『1つだけ』
古い時計の振り子が揺れる
重くて鈍い音を刻む
数字の並んだ時計盤には
ひしゃげた針が一つだけ
忘れ去られた庭園が荒ぶ
哀愁と寂寥の風が吹く
朽ちゆく老木の枝の先には
散らぬわくら葉が一つだけ
黄ばんだ手紙が床へ散らばり
微かな追憶を部屋にもたらす
思い出すのは一つだけ
過去の約束を一つだけ
その恵まれた一つによって
私の世界が満たされたんだ
『好きじゃないのに』
昏い感情を口から吐き出し
平気な顔して痴態をさらす
後から理由を探しては
勝手に自分で暗示をかける
『綺麗事では生きられない』
『それがこの世の常だから』
『何があっても仕方がない』
『世の中そんなに甘くはない』
嫌いな台詞を着飾って
尖った言葉でヒールを履かせる
貶し貶されワルツを踊れば
足を挫いて共倒れ
こんな世界が嫌だと叫べば
怠惰な奴だと罵られ
綺麗な世界が欲しいと願えば
馬鹿な奴だと嗤われる
好きでもないのにしがみつき
好きでもないのに生きている
それでは道理が通らないから
それが全てじゃないんでしょうね
『夢が醒める前に』 205
「お前は覚えているか?」
安楽椅子に座る老人が投げかけた言葉は、誰もいない部屋の暗闇へと溶けていった。
咥えたパイプから紫煙を燻らせ、目を閉じたままの老人は背もたれへと深く沈む。
十字の木枠に嵌められた窓から覗く風景は、少しの月明かりに照らされた何かのシルエットしか映さない。
頼りない光量の吊り下げ灯と、煉瓦で造られた暖炉の炎が、老人の陰影を色濃くさせる。
「優曇華の花が咲くほどではないが、それでも長い時間が過ぎた。
俺は覚えている。
あぁ……覚えているとも。
忘れるはずがないだろう?」
隙間風が吹く度に、吊り下げ灯がゆらりと揺れる。
キィ キィ キィと音が鳴る。
「俺も歳をとった。
当時は分からなかったことも、今ならある程度理解ができる。
お前には苦労ばかりかけさせた。
俺は何も知らない小僧で、分からないことを免罪符に愚かなことばかりしていた」
隙間風が吹く度に、暖炉の炎がゆらりと揺れる。
パチッ パチッと音が鳴る。
「今さらになって懺悔ができる。
なんの意味も無い行いだ。
みすぼらしい老人の自己満足だ」
老人が安楽椅子に座っている。
「死ぬのは別に怖くない。
お前に会うのが怖いんだ。
お前が俺を忘れていたら……そう考えると震えが止まらなくなる」
咥えたパイプからは紫煙が昇る。
「俺も……歳をとったんだ。
笑いたければ……笑うがいいさ。
お前が笑ってくれるなら……それはそれで……悪くない……」
背もたれへと深く沈んだ老人の目は──
「あぁ……悪くない」
──今も変わらず閉じたままに。
『列車に乗って』
景色が過ぎ去る。
「明日の天気は晴れたらいいね」
いつかの深夜に、君はそう言って傘を用意した。
景色が過ぎ去る。
「才能がある人は羨ましいね」
いつかの日暮れに、君はそう言って僕を魅了した。
景色が過ぎ去る。
「あなたにはきっと分からないね」
いつかの早朝に、君はそう言って僕の前から姿を消した。
揺れる視界に映る車窓。
心電図のように規則的なリズムで、僕は振動を繰り返す。
ガタンゴトン ガタンゴトン ガタンゴトン
待ち構えていたトンネルが大きな口を開ければ、そこには先の見えない暗闇が広がっている。
暇を持て余した乗客のスマホが、窓に反射して星のように光を放った。
チープで醜いプラネタリウム。
あの日から僕は君の真似ばかりしている。
愛おしくて憎らしい、矛盾を孕んだちぐはぐさ。
この偽夜が明けた後で、僕はおそらくこう言うのだろう。
「君にはきっと分からないね」
そうしてまた一つ、景色が過ぎ去っていくんだ。
『現実逃避』
月まで続く線路を歩く
てくてく てくてく てくてくと
廃線となって久しい線路
冷たい空気に息が溶け込む
寂れた駅には星の欠片を
きらきら きらきら きらきらと
忘れ去られた星座が駅名
踏切は点滅の仕方を忘れてる
見飽きた星空に鼻歌を歌う
足先は常に月へと向ける
前を見るんだ
月だけを見るんだ
振り返ってしまうのは
自分が弱いせいなんだ
辿り着けないことなんて知っている
言われなくても分かってる
それでも それでも それでもと
欠けてく心が足を動かす
月まで続く線路を歩く
三日月 半月 満月と
形を変えてく月を望んで