この文を読んでいる皆さんは、眠れない夜を過ごした事はありますか?
眠れない夜、私は寂しさを紛らわせるためだったり灯りが無いと不安だったりするので、スマホをいじり出す。目が悪くなるとは思いつつも、眠る気も起きず、かと言って隣で家族が寝ているのに電気をつける気もわかず。深夜の暗闇に、スマホの明かりが眩しい。
何をしようかと悩んで、とりあえず音楽アプリを開く。ランダム再生で何が流れるのかを楽しみにしながら、何をしようかとホーム画面をじっと見つめる。いくつか入れてあるアプリを見て、今の気分ならこれかな、とその日の気分によって開くアプリを変える。
しばらく時間が経って、ふとスマホから顔を上げてみた時に、カーテンの隙間から明るい空が見えた。時刻は午前5時の少し前くらい。スマホに繋げているイヤホンから、OrangestarさんのDAYBREAK FRONTLINEが流れていると少し嬉しくなる。私はインドア派なので走ったりはしないのだけれど、朝の爽やかな風を感じながらこの曲を聴いて走ったら気持ちよさそうだな、と思っている。
夜明け前、快適な部屋の中で、明るくなっていく空を窓から見るのが、眠れない夜の楽しみでもある。寝不足になるなぁ、昼夜逆転しそうだなぁ、と頭の片隅くらいで思いながらも、美しい景色を見るのを楽しみにしている自分が居るというのも事実。
この文章を読んでくれた貴方が、幸せな夢を見て寝られますように。
年末、大掃除の頃。
適当にタンスに入れた物を取り出すうちに、懐かしい物が出てくる時がある。例えば、ぬいぐるみ。昔は抱きしめて眠っていたな、と懐かしくて微笑みがこぼれた。
私は、物を捨てることが苦手だった。
とは言っても、全てではない。ちり紙だったり、飲みきったペットボトルだったりは普通に捨てられる。
皆様は、八百万の神、というのは知っているだろうか。
全ての物には神様が宿っている。だから、全ての物を大切にしようというような、日本に昔から伝わる考えだ。
全てに宿っている、とは私は思っていないけれど、一部の物には神様が居るんじゃないか、と思っていたりする。
昔、引越しの関係でぬいぐるみを捨てようとした。
けれど、手に持った時に想い出が蘇ってきて、何故か涙が出てきて結局捨てられなかった。そのおかげか、家にはたくさんのぬいぐるみがある。けれど、ホラー系に出てくるような怖い感じではなく、ただ好きな物に囲まれているような穏やかな心で過ごせている。
神様のことを信じるも信じないも、人の自由だ。
でも、物を大切にする、という心は大事にするようにしている。自慢などでは無いが、無意識で大切に使っているのか物持ちがいいね、と友達に言われたりもした。
私にとっての大切な物は、日に日に増えていく。
全てを壊さずに済む、とは思っていない。
いつか、どれかが壊れるという覚悟は持っている。
でも、長く大切な物を守れるように、愛せるように、突然の別れが来た時、後悔しないように。
無意識で大切にしていたものを、今度は意識して大切に。
いつか思い出した時に、悲しさよりも懐かしさが感じられるように。そんな考え方で、私は生きている。
鳥かごの中に、「何か」を入れられるとしたら。
私は何を入れたいだろうか。
入れたものが無くならないとしたら、私は「記憶」を入れたい。写真を撮ったって、映像に残したって。
忘れる時は、何に残したって忘れてしまうのだ。
それなら、綺麗な記憶も、苦しい記憶も、全て。
全てをかごの中に入れたい。
覚えている方が苦しいこともある。
けれど、忘れることで逃げたくない自分もいる。
もし鳥籠の中に記憶を入れられたら、最期の時に開けて、
「あぁ、あんなことあったなぁ…」
「いい人生だったなぁ…」
と今までの事を思いながら、安らかな気持ちで眠りたい。
私の当たり前は、「ほとんど全て」を大事にすること。
ただ、生きていく上でどうしても「この人は苦手」という人が居る。疲れている時は悪口の一つでも言いたくなることがあると思う。かくいう私も、ある。
けれど、そこで大事なのは「自分の中で終わらせること」だと私は思う。それでもムカムカしてしまう時は、家族にだけ話すようにしている。
嫌だな、と思うのは人それぞれだ。自分は嫌いだけど、他の人は好きなものがある。私は少女マンガなどでヤンデレが苦手(見られなくはない)だけれど、逆に好きな人が居るというのはちゃんと理解している。そして、それを否定する気はさらさらない。
悪意を持たずに呟いた言葉も、捉え方によっては悪意とされることがある。某アニメでも、言葉は凶器だ、と言われているように。やっぱり今のナシ!と付け足しても、出ていった言葉が無くなるわけではない。
それを引きずって、苦しんでいる人だっているだろう。
SNSに呟くのもそうだ。見られてない。本当に?
もしその悪口が本人には届いていなくても、似た性格の誰かを傷つけることもある。それがもし本人の目に届いたのだとしたら、その人はどう生きていけばいい?
アイツは私のことを嫌っている、そう思いながら生きていけばいいのか?それで前向きに生きていける人間は、果たしてどれくらい居るのだろうか。
沢山の好きなことより、少ない嫌なことの方が記憶に残るというのを、どこかで聞いた。だから、私は「嫌だな」と思っても、その人の全てを否定しないようにしている。
ただ、その人が誰かを傷つけたのなら、誰かのものを壊してもヘラヘラとしているのなら。私はその人を否定する。
これが、私の人生の当たり前だ。
時と場合にもよるけれど、基本的に、努力をしている人間を否定することはしない。
テストなら、頭のいい人はノー勉でも大丈夫だという人も居るだろう。それは私的にはどうでもいい。
ただ、苦手な教科などを頑張って勉強している人を、運動が苦手でも頑張っている人のことは、私は応援している。
性格が苦手でも、言い方がきつかったとしても。
その頑張りを否定する権利なんて、誰にもないのだから。
犯罪などの方面で頑張っている場合は否定するけれど、真面目に生きていこうとする人の努力は、お金では買えなかったとしても宝石より美しいものだと私は思う。
少し前は思いついていた願い事は、今は何も無い。
強いて言うのなら、この日常が続きますように、だろう。
今の自分は「幸せ」と思えはしないけれど、「不幸」とは絶対に思えない生活をしている。
至って平凡で、平穏な日々だと感じている。
自分の「幸せ」を、誰かの「幸せ」に重ねている。
例えば、漫画やゲームなどの推しが幸せだと、見ている私も幸せになる。そんな経験は無いだろうか?
それは「本当の幸せ」とは違うのかもしれない。
でも、幸せと言う大きな纏まりで見れば、それも正解なのだと思う。自分にとっての幸せなんて、人によって違う。
ここから先は自分語りが多くなってしまうけれど、どうか許して欲しい。
最初の方に、願い事は何も無い、と書いた。
だが、それは嘘だ。無いのは「自分」への願い事で、他人への願い事ならばチラホラとある。
中でも一番願っているのは、推しの幸せだ。
私の推しは、基本的に過去に何かがあった人が多い。
今は明かされていないけれど、闇を抱えていそうだと思う推しも居る。その傾向に気がついた時は複雑に思ったけれど、今は違う。私は、苦しんでいた人が幸せそうに笑う瞬間が好きだということに気がつけたから。
そういう人は、基本的に誰かを愛せる。恋愛的な意味ではなくて、大切にできる、的な意味で誰かを愛せる。
最近読んでいる漫画の推しは、最初はビジュアルが好きで推していた。けれど、物語を読めば読むほど、仲間想いなところを知った。そして気がついたら、見た目ではなくて中身にも惹かれて、その全てを推していた。
アニメや漫画を見返していると、この発言が無かったらどうなっていたんだろうな、という場面がチラホラある。
主人公が周りの人に受け入れられたのも、独りで生きてきた主人公が変われたのも、心から笑えたのも。
何の漫画かはこの場では言わないけれど、薄々察している人も中にはいると思う。私の推しも、わかると思う。
七夕の願い事は、推しが幸せになれますように、だ。
作者さんのさじ加減だということは、理解している。
それでも、幸せになって欲しいと願ってしまう。