「え、っと……」
驚いた。
唖然としてしまい、言葉が出てこない。信じられないものを見てしまったかのように、戸惑いが隠せない。自分はもっと冷静でスマートな人間だと自負していたのに。
こんなことで、心を乱されている。
僕は、彼女が“強がり”な性格だということは理解していたはずだ。彼女とは出会ってから長くはないが、そのくらいはきちんと見抜いていた。
だけど実際には、強情で見栄っ張りで当たりの強い彼女しか見たことがなかった。それはまぁ、僕自身の態度や対応が一因ではあるが。それでも、彼女が弱みを見せるようなことは、言葉でも態度でも、ただの一度もその片鱗さえなかった。
だからこそ、僕はとても驚いていた。
「……君って、泣いたりするんだ」
と、素直に口から零れて落ちてしまうくらいには。
「……」
「…………」
重たい沈黙。
小さく肩を震わせながら蹲っている目の前の少女は、膝を抱えて僕に背を向けたまま、無反応だ。
……間違えた。
さすがに、泣いている子にかける言葉じゃなかった。
いつもの軽口じみたそれが顔を覗かせて、口をついて出てしまった。
──いや、違う。わかってる、動揺しているんだ、僕は。
目を瞬き、息を吐き、頭に手をやって、髪をかきあげる。落ち着かない。
この場合、放っておいたほうがいいのか、寄り添ってあげたほうがいいのか。声をかけるべきか、黙っているべきか。自分の行動の全てに迷いが生まれる。正解がわからない。
どうして僕はこんなに、こんなにも……。
迷いに迷って、さすがにこの状態の彼女をここに放置するわけにもいかない、という考えに至る。
その上で、近くに行くか離れた場所で待つか、これまた逡巡してから、ようやく心を決めた。
もう一度小さく息を吐いて、足を踏み出す。そして静かに彼女の隣に腰を下ろした。
「……」
無反応。少なくとも、追い払われはしなかった。普段なら確実に怒られるし、殴られる距離、そして行為だ。
とはいえ近づいたところで、顔は相変わらず膝に埋めており、彼女の表情は伺えない。ただ、しゃくりあげる声だけが小さく漏れ聞こえる。
もっと、周りを気にせず泣き喚いてもいいのに。そこはプライドがあるのだろうか、声を押し殺している様子だった。それはそれでなんとも言えない気持ちになる。
そこでふいに、口許から笑いが溢れそうになって、慌てて表情だけの自嘲に留めた。
僕は、彼女に泣き止んで欲しいのか、泣いて欲しいのか。
「──あの、さ……」
それなりの時間をかけて沈黙の重さに耐えてから、僕は口を開いた。
「僕はあいにく、誰かを慰めた経験も、誰かに慰めてもらった記憶もない」
もちろん、彼女からの返事はない。反応もない。が、たぶん聞いてはいる。彼女はそういう子だ。
しかし聞いてくれているとわかってはいても、反応がないのは多少堪える。特に今は。
「えぇっと……つまり、こういうとき、どうすればいいのか……僕にはよくわからない」
行動も然りだが、声の掛け方の正解もわからないまま、僕は必死に言葉を手繰り寄せる。
「だけど、君に泣かれると、僕は結構……その、困る、というか」
僕も僕で、彼女のことを言えるほど素直ではない。自覚症状だ。捻くれた言葉を発するほうがよほど得意だと言える。
だからこそ、今僕は言葉に詰まっている。
「だからまぁ……その、なんだろ、君がそのままだと、張り合いがない、というか……」
途切れ途切れ、歯切れの悪い言葉たち。僕はこんなにも言葉を紡ぐのが下手になれるのか。あまりにも必死で、自嘲する余裕さえもない。
そんなとき──ふっ、とそれまでとは少し違う息が溢れる音がした気がした。
「……あんたのために、泣き止め、って……?」
声が、返ってくる。
久しぶりに聞いた彼女の声は、弱々しく小さい掠れた鼻声だった。
それでも返事があったことにほっとしたのは、もはや否めない。だが、そのおかげで余計に焦る。
「え、いやぁ……まぁ、そういうことになる、のかな?」
「……なにそれ」
膝に顔を埋めた体勢のままの彼女の表情は見えないし、その声はくぐもっている。でも、心なしか少し笑っているようにも聞こえる。
「あんた、意外と不器用ね……」
「は……はぁ?」
素っ頓狂な声が漏れた。
僕の反応を聞いてか、鼻を啜りながら、くすくすと小さく笑う声が聞こえてくる。どうやら、少しは気が紛れたようだ。元気付いたかどうかまでは──わからないが。
僕の方も緊張がほぐれる。
彼女につられて、呆れた苦笑が零れた。
「──そういう君は、意外と泣き虫だ」
title. 調子が狂う
Thema. まだ知らない君
小さな手を掬い上げるように両手できゅっと握った。
暖かいとも冷たいとも言い難い手の温もりが、仄かに伝わってくる。
目の前の彼女は小首を傾げて、何をするのかとこちらを見ている。どうしたの。そう言うように覗き込み、見上げてくる。
拾われて包み込まれたその手は、所在無さげにしながらもそのまま貸してくれていた。
「なんでもないよ」
言いながら、しばらくそうしていると互いの手の間にじんわりと温かさが生まれてくる。
本当にどうしたの。と、再度彼女が目で訴えてくる。
「……なんでもない」
また同じように答える。
なんでもない。
本当になんでもないんだ。
意味はない。目的もない。
なんなら、自分でもわかっていない。
いや、わかってないわけではないのだ。ただ、それを言語化するのが難しい。
焦燥感、喪失感、妬み、恨み──そんなような、でもそれではないような。モヤモヤ、と表するのが一番手っ取り早いような。
理由のひとつは見当が付いている。
単なる日常。いつもの、なんでもない会話。
『いつも元気だよね、悩みとかなさそう』
「はは、そうですか?」
──本当はそんなことないのに。
『メンタル強いから、大丈夫でしょ』
「がんばりますね」
──本当はそんなこと、
『悩みとかある? あったら言ってね』
「ありがとうございます、大丈夫ですよ」
──本当は、
『ほら、いつも忙しそうだから、あんまり遊びとか誘っちゃあれかなって』
「ごめんね、気遣ってくれてありがとう」
──……。
単なる日常。なんでもない会話。
別になんでもない。
そう、なんでも。
だって実際、他人にとってはなんでもないことなのだから。
だから当然自分にとっても、
「なんでもない、はずなんだよ」
そうであるはず。
そうでなければならない。
そうじゃないとおかしい。
だから、なんでもないと、笑わなくてはいけない。
それがむしろ、人として当然なのだから。
顔を埋めるかのように態勢を低くして蹲れば、彼女は反対に身を乗り出し頬ずりをし、──かと思えば身を捩ってどこかへ行ってしまう。
小さく鼻を啜る音に被せて、彼女は遠くで「にゃあ」と鳴いた。
title. うまくいきるために。
Thema. 何でもないフリ
橙色の空と、灰色の雲。
日中の騒がしさなど嘘のように、誰も彼もがいなくなってしまった静寂の田舎道を、少女はひとり歩いていた。
いつもの帰路。いつも通りの景色。
だが今日は、なんとなく、胸騒ぎのような、不安のような、なにか、なにかを覚える。
いつもと違うような、なにか……。
視線を上げれば、真正面に位置する沈みかけの西陽が、一日の終わりを告げるように強く輝いて、視界を覆い尽くさんとしてくる。
眩しい。
あまりの眩しさに耐えかねて、少女は目を細めた。ぱちぱちと慣らした後で、光から逃げるように左右に瞳を動かせば、今度は黒が視界に映る。
西陽を受けた周囲の景色は、その光に反比例するように影と化していた。道の両側を囲む林などは緑も茶色もない混ぜに、黒だけが道に覆い被さるようにして、仄暗さを演出している。
やけに静かだ。
風に揺れる木々の音と、鴉の鳴き声だけが物悲しげに響き、胸をざわつかせる。
「誰?」
不意に、声がかかる。
少年とも青年とも言い難い、けれどおそらく男性の声。
きょろきょろと声の主を探そうとして、その前に目に留まる。
正面、少し先に、いつのまにか一つの人影があった。
逆光で顔も姿も見えず、あくまで影でしかわからないが、声から察するに男だろうか? すらりとしていて、長身というほどでもないが、背は低くはなさそうだ。
誰だろうか。というより、さっきまでいただろうか?
いや、それよりも。
なぜ、誰何をされたのだろう。
こんな、誰もいない道の真ん中で。
口を開きそうになって、慌てて閉ざす。
ざわざわと胸が騒ぐ。
少女は瞳に警戒の色を滲ませて、その影を見据えた。
「君、名前は?」
また、誰何。今度は先ほどよりもはっきりと鼓膜に響いて、思わず答えなきゃと口を開く。
声が、喉元まででかかったところで、少女は慌てて両手で口を押さえた。
影が、ゆっくりと歩み寄ってくる。
「誰? って、聞いてるんだよ」
優しく穏やかな声は変わらず、なのに語気が強まる。
男の声の持つ不思議な強制力が、何度も少女の名前を音にしようと働くが、少女は息すらも留めて、沈黙を守る。
“絶対に、名は、口にしてはいけないよ。
黄昏時は、特にね。”
そう、警鐘が鳴る。昔誰かに教えてもらった忠告が。
ピリピリとした緊張感が、乾いた秋の冷たい空気の間を流れた。
口を押さえる少女の手が震える。
また、声が、耳に届く。
──ふっ。
今度は、気の抜けたような、笑い声だった。言葉ではない。張り詰めた空気が、一気に散るような感覚。
「賢明」
影が肩をすくめながら、少し残念そうにそう言う。
「いいよ、答えないで」
言いながら、男は少女に近付いてくる。まるで知り合いに歩み寄るかのような、軽やかな足取りで。
けれど反対に少女のほうは、当然警戒を解かずに、身を固める。男の歩みを止めようと、口許を抑えていた手を恐る恐るゆっくりと離し、
「あ、あなたこそ……何……?」
と、小さく震える声を絞り出した。
その言葉に男は足を止め、じっと少女を見つめる。
面白そうに目を細めたように見えた。
「自分は答えないのに?」
けれど、声は冷たく、僅かに嘲笑の色が透ける以外に感情は読み取れない。
「君が答えないなら、こっちも答えないよ。当然ね。でも、知る必要もない。そんな無駄話をする前にさっさと帰ろう。逢魔時だから。君は気を付けて帰らないと」
そう言って、男はさらに近づいてくる。
それに警戒するように少女がジリジリと退けば、彼はその様子にくすりと笑って、「後ろ、見てごらん?」と自身の指で促した。
彼から目を離すのも怖くて、少し逡巡したあとで、少女は恐る恐る彼が指し示す方向を辿るように追う。
そこにあるのは、ついさっき歩いてきたただの田舎道のはず──だった。
振り返った先にあったのは、迫り来る夜の濃紺と紫色の空。見事なグラデーションを描くそれは、頭上を境界に広がっている正面の橙色の景色との差に、綺麗を通り越して不気味ささえ感じる。
加えてその下にあるのは道──だが、その先は真っ暗だった。両側の黒い木々が閉じていくようにして道ごと闇に溶けていっている。まるで、霞んで見えないその向こうで、世界が途絶えてしまっているかのように。
思わず後退りをしそうになって、気付く。
──自分の足元から伸びる影が、西陽を受けて、その闇に飲まれている。
「ね、あっち、行きたい?」
男の声に、慌てて視線を戻した少女はふるふると首を横に振る。
「だよね」
くすり、男はまた笑う。
「どうする?」
「……か、……帰りたい…………」
「じゃあ、一緒に行こう」
気付けば、男は目の前に立っていた。
「送ってあげる。ほら、なんだっけ? 童謡でも言うだろう。『おててつないでみなかえろう』ってさ」
そう言いながら、手を差し伸べてくる。
「そう警戒しないでよ、傷付くなぁ。お家に帰りたいんでしょ」
「本当に、帰してくれるの」
「まぁ、お利口さんだったからね。仕方ない」
男はにこりと、今度は穏やかに笑う。逆光で見えなかった表情もここまで近付けば、互いにわかる。
少女は男の顔を見て、差し出された手を見て、それから後ろを僅かに振り返り。
やがて、意を決したようにその手を取った。
「……約束、してくれるなら」
「約束、ねぇ」
やくそく、やくそく、と男は面白そうに反芻する。
「仕方ない」
くすりとまた笑って、男が少女の手を引く。
ふたりの歩いたあとに、ひらりと黒い羽が舞い落ちる。
遠くで、夕方のチャイムの音が鳴っていた。
── おてて つないで みなかえろう──
──からすと いっしょに──
──かえりましょう────…………
title. 誰そ彼、と。
Thema. たそがれ
誰そかれと 我れをな問ひそ 九月の
露に濡れつつ 君待つ我れを
ふと空を見上げる。
──遠いな、と思った。
空が遠いなんてことは至極当然の事実だ。それでも普段より高く遠く見えた。
それは、ここが都会で、高くそびえ立つビルに囲まれているからかもしれない。
それは、随分と高度の高いところを飛んでいる鳥が、タイミングよく視界を横断したからかもしれない。
それは、ちょうど今が真っ昼間で、太陽が一番高いところにいるからかもしれない。
だから、相乗的に空が高く見えるのかもしれない。
だけど、なんとなく。空が高く遠く見えると、なんとなく秋を感じるのだ。
秋だなぁ、と。そんなところで感じるのだ。
芸術の秋だとか、食欲の秋だとか、運動の秋だとか、そんなのは知らない。
紅葉だとか、銀杏だとか、栗だとか、芋だとか、そんなのもいらない。
ふと見上げたときの、空の薄い水色。それがなんとなく、高く遠くに見えるのが、自分にとっての秋なのだ。
だからなんだと言われたら、別になんでもない。
ただ、そう思ってそう感じるというだけだ。ちょっとした反抗心でもあるのかもしれない。
誰も傷付けない反抗。いいじゃないか。上等だ。
そんでもって秋も感じる。なかなか風流でいい。
たぶん『万葉集』だとか『古今和歌集』だとか『枕草子』だとかも、だいたい同じ感じだろうと思う。
そんなことを考えながら、ふとなんとはなし思い切り空気を吸い込む。
今日は肌寒い。冷たい空気が肺に届く。
都会の濁った空気も、幾分か澄んで感じる。科学的な根拠とかそういうのは知らないが、個人的にそう感じるのだからそれでいい。それで満足ということでいい。逆に否定されたら萎える。
ああ、そういえば、久々にちゃんと息を吸ったな。
そこでようやく視線を正面に戻す。少し首が痛い。
でも、お陰でむしゃくしゃしていたのが少し落ち着いた。
これは小さなライフハック。
ひとり脳内でただ、自分がいいと思ったものをひたすらに語り尽くす。ひとりでレスバみたいなことをする。脈絡も文脈もないが、今回ばかりは気にしなくていい。だって、そこにいるのは自分だけだから。
そうすると何がいいかって、それは知らないけれど。
でも、ほら、だって、上を向いて、深呼吸もして身体に酸素供給だってできた。
心理学的にも、医学的にも良かったりするんじゃない?
……知らないけど。
title. なんかいい感じの小さな現実逃避
Thema. 秋🍁
神様が舞い降りてきて、こう言った。
──彼女を護るのは私の役目だから。
それを聞いた僕は、目を見開いて硬直した。驚きというより図星をつかれた感覚だった。絶望にも近い。
何かを言い返そうとして張り付いた唇を離すも、言葉が浮かばない。薄く開いた口許からは、音にもならない空気が漏れ出るだけだった。目を逸らす。
あまりにも、情けない。
普段ならもっと高圧的にもなれるのに、こればかりはだめだった。
あたりまえだ。悪魔の血を引く僕に、彼女を守る力などない。あるはずがない。常々そう思っていたところへこれだ。もはやトドメだろう。
彼女とともに過ごした時間が長かろうが関係ない。そもそも、“神様”と、僕自身がそう呼んでいる時点で勝てもしないのだ。
そして彼女もまた、奴をそう呼び、それから願い、祈り、求めるのだろう。
わかっている。わかっている。全て、わかっている。
ただ、君を守るのは僕でありたかった。それだけだった。
小さな、それでいて強欲な、君に必要のない僕のエゴだったんだ。
押し付けなんか、しないよ。するわけがない。
僕だって君を守りたいんだから。だから、君の幸せが僕の一番であるべきなんだ。
僕は顔を上げると、神様をひと睨みした。ああ、完全に負け犬だ。格好がつかないにも程がある。
目の前の奴はそんな僕に一瞬だけ哀れむような目を向けたあとで、フッと嘲笑をこぼす。それは奴なりの慰めのつもりだったのかもわからないが、僕は悔しさに心を淀ませて、ただ無言のままその場を去る。
彼女を護りたいから悪態はつけないし、彼女を守りたいから納得もできない。
せめぎ合いなんて、葛藤なんて、悪魔が聞いて呆れると、僕は奴の隣を通り過ぎながら、そう思った。
title. あくまでも
Thema. 神様が舞い降りてきて、こう言った。