「お幸せに」
なんとか絞り出した私の声は恐らく震えていただろう。
彼女のその眩しさに水を差したくは無かった。
ただひたすらに彼女がもうそばにはいてくれることはないということを脳裏で確認するだけだった。
見たことのないような蕩けるような笑顔は私の知らない顔だったのだ。それ以上何も言えなかった。
私は彼女を愛していた。ただそれだけだった。
『幸せに』
頭がボウッとして何だか身体が鈍い。
しまった、風邪でも引いてしまったか。
鏡に目をやると疲れた顔が映った。
ため息にも似た息が漏れる。
まだ月曜日だというのに。
明日には治っていることを願って布団に潜り込む。
熱い。
寝れそうになかったが、しばらく目を瞑っているといつの間にか寝てしまった。
今日も地球は廻る。
たとえ微熱であっても。
ポツポツと落ちてくる雨粒が右肩に当たって弾ける。
左肩に仄かな温もりが触れ、こそばゆい。
さほど大きくない傘のハンドルを握る手は何処か頼りなく映る。
雨音で遮断されて世界は僕と君だけのような気さえした。
今日だけは雨が止んで欲しくなかった。
『ハッピーエンド』
「貴方は私には優し過ぎたの。だから……もう、お終い」
そう言って彼女は、小さなキャリーケース一つでこの部屋から出ていってしまった。
部屋の隅の観葉植物も、壁に貼られたポスターも、棚に並べられた本も全て昨日のままなのに、部屋は広く空っぽに思えた。
閉じられた扉の前で僕はただ呆然と立ち尽くすことしかできなかった。
彼女を追いかけることも、泣くことも怒ることもなく。
ただぼんやりと扉を眺めていた。
僕と彼女が半ば同棲のような形になったのは去年の冬だ。
寒い公園で一人で泣きじゃくる彼女は、ただひたすらに孤独で儚かった。
今にもこの世界から消えてしまいそうで、僕は彼女を放ってはおけなかった。
彼女は僕が思っていたよりもずうっと逞しく、気高かった。僕にできたのは彼女のそばにいるだけだったのに、彼女はほとんど一人で立ち上がってしまった。
今にして思えば、あの頃から僕は真に彼女の心には寄り添うことが出来なかったのだ。
これ以上彼女に近づいて、彼女が傷ついてしまうことを僕は恐れていた。
泣き止んだ彼女は笑ってくれたけど、その笑顔は酷く寂しそうだった。
だからこの日が来ることも本当はわかっていた。
僕は優しくなんてなかった。
『優しさ』
カラコロと口の中の飴が歯に当たって音を立てる。
田園風景をひた走る鈍行は僕を含めても片手で足りるほどの乗客しかいない。
目を背けたくなるほどに晴れ晴れと輝く青い空は窓の向こうから僕をぼんやりと眺めている。
君が僕らの街から姿を消してからもう1年が過ぎた。
その間に赤い葉が落ちて、雪が降り、桜が咲いた。
蝉が鳴く度、僕は君の影を探してしまう。
もうここにはいないとわかっているのに。
君が二度と会えない場所に行ってしまったのは大雨で中止になった花火大会の日だった。二人で約束した花火大会。
雨に打たれた道路で、赤く滲んだ浴衣を着た君は、誰よりも綺麗で冷たかった。
僕には君を守ることが出来なかった。
また夏が来た。
僕は君に会いたい。
『君に会いたくて』