瑞希

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7/6/2024, 3:46:05 PM


私は、スマホであまり写真を撮らない。特に理由という理由は無いけれど、強いて言うなら防犯のためだろうか。

そんな私にも、大切にしている写真がある。
推しの写真やグッズは勿論大事なのだけれど、同じくらい大事にしている写真がある。

それは、小学3年生の頃に撮った写真だ。
私はしばらく経ったあとに転校してしまって、その友達とはきっと会えない。もし会えたとしても、相手が私を、私が相手を忘れている可能性の方が高いだろう。

親の都合上、私はよく転校をした。その度に、お別れの品として色紙などを貰うけれど、顔写真を見ても名前が思い出せない時が、最近多くなった。
けれど、私の大切にしている写真は違う。
遊んでいた時に、友達のお母さんが撮ってくれたものだ。
学校で渡されるものとはどこか違う温もりを感じた。

荷物を探す時に、思い出の品を見つけることがある。
色紙などはサッと目を通した後に、懐かしいな、と思いながら作業を再開するのだけれど、その写真は違う。
懐かしさと、涙が込み上げてくる。
一度、その写真を見ていた時に涙が零れたことがあった。

あの時に戻りたいわけではない。
けれど、もう一度だけ。一度だけでいいから。
彼らの目を真っ直ぐに見て、他愛のない話をしたい。

7/5/2024, 12:30:41 PM


子供の頃、私は田舎に住んでいた。
田舎とは言っても、お隣さんまで数キロ離れていたりするわけではない。ビルや団地も少なく、秋には鈴虫やら松虫やらの音が聞こえてくるような静かな場所だった。

買い物などの帰り道は、基本的には車だった。夜に出かけることもほとんど無かったため、夜空を見上げることは少なかったように思う。けれど、田んぼの多い地域だった為か、心なしか街灯が少なかった。
だから、珍しく夜に外出した時は足を止めて、星空をよく見上げていた。星座を探すことはしないで、ただ星を見ていた。あの星は明るいな、あの星は見えづらいな、それくらいしかあの時は考えていなかった。

比較的都心部の方に越してきても、夜に外出することは少ない。店の閉まる時間が早かったり、明かりに飛んでくる虫が苦手だったり、その他諸々の理由で。

ただ、星は今も変わらずに好きた。
春や秋など、暑すぎず寒すぎない気候の日はベランダに出て、月や星を見ることがある。光の弱い星は、あまり見えない。私の視力が悪いことも相まって。

星の写真などを見ると、思うことがある。
自分が死ぬ前に、満天の星空を眺めて眠ってみたい、と。
キャンプをするような性格では無いけれど、数多の星を眺めながら、その美しさを目に焼き付けながら眠りたい。

都心部だと、流星群はあまり見られない。
死ぬ前に1回くらいは見たいな、と思う。映像で見るのも好きだけれど、やはり自分の目で見てみたい。レンズやスマホ越しではなく、もしかしたらメガネ越しかもしれないけれど、自分の記憶に、網膜にその景色を焼き付けたい。

7/4/2024, 1:44:29 PM


私は、物欲センサーと相性がいい。
それがいいことかと聞かれれば、断じてノーだ。
例えばランダムのグッズ。

最近話題のあるアニメ(アマプラで見て私もだいぶ今更ながらハマった)の缶バッジを買った時のこと。
ラインナップには最推しも二推しも居て、単純計算上ならば、推しが当たる確率は2分の1だった。

察しのいい人はわかったと思うが、推しは出なかった。
開封が終わった時、思わず乾いた笑いが出た。
推し以外は嫌いなのかと聞かれれば、ほとんどが嫌いでは無い。たまに例外が居るが、主人公の周りにいるキャラは好きではあった。あくまで推しでは無いだけで。

今日は5000円近くを使って最推しのビッグタオル(名称を忘れた)を取ったけれど、神はそうなると分かっていたのだろうか。神は程々に信じているため、ガチャやランダムグッズを引く時、つい神頼みしてしまう。

最後に、わかる人は私が何のアニメを見ているのかが分かるかもしれない願い事を書かせて欲しい。結果がどうなるかは、きっと神しか分からない。けれど、少しでも幸運の女神が微笑んでくれることを願って。

7月6日からのフェアで、推し二人が当たりますように。
嫌いなキャラは居ないけれど、推しが当たった時の嬉しさは桁違いだから。もし同担拒否の人が見ていたら、ここで謝罪させて欲しい。リアルで人と関わる時は配慮できるけれど、ここでは出来ないからだ。

ちなみにだが、私の最推しの髪色は深い赤色(色の名称が答えなのでこれで許して欲しい)で、二推しは主人公だ。

お題に沿っていない話という自覚はあるが、ここまで読んでくれた人に感謝を。ガチャを引く時、ランダム系の何かを買った時、貴方の欲しいものが当たりますように。

7/3/2024, 1:42:00 PM


漫画やアニメの見すぎだと言われそうだが、私は「人生」を道と表現することが好きだ。

たくさんの選択をして、たくさんの後悔をして、けれど人は皆同じ場所に行き着く。振り返っても、もう後ろに進むことは出来ない。途中がどうであれ、結局一本道なのだ。後悔のない生き方なんて出来ない。でも、私が死ぬ時、道の終わりにたどり着くとき。笑えていたらいいと思う。

『仮死化』という、私の好きな曲がある。
あるリズムゲームの為に書き下ろされた曲なのだが、フルの歌詞を見た時に、少し泣きそうになった。
『消えたくて生きた今日があるならどちらも嘘にはしなくていいから』という歌詞が、私に刺さったのだ。

今となってはどうして病んだのかも分からないけれど、私は小学4年生の頃に所謂病み期に入ったことがある。
毎日「死にたい」だとか「どうして生きてるんだろう」だとか思っていた。そこから私を救ってくれたのはこの曲では無いけれど、音楽が私を救ってくれた。

今は「なんか違うな」と思って見ていないけれど、とあるグループが私にとっての光だった。この人達に会いたい、この人達の声を生で聴きたい。そう思っていたら、いつの間にか病み期なんて終わっていた。

何に感化されたのかは分からない。けれど、朧気な記憶の中に、ある曲の歌詞が自分に寄り添ってくれているような気がして安心したような記憶がある。
1人じゃないよ。生きててもいいんだよ。そう言ってくれているような気がして、1歩を踏み出せたのだ。

今は友達もできて、時折遊んでいる。生きようと思って良かった、と思う。苦しいことも沢山あったけれど、今はそれ以上の幸せがある。漫画やゲームなどの好きなキャラと出会えたり、同じ趣味を語れる人と出会えたり。

話が大きくそれたりしたが、人生(道)の先にあるものは生きとし生ける全てに共通する「死」だ。
けれど、それはあくまで終点の話。年齢を電車として例えるのなら、まだまだ何十駅もあるだろう。その間、沢山の選択肢にぶつかり、選択し、後悔し、それでも歩む。

最期に迎えるのは「死」でも、自分が歩いている道の先にあるのは、自分だけの選択肢と、自分だけの生き方だ。

7/1/2024, 5:40:43 PM


授業中、ふとした時に外を眺めている。
窓際の席だった時は、回数もそれなりに多かったような気もする。廊下側の席になった時は、外なんてほとんど見ていなかった。けれど、窓際になるとつい見てしまう。

記憶に残っているのは、中学校での景色だった。
春は、教室の窓から見えるギリギリのところに桜が咲いていた。誕生日が早く、学年が上がった最初は窓際で過ごした私は、窓の外(主に桜)をずっと見ていた。咲くまでに長い長い時間をかけて、けれど、咲き誇った数週間後にはほとんどが散ってしまう。そんな儚さが好きだった。

春がすぎた後、夏は緑が生い茂った校庭と空や雲を、秋はポツポツと見える赤や黄色の木を、冬は寒さを感じながら意味もなく校庭を眺めていた。

今考えると、住んでいた場所が団地で、あまり景色を見られなかったからなのかもしれない。教室の窓から見える景色が珍しくて、ふとした時に見ていたのかもしれない。

昨日までは当たり前の景色も、次の日には無くなっているかもしれない。あの時から私は、無意識にその景色を大切な思い出にしようとしていたのかもしれない。親の事情で転校が多く、けれど、そこで過ごした記憶を、友達と笑いあった記憶を忘れたくなかったから。

何年、何十年か先の未来。
もしあの場所に訪れることがあったのなら。
あの時と変わらないな、と思える場所があるだろうか。
少しずつ薄れていく記憶に、胸が苦しくなった。

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