を静かに発進させた。


唇に指を当てる。
宮島さんの柔らかな感触が戻ってくるよう。
キスせずにいらないほど膨らんだ愛情と、抱きしめずにはいられない衝動。

ただ君だけが僕の理性を柔らかに打ち砕いて、愛を捧いでしまう。

僕が帰郷して寂しくなったら、宮島さんはきっと連絡してくれる。
「君が寂しいときは僕も寂しい」気持ちも信じてくれる。
今はもう、そう信じられる。
会いに来てくれたら、きっと僕は今よりももっと歯止めが効かなくなるのだろう。

ただ君だけが僕の心を強く揺さぶる。



ただ君だけ

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