Mey

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ただ君だけ




抑えきれなかったなぁ…

僕は宮島さんがマンションのエントランスに入って行くのを、車内から見えなくなるまで見送った後、車を静かに発進させた。




僕は総合病院に勤務する小児科医で、宮島さんは同じ小児科病棟の看護師。

宮島さんを知ったのは、小児科の改装工事のために外科病棟が一時的に外科小児科の混合病棟になったことからだった。
外科病棟勤務の看護師も小児看護をせざるを得ず、小児看護の経験のない宮島さんは戸惑うことも多かったと思う。
それでも、小児と接するときの楽しげな笑顔、自閉症児にそっと寄り添う優しさ。
宮島さんは看護師として責任感を強く持ち、自分にできることを懸命に行ったし、小児科経験のある先輩看護師や僕からのアドバイスをとても素直に受け入れて少しづつ自分のモノにしていった。
僕がそんな宮島さんを知って、好きになるまでに多くの時間はかからなかった。

けれど宮島さんは外科医の浅尾先生のことが好きで。
宮島さんは浅尾先生が既婚者だったのもあって、彼にアプローチをしようとせず恋心をいつも内に秘めていた。
彼の仕事がやりやすいように看護師として懸命に介助して、彼に褒められる。そんなときの彼女は浅尾先生に顔を見られないように俯いて、笑みをこぼさないように唇を引き結ぶ。
彼女の幸せはそんな毎日が続くことのように僕には感じられた。その控えめな愛情は僕を益々虜にした。

僕は地元へ帰って小児科のクリニックを開院する。
僕はクリニックで宮島さんと一緒に働きたい。
彼女は小児看護に片足を突っ込んだばかりだけれど、自閉症児に寄り添う優しさがあって、素直さがある。その誠実さで子どもたちも、親からの信頼も厚かった。
まだ知らないことが多く何にも染まっていないからこそ、僕が宮島さんに小児医療を教え、育ててみたい。

僕が自分のクリニックへ熱心に勧誘したとき、彼女は不思議がった。どうして僕が自分にそんなに良くするのか、と。
「わからない?」頷く宮島さんに少し笑って、「僕のことをもっともっと知りたいと思ったら教えてあげるよ」と頬を撫でた。思っていた以上に柔らかくしっとりと滑らかにキミの肌が僕の手に沿って、胸が高鳴る。
僕は宮島さんに恋心を仄めかした。触れてしまって、もう抑えられないと悟ってしまった。


小児科病棟の改装工事が終了し、外科病棟で働く宮島さんとの接点がなくなっても、僕は宮島さんに恋焦がれていた。
月日が流れ、外科病棟の休憩室でひとり涙を流している宮島さんを見つけたとき、僕は浅尾先生と宮島さんとの間に何か重大なことが起きたことを悟った。
何も聞かないつもりだったけれど、宮島さんは浅尾先生が僕が宮島さんの力になるからと伝えられたと僕に告げて、益々泣いた。
僕は無意識のうちに背中を摩る手を彼女の身体にまわし抱きしめていた。
宮島さんの涙は僕を切なくさせるし胸の痛みを強くさせるけれど、どうしようもなく僕を優しく振る舞わせる。
気の済むまで泣いて良いよ。一人で泣かないでね。泣きたい時は僕を頼ってね。
そのためなら何回でも何時間でも、いつでもどこでも駆けつけるよ。
「優しすぎます」と涙ながらに呟くキミが愛おしくて。
「僕はキミのことが好きだからね。どうしようもなく優しくしたくなる」と告げる。
僕がキミに優しいのは、キミのことを愛しているから。
ただ僕が好きなだけだから、僕のことは気にせず泣いてくれれば良いからね。

僕は以前、僕のクリニックへキミを誘いながら告げたことがある。
「僕のことをもっともっと知りたいと思ったら教えてあげるよ」と。
あれは僕のことをキミが好きになってくれて、僕のことを知りたくなったら教えてあげる、という意味だったけれど、宮島さんが僕のことを好きになる前に告白してしまった。
僕は…宮島さんのことを愛しているが故に、感情を抑制しきれないところがあると薄々気づいてたけど…これ以上抑制するのは無理かもしれない。
もちろん、僕は宮島さんの気持ちはこれからも慮っていくつもりだけど……
僕は宮島さんを抱きしめながら、僕の想いは僕自身でもコントロールができないほど強くなっていることを悟った。


浅尾先生もまた、自分のクリニックを開業するために辞めて行った。
浅尾先生は、宮島さんを自分のクリニックに誘わなかったし、俺を頼れと告げるほど、彼女には自分の心を隠し通した。宮島さんが俯いている間でしか柔らかな笑顔を見せないほど、宮島さんに恋していたのに。


宮島さんは配置換えにより、僕と一緒に小児科病棟で働きだした。
やっぱり、宮島さんには小児科が合っている。
ちょっとした変化に敏感で、子どもの感情を汲み取る能力があり、不安に自然と寄り添うことができる。
僕は病棟で個々の患児について宮島さんや病棟スタッフと一緒にサポートしながら、やっぱり宮島さんと僕のクリニックで一緒に働きたい想いを募らせた。
小児科病棟の子どもたちの可愛さや忙しさが、なんとなく宮島さんの浅尾先生への想いを忘れさせたような気もした。

僕は改めて宮島さんを僕のクリニックへ勧誘し、彼女からは僕に誘われてすごく嬉しいと、本当に感謝している様子がありながらも、一緒に働くことを断られた。
小児科病棟でせめてリーダー業務を独り立ちできるくらいには、小児看護の経験を積みたいから、とのことだった。
その決断は、とても宮島さんらしかった。
彼女はなにより努力家で、看護師としての責任感が強い人だったから。
僕は宮島さんの考えを支持した。
小児科病棟でしか経験できないことはたくさんある。
日中、一時的に関わるクリニックと、四六時中目を離さない病棟看護では、小児の情報量が全く違うし、昼間は元気に見えても、朝方、夕方、夜間と状態が悪くなることはとても多い。
その時間帯の看護判断はとても難しいがとても重要で、患児の病状に強く影響する。
それは僕が懇切丁寧に口頭で説明したとしても、経験に勝るものはない。

僕は限りある宮島さんとの時間を大切にしていこうと決めた。
この頃にはもう、僕は自分の気持ちを抑えきれなくなっていた。
小児科病棟のスタッフたちは僕と宮島さんを応援してくれているらしく、気づけば僕たちを二人きりにしてくれていることがよくあった。
「キミのことはわかるよ。もう何ヶ月も好きだからね」
僕は宮島さんに僕の気持ちをそっと伝えていった。
宮島さんは瞳を逸らし俯いてしまったり、小さく佐々木先生と呟いたり、何か用事を見つけたフリをして僕から離れてしまったり。
決して嫌がっているわけではなく、照れた上での行動だとわかるから、僕はいつも穏やかに笑っている。



そうして別れがすぐそこに来たある日、僕は職員食堂で宮島さんと一緒になった。
検食のスイーツを彼女が笑顔で食べるのを眺めるのが好きだから、杏仁豆腐を彼女のトレーへ載せた。
「いただきます…」と言った後の宮島さんはスプーンを持ったけれど、その手は動かなかった。
「宮島さん?」
気遣わしげに読んでみると、「何でもないです」と食べ始めたけれど、僕に返事をした声は湿っている。
何度もこんなやりとりをしてきたけれど、僕が検食をするのは今回が最後だもんね。
僕との小さな幸せのやり取りがなくなってしまうことに、寂しさを感じてる?僕はとても寂しいよ。

宮島さんに今夜の用事を聞いて、ラーメンに誘った。
あの外科小児科病棟合同の飲み会の後で、料理好きの店主が創作料理も提供してくれる、キミが気に入ってくれたラーメン屋さん。
僕の提案に同意してくれたことに安堵して、僕は宮島さんを眺めた。
どうしたら、キミの寂しさを埋めてあげられるかな…

ラーメン屋を出て、都会の夜の街で宮島さんと手を繋いで僕のコートのポケットへ。
やっぱり冬の夜だから宮島さんの手は冷たい。
「嫌なら…」手を繋ぐのをやめるよ、と最後まで言わずとも宮島さんは僕の手を握り返した。
驚く僕に気づいて、宮島さんは笑みをこぼした。
ちょっとした悪戯が成功したような得意気な微笑みが新鮮で、新しい発見で、僕は笑う。
どうしよう。今夜は楽しくて、嬉しくて、幸せで。
でもこの夜はずっと続く幸せではなくて、僕が長野へ帰郷してしまえば終わってしまう幸せで…それが切ない。
どんなに僕が宮島さんを想っても、キミが少しだけ僕に好意的なのだとしても、もうすぐ終わってしまう。

僕は大きく息を吐いた。
「自分で決めたことだけど、地元に帰るのを躊躇いたくなるね」と自嘲気味に告げる。
どうしようもないけれど、本当にどうしようもないのかな。
だって宮島さんは僕の手をずっと握ってくれているのに。

宮島さんの小さな声が聞こえた。
「私も…先生と過ごした日々が楽しかったです。すごく…」
湿り気を帯びた途切れ途切れの声音。
足を止めて宮島さんに向き直る。
「あ、泣いてないですよ、私…」
「…今にも泣きそうだよ」
僕に心配をかけまいと、泣いていないと伝えるキミが益々愛おしくなる。
こんなときでも、僕のことを考えてくれるいじらしさに僕は夢中になる。
どうしよう。僕は君のことを好きすぎる。
「僕と離れるの、寂しい?」
問いかけは優しい声になった。
しっかりと頷いてくれたことに安心して、宮島さんを安心させるために背中に手を回して優しく抱きしめる。
本当は…僕が抱きしめたいだけなのかもしれない。
君の寂しいという本音が、僕を昂揚させる。
「寂しがってくれて、喜んじゃってごめんね」
「素直すぎます…」
「うん、ごめんね」

寂しかったら寂しいと素直に伝えて欲しいこと、
君に我慢させたくないこと、
寂しさを受け止めに会いに行くことを伝える。


新幹線で1時間半。近いよね、と笑ってあげる。
うん、近いよ、1時間半なんて、宮島さんのことを考えていたらあっという間だ。
「近いです…」
そう言って僕の顔を見た宮島さんの瞳は涙に濡れて、キラキラ輝いて綺麗だった。
その瞳に吸い込まれていると、君はそっと言葉を紡いだ。
「私も会いに行っても良いですか?」
目を見開いた僕は、その言葉を頭の中で反芻して返事して抱きしめた。
ううん、今となっては抱きしめたのが先か、返事をしたのが先か思い出せない。
「もちろん。会いに来て。待ってる」
強く強く抱きしめていた。



宮島さんが泣き止むまで抱きしめた後、車で宮島さんのマンションまで送った。
僕も宮島さんもシートベルトを外したけれど、宮島さんは立ち去りがたいのか、膝の上に置いたバッグの持ち手をギュッと握っていた。
「宮島さん、思い出をひとつ作ろうか」
僕の提案に、宮島さんは顔を上げて「今からどこかに…」出かけるんですか?と続くだろう言葉に微笑む。
違うよ、お出かけじゃなくてさ。
僕は瞳を閉じて顔を傾けて宮島さんの唇にそっとキスを落とした。
唇を離して見えた顔はすごく驚いていて可愛くて、目元にも優しくキスを落とした。

これで二人だけの思い出ができたね。
寂しくなったら、僕は何度でもこのキスを思い出すよ。
キスを拒まないでいてくれるとは思ったけれど、驚かせてごめんね。
でも僕はキスをしたら、君ともっと離れがたくなったよ。
未だ驚いて固まっている宮島さんを皿に驚かせるようなことを言うけど、これは僕の本音。
怖がらないで欲しいな。

「帰らないの?僕の部屋に連れてっちゃうよ」

宮島さんが我に帰って僕の瞳を見る。
真っ直ぐに見つめ返す。
まだ一緒にいたい。でも、これ以上僕の気持ちを伝えても大丈夫なのかな。宮島さんのキャパシティオーバーしちゃうかな。
宮島さんは息を呑んで、慌てて僕にお礼を言って車から降りて行く。
キャパオーバーか。
僕は宮島さんの慌てぶりを感じつつも伝えずにいられなかった。
「最高の思い出をありがとう」
宮島さんは病棟の廊下ですれ違うときのように律儀にペコリとお辞儀した。



抑えきれなかったなぁ…

僕は宮島さんがマンションのエントランスに入って行くのを、車内から見えなくなるまで見送った後、車を静かに発進させた。


唇に指を当てる。
宮島さんの柔らかな感触が戻ってくるよう。
キスせずにいらないほど膨らんだ愛情と、抱きしめずにはいられない衝動。

ただ君だけが僕の理性を柔らかに打ち砕いて、愛を捧いでしまう。

僕が帰郷して寂しくなったら、宮島さんはきっと連絡してくれる。
「君が寂しいときは僕も寂しい」気持ちも信じてくれる。
今はもう、そう信じられる。
会いに来てくれたら、きっと僕は今よりももっと歯止めが効かなくなるのだろう。

ただ君だけが僕の心を強く揺さぶる。



ただ君だけ

5/13/2025, 9:42:46 AM