頭痛が、ひどかった。
ドクドクとこめかみが鳴っていた。機械でエンハンスした聴覚を持つ者が、過度に酔っ払った時の典型的な症状。知らない天井を睨むようにして耐え、波が去るのを待つ。
苦労して体を起こすと、どうやらベッドの上らしかった。シーツ一枚を巻きつけた自分の肢体が、奇妙にブレて視界に映る。
不意に込み上げたものを吐きそうになって、それを感知した脳内CPUがあわててブレーキをかける。……飲み過ぎたのね。いつものことだけど。
酔い覚ましを探して首を動かし、私は固まった。隣に、知らない人物が眠りこけていたからだ。
別に、飲んだ勢いで誰かと、なんてのは今や珍しいことじゃない。誰だって見た目を自由にカスタマイズできるようになって、ホルモンバランスも指先ひとつ。そんな世界じゃ、楽しまない人の方が少ないからだ。
私が固まった理由は、隣で眠りこけているのが、枯れ枝のような老紳士であったからだ。顔カスタマイズなし、手足もオプションパーツなし、心肺機能に至っては弱り気味とのスキャン結果。
なんで……? なんでよりによってこんなおじいちゃん? 酔っ払いすぎて何も覚えてない。頭の中でモーターの駆動音が聞こえるほどのフル回転。それでも記憶データは出てこない。
二日酔いとのダブルパンチでベッドから転がり落ちそうになってきた頃に、ようやく目の前の老人が目を擦り、起き上がった。
「……おや、お嬢さん。早起きなことだ」
「ど……どうも?」
開口一番の渋い声に、気の利いた返しができず。私は変な笑顔で、そんな挨拶をしてしまっていた。
▽
「やはり、朝はコーヒーに限りますな。パンは食べていただけますか、ワシは朝食は取らないので……」
「あ、え、えぇまぁ」
ステッキをかたわらに、老紳士は落ち着き払った様子でカップを傾けている。わい雑なカフェの一角でも、彼がいれば一枚の絵画のようだ。
それを見ながら、私はおそるおそる口を開いた。
「えっと……その。なにもなかったって、本当なの? その、本当に?」
「ええ、何も。酔っ払った貴女がワシに絡んだまま寝てしまって、ワシがモーテルのベッドに運んだ。それだけです」
「……」
あらゆるスキャン結果が、“真実である”ということを伝えてくる。しばらく妙な沈黙が続いていたが、老紳士が突如顔を近づけてきた。
「失礼ですが……それは義眼ですか?」
「え? あぁ、義眼っていうか、センサー。面白いでしょ、カシャカシャって」
「えぇ。先ほどから、頻繁に瞳が小さくなったり大きくなったりするものですから」
「私からしたら、ナチュラルな目の方がのんびりしすぎてて違和感があるけど」
ひさびさに見たナマの目は、色彩に乏しくて刺激に欠けるものだった。まるでこの老人そのもののようだ……なんてのは言い過ぎかしら。
でもこの人、受け答えからナチュラリスト特有の機械嫌悪も感じられない。いったいなんで、身体改造ひとつしてないのかしら。
「ふは。言われましたよ、孫にも。虫眼鏡など使わずとも新聞が読めるようになると」
「ええ、そうね。たまにエンジニアに見てもらえば、それで手入れ終了。便利よ?」
「どのように見えるのです? その、つまり、改造する前と比べて?」
「……オプションによるかしら。詰め込みすぎたら、表示が鬱陶しくなるけど」
ずいぶん食いついてくる。話せば話すだけ、老紳士は真剣な表情になっていった。その顔といったら、先生と目が合った真面目な生徒のようだ。
若干引き気味なこちらの態度を悟られたらしい。老人は顔を赤くして、咳払いした。不覚にもその仕草に可愛らしさを見出してしまう。
「失礼、その。ワシも手術を受けようかと思っておりまして……お恥ずかしい話ですが、怖気付いておるのです」
「あぁ」
珍しい話ではない。むしろ、恐怖しない人間の方が少ない。本来なら不要な手術をわざわざ受けて、健康な部位を取り替えるなんて。
「なんでその歳になって手術を? 体への負担だって大きいでしょ?」
「……実を言うと、数日前から家内と文通をしているのですが。文字が読めないことがたまにありまして」
「文通??」
「ええ、手紙を交換しておるのですな。いやなに、暇つぶしにと」
暇つぶしねぇ。それにしては不自然なほどに顔が赤くなっているし、あらゆるスキャン結果が“暇つぶしなんて大ウソ”って示しているけど。
「おアツいってことね」
「そ……それは置いておいて。あのクラブにいたのも、誰か詳しい人のお話を聞ければと」
「じゃ、大正解を引いたわね」
「……酔っ払って絡まれた時は、失敗したと思っておったものですが」
今度は私が赤くなる番だった。まったく、記憶領域が狭いくせにいらないことを覚えているおじいちゃんだこと。
「どうせなら、顔とかもパーツ入れ替えしちゃえばいいのに。若い頃に戻れるわよ?」
「それは、やめておきます。家内と共に老いるのも、楽しいものですから」
「……そう。じゃ、適当にオススメのエンジニアを教えたげる」
ノロケてくれちゃって。さっさと紙ナプキンにペンを走らせ、いくつか候補を挙げて手渡す。
大げさなほどに顔を綻ばせ、立ってまでお辞儀をしようとする老紳士を手で制する。
「これで貸し借りなし、ってことで。もう来ないほうがいいわよ、この辺はガラ悪いし」
「ありがとうございます。また、あらためてお礼を」
「いいって……」
シッシと手を振れば、おじいちゃんは上機嫌で去ってゆく。最後にカフェの出入り口で振り返り、一礼して出て行った。あとには、冷めてしまったパンと、空のコーヒーカップだけが残っていた。
「変なおじいさん」
つぶやいて、私も立ち上がった。これ以上ここに居たら、自分がどれほどつまらない人間か思い出しそうだったからだ。
そして少し離れ、ごみごみとしたカフェの席を見た。絵にするほどの価値も失って、ただの日常の一部に戻ってしまった場所を。
あれは確かに、変なおじいさんだった。
あんな人に、また会えるだろうか。
目標文字数 2300文字
実際の文字数 2507文字
主題「未来」
副題「恋愛」
お題が難しすぎる(難癖)
“ごめんね。部活が忙しいから、今はそういうの、考えられないかな”
一年前の光景は、思い出そうとすればすぐにでも瞼の裏に浮かんでくる。
ちょっと頬を染めて、髪をいじりながら、目をそらしがちに答える幼馴染の姿。
そういうの、というのは、お察しの通りだ。僕の告白。断られた時は目の前が真っ暗になった。
かなり長期にわたってめそめそした。部活ってなんだよとか、部活が終わったら受験だから結局……とか、色々と考えた。
だから、部活も受験もすべて終わって、もう一度手紙を出した。アレが“体のいいうそ”でも、最後に当たって砕けられるならいいと思ったのだ。
それがさっきから、僕が桜の下で突っ立っている理由だった。……でも、この様子じゃ、当たって砕けることもできないかもしれない。ずいぶん長い間待っているけど、校内の人は減っていくだけだ。
手の中の卒業証書を見つめていると、むなしさが込み上げてくる。そもそも、進学する大学すら違うのに。自分の気持ちにケリをつけるだけなら、彼女を巻き込む必要はなかったんじゃないか。
もしかしたら彼女もそう思ったから、ここに来ないことを決めたんじゃないだろうか。待つ時間なんて、どうしたって後ろ向きなことを考えてしまう。
はらはら降ってくる桜の花びらが、そろそろ肩に積もってくるような頃。僕はようやく、見切りをつけた。
やめよう。一年前の告白で、彼女の真意を見抜けなかった僕が悪かったんだ。フラれるというのは、きっとそういうことだから。
「うん、一段進化できたな。よかった、よかった……」
わざわざ口に出して、虚無の時間に価値をつける。はたから見ても、主観視点でも、だいぶ間抜け。でも、こうでもしないとやってられなかった。
花びらををふるいおとして、かばんを背負って、とぼとぼ歩き出す。
そのとき。後ろから声をかけられた。
同時に僕は、また一段退化してしまったのだった。
目標文字数 800字
実際の文字数 828字
主題「一年前」
副題「青春」
退化してんのはてめーの文学的要素だよエェーッッコラ
あるところに、もじをよむのが苦手な男の子がいました。
その子はひとよりもひらがながにがてで、なんどもなんども、かみに書いたひらがなを指でなぞるようにして、ようやく読めるようになったのでした。
すこし育って、その子はむずかしい本がだいすきになりました。読めることがうれしいのです。
あめの日もはれの日も、もじがたくさん書いてある本を読むようになりました。
みんながお外であそんでいる時も本を読んでいたので、その子はいつからか「本の虫」と呼ばれるようになりました。
なぜそんなに本を読むことがだいすきなのか、その男の子以外には分かりませんでした。ある時はなぞなぞのような難解な本を読み、ある時は人々を救うヒーローが出てくるような本を読みました。
そんな中でもその子がいっとうすきで、何度も読みなおしていたのは、羊のむれが母親を探してがんばるお話でした。彼らはなんどもきけんな目にあいながら、はなしあって、力をあわせて、のりこえていきました。
その子は、本を読みつづけました。「本の虫」というあだ名にバカにするような色が混じり、次に呆れに変わり、最後には誰も彼の名を呼ばなくなるくらいまでに、彼はずっと本を読み続けました。
その時、彼はすでに大人になっていました。読む本も難しくなり、専門書や、論文や、報告書を読みふける毎日でした。
彼は毎日、一生懸命に本を読みました。それが彼の続けてきたことで、それだけが取り柄だと彼自身はそう思っていました。目がかすみ、眠気に眉間を抑え、家に帰れない日々に悩みながらも、毎日、毎日。
ある日、彼は間違いを犯してしまいました。なんてことはない、読み飛ばし。とても大事な書類の、誰でも気付くような文面から、目を滑らせてしまったのです。
珍しいことだと、彼の同僚は笑いました。よくあることだと、彼の上司は慰めました。けれど、どれだけ励まされても、彼はなにか抜け落ちたようになってしまったのです。
彼は本を読むことをやめました。しばらくお休みをとって、自分の家に帰りました。
疲れた表情の彼を、壁一面の本棚が迎えます。よく帰ってきたね。さあ、ぼくたちを手に取って。きっとキミを、昔のように夢中にさせてみせるから、と。
でも、彼は本を読むことができませんでした。ぼんやりとベッドに座り込んで日々を過ごすようになってしまいました。
本を読むことができないのなら、自分の人生には何があるのだろう。彼は真剣に、そんな風に考えるようになってしまっていました。
その姿はまるで、魂が失われた抜け殻のようでした。壁の本たちは心配そうに囁き合います。
あの子はいったいどうしてしまったのだろう。
ぼくを読んでくれれば、挫折から立ち直る強い人のお話が読めるのに。
俺を読めば、楽しい舞踏会の話で元気づけてやれるのだが。
私を開いてくれたら、勇気を再び手に入れるお手伝いができるわ。
そんな囁きも、彼の耳には入りませんでした。いつもなら、トイレにだって本を持ち込んでいた「本の虫」の姿は、どこにも見当たりませんでした。
そのうち、彼はじっと考え込むことが多くなりました。自分が今まで読んできた本は、ほんとうに自分が思うようなお話だったのだろうか。読み飛ばして、勝手な想像をしていたんじゃないだろうか。そんなことを、毎日、毎日。
ある日、彼は手紙を受け取りました。彼のおばあちゃんからのもので、古風な便箋には心配そうな文が書かれていました。
彼は、それはもう用心深く、指でなぞるように手紙の文字を読みます。1文字、1文字、ゆっくりと。読み進めるうち、彼はぽろりと涙を流しました。
そうだ。読めることは、楽しいことだったんだ。読めることは、嬉しいことだったんだ。
人の気持ちがこもったものは、こんなにもあたたかいんだ。
彼は決めました。もう一度、読んできた本をぜんぶ読み直そう! 長いおやすみをもらっていたので、時間はたっぷりあります。
なぞなぞのような難解な本を読みました。幼い頃は分からなかったなぞが、今ならスラスラと解けます。本の中でなぞが解けて喜んでいる人たちと、一緒に喜ぶことができました。
人々を救うヒーローの物語を読みました。なんども折れそうになる主人公を、ただ励ますだけではなく、少しは休んでいいのだと思いながら読むことができました。それでも、頑張ってしまうからヒーローなのだと理解することもできました。
羊のむれが、母親をさがして頑張るお話を読みました。何回も危険な目に遭い、それでも力をあわせて乗り越える彼らに、ほんの少しあこがれました。最後に母親と出会って大団円! 彼はすこしだけ、ひとりきりの家がさびしくなりました。
少し迷って、彼は生まれた家へ電話しました。ひさしぶりだったので、すこしぶっきらぼうになりながらも、ゆっくり、すこしずつ、言葉を伝えあいました。
その様子に、本たちは嬉しそうな声でヒソヒソと話します。
あぁ、よかった。ぼくのおはなしは、また、あの子を楽しませることができたんだ。
また次も読んでくれるさ。俺の話も、ずいぶん長く読んでいたしな。
あの子なら大丈夫。本をよむことは、怖いことじゃないって知ってるもの。
そう、彼はもう大丈夫でした。おやすみをやめて、また、本を読む日々に戻ることにしたのです。
でかける前に、彼は振り返って、すこしだけ照れくさそうに笑いました。そして、「行ってきます」と言い残し、とびらをしめました。
机の上の本が、風をうけて、手を振るようにパタリと閉じました。
目標文字数 2700字
実際の文字数 2347字
主題「好きな本」
副題「絵本調で」
字足らずによるレポートF評価不可避
イギリスはロンドンに居た頃、こういった天気にはそれは頭を痛めたものだった。
薄着をすれば寒すぎて、厚着をすれば汗が出る。なにせ、日本国の運転免許などは、英国ではまったく用をなさないものであったし、どこか出掛けるとなったら、節約のために必ず歩きで、というのが定石であったからだ。
そして、外出すれば、こういう天気に出くわす確率は非常に高かったのを覚えている。薄い雲がかかったような空に、体の芯に染むような寒風。風が止む時があれば、半袖でもじっとりと不快になるような気候だった。この時は、彼らが頻繁に立ち止まって紅茶を飲みたがる理由をなんとなく察したことを覚えている。
敵は温度だけではなかった。天からもたらされるもの、それはやはり雨。空の機嫌が悪ければ、やつはそれを隠すこともなくざんざんと水滴を叩きつけてくるのだ。
日本であれば、雲の様子を見れば、その日の天気は分かりやすい。微妙な日もあれど、イギリスのような人を試す底意地の悪い天気はそうそうない。
だがイギリスの天気は、本当に面倒なのである。それはまるで、空の上で生活している誰かが、雨を降らせるかどうかを直前まで決めかねているかのような優柔不断さなのだ。
その誰かさんにおいては、雨量の調整もヘタクソと言わざるをえない。先程まで晴れ渡っていたのに、全身に霧吹きを吹きかけられ続けるかのような天気になることもある。美しい日の入りに感じ入っていたら、突如として雷雨が襲ってきたこともある。あの日はカモメと共に悪態をついて帰路についたのを覚えている。
ここまで書いて、やはり私のイギリスでの思い出は天候への恨みつらみが大部分を占めていることを悟った。だがここまで読んでくれた諸氏にも分かってほしい。あんな天気、たえられない。
だがああいった天気に鍛えられた現地の住民たちは、しぶといものであった。誰もが雨を楽しみ、雷を笑い、晴れ間に挨拶するしたたかさを持っていた。
一度、どぎもを抜かれたことがある。カフェのテラス席で、パラソルがあるとはいえ、バケツをひっくり返すような雨の中で平然とコーヒーをたしなむ紳士たちを見たのだ。
彼らがカップを口に運ぶ所作たるや“すぐに晴れるさ”と言わんばかりの平静っぷりで、実際そのあとすぐに真っ青な空が戻ってきたのだから大したものである。パラソルから滴り落ちる水粒が、紳士たちの語らいの光景をなかば幻想的にさせていた。あるいは、私の中の英国紳士的振る舞いへの憧憬がそう見せたのかもしれないが。
とはいえ、彼らもあまりひどい天気の時には屋内へと避難する。そしてツレと自分たちの不運について語り合いながら、ブーツを脱いで中の水を吐き出させたりしているのだ。さいわい、天気自体は10分から20分もあれば移り変わるものが大半だったので、そう長く雨宿りすることは無かったが。
こういった話でひとつ思い出して笑ったことがある。ロンドンの名物は、天だけでなく、地上にもある。これはどういうことかというと、ストリートの様相が日々変わってゆくのだ。
そのストリート名物のひとつ、物乞いに関して。私の友人が言うことには、ひとり、記憶に残った者が居たらしい。
“お腹が減って動けません”と書かれたダンボールを前に、倒れたおばあさんの物乞いだ。我が友人はその前を通りかかり、偶然にも、ちょうど大雨に遭ったらしい。
また極端な豪雨で、一週間は通りを磨く必要もないと確信できるほどの、滝のような雨粒が降り注いできたそうだ。友人はどこかに雨宿りをする場所がないかと辺りを見廻し……
そのおばあさんが、誰よりも早くに屋根の下へと走ってゆくのを見たそうだ。
もちろん分かっていただきたいのは、どの物乞いもそうだとは言わない。ただ、“パフォーマンス”が必要な職業であるのだ、物乞いは。そして我が友人は、その老婆の“パフォーマンス”に腹を抱えて大笑いし、とうとうコインを数枚渡してしまったそうだ。
正直言って、私はこのエピソードを聞いた後はしばらく思い出し笑いが尽きなかった。雨が降るたび、見たこともない老婆が全力疾走する姿が脳裏によぎるのだ。それはそれは、妖怪じみて。
そして、ふと気付いた。雨を呪うのも、雷を恨むのも、晴れ間に文句を言うのも。それらは結局、捉え方ひとつ。
うっすらと雲がかかった天気は、きっと、無限の思い出を作る機会だったのだろう。
もしまた英国にお邪魔することがあれば、今度はレインコートを忘れずにいよう。
目標文字数 1800字
実際の文字数 1872字
主題「あいまいな空」
副題「現代文学」
薄味カルピスがよぉ……。
「アジサイだとよ」
「なに?」
あらかたの装備を確認し終えた段になって、私のバディがつぶやいた。
どうにも意味が掴みきれず顔を見ると、その男は笑って言った。
「アイオリス基地からの最後の通信だよ。“アジサイが咲いた”って」
「バカな。緊急通信を使って言うことがそれか?」
「へへ。もしかすっと、鉢植えなんか抱えた研究者を救助することになるかもな」
あまりにふざけた想像に、笑みすら漏れない。ため息と共に防御チョッキを着込むと、最後に酸素マスクを着用する。物騒な重みで、体の関節が軋む。
西暦40××年。長らく膠着していた他惑星への移住計画は、とある試みによって少しずつ前進を見せ始めていた。
植物を極限環境に適応できるよう進化させて、星の地表に植え付けるのだ。焦げ付くような暑さも、極寒の冷たさも、吹き飛ぶような風圧も、何があっても枯れない植物を。
おかげで、選ばれたごく少数の人間は、惑星に点在する「基地」に住めるようになった。住めると言っても、居住可能区域を広める使命を帯びた状態で、だが。
私達はいわばそのバックアップ。各基地内で不測の事態が発生した場合、ツーマンセルの「解決屋」が派遣される。今回は、不運にも、私達が選ばれたということだった。
「おい、入るぞ」
「あぁ」
我が身の不幸に思いを馳せていたら、はやくも問題の基地のエントランスに到着していたようだ。バディの声で我に返り、銃を構える。
荒涼とした風が吹き荒ぶ中、緊張感がみなぎる。酸素マスクの呼吸音を感じながら、私は胸の通信機をオンにした。
「HQ、こちらチームオリオン。ポイントEに到着」
『ザ……ザザ、こちら本部。チームオリオン、基地への進入を開始せよ』
「了解。オリオン2、ハッチ開け」
「イエッサーってな」
ハッチの解放ボタンが押され、黄色い回転灯が回り出す。仰々しい警告音が数度鳴ったあと、あっさりと基地はひらけた。
「……」
「……」
バディと頷き合い、突入を開始する。長い灰色の廊下を進むうちに、ハッチはゆっくりと閉ざされてゆき、私達の影を呑み込んだ。
▽
室内には、荒らされた痕跡はなかった。色とりどりな花が整然と並んで、来訪者の私達を見つめているだけだ。ときおり起こる人工風で葉がこすれ、サワサワと鳴く音が聞こえる。
その静けさが、異様だった。我々の来訪を聞きつける者すら居ない。既に全滅したのか。
……と、その時。バディの腕時計がアラームを鳴らした。
「お、時間だな。さあ諸君、酸素残量を報告せよ」
「残り74%。お前は?」
「残り77。……基地内なら外しても良いんじゃねえのか、コレ」
「ガス兵器の可能性もある」
バディが鬱陶しそうに酸素マスクを指差すが、私は首を振って否定した。そうでなくとも、事故で毒ガスが発生した事案例もあるのだ。
ここまで基地内から反応がないのも、今回の事態がいかに深刻かを物語っている。安易な行動は慎むべきだ。
「へいへい。まじめ腐って結構なコト……おい、アレ」
「!」
そこでバディが言葉を切り、何かを指さした。そちらに視線をやると……なんと、白衣の研究者が一名、倒れている。
「HQ。こちらオリオン1、救助対象を視認。これより救助に向かう」
『オリオン1、了解。ボディカメラをオンにしたまま救助に当たられたし』
「了解。オリオン2、周囲を警戒してくれ」
「オリオン2、了解」
HQとのやりとりを終え、研究者に駆け寄って抱き起こす。ぐったりとしているその体は、触れてもピクリとも動かない。
ロビーのベンチに横たわらせ、白衣も、シャツも千切るようにして傷の確認を行う。……しかし、何も見当たらない。綺麗なものだ。
「HQ、見えるか。外傷はないが……脈もない。死亡しているようだ」
『……こちらHQ。なんらかの毒が発生した可能性がある。血液サンプルを採取せよ。リモートで分析機にかける』
「了解。この者の血液を採取する」
遺体に手を合わせてから注射器を取り出し、その首筋に針を突き立てる。すぐに赤黒い液体でシリンジが満たされ、サンプルデータが本部へと転送され始めた。
少し時間がかかるか。そう思ってバディを見ると、なにやら妙な動きをして遊んでいるようだ。
「オリオン2、減給処分が嫌なら……」
「おいおい、お前も見ろよ。ロビーの監視カメラの映像を、ロビーで流してるみたいだぜ」
「はぁ?」
やけに楽しそうな声に促されるまま天井を見上げると、確かに吊り下げたテレビは数秒前の私達を映しているようだ。オリオン2が跳ねるのを、困惑したように私が見ている。
「ロビーのカメラ映像をロビーで流す意味があんのか? 誰が考えたんだ、コレ」
「……待てよ、監視カメラか。お前、機械をいじれたよな?」
「あ?」
▽
モニター室にて。傍に置かれたパンジーの鉢植えに見守られながら、バディは操作パネルにタイピングしている。
機械系に役立てぬ私は、ときおり廊下に顔を出し、敵を警戒しているのだが……並んだ植物が見えるだけで、平和そのものな光景だ。こんな時でも、花を見れば心がなごむ。
やがて、オリオン2が派手にエンターキーを押す音が聞こえてきた。どうやら終わったらしい。
「どうだ」
「俺ってマジ天才。通報前のデータ1日分、ぜーんぶサルベージしたもんね」
「お前ではなく、データサーバーが働いたんじゃないのか?」
「はー、ヤダヤダ! このパワハラ映像もサーバーに残りゃなぁ」
軽口を叩きながらも、オリオン2はツマミを動かして映像を早送りし、めぼしい箇所を探しはじめる。
その時、装着した通信機がノイズを発した。HQからだ。
『……ザザ……リオン1、聞こえるか。オリオン1、応答せよ』
「こちらオリオン1、聞こえている」
『オリオン1、血液の解析が完了した。結果から言うと、強い毒性をもつ粒子を吸い込み、アレルギー反応で死亡したと考えられる。酸素マスクを外さないよう注意せよ』
「……毒の粒子?」
『毒の方は詳しく分析できていないが……花粉に着想を得た化学兵器の可能性がある』
「おい、見つけたぜ」
通信に夢中になっていた私は、バディのその言葉でモニターに目をやった。
そこでは、口を抑え、喉をかきむしりながら、もだえ苦しんで倒れゆく白衣の研究者たちが映っていた。何度か痙攣したのち、皆が一様に動かなくなる。
周囲の植物の量から見て、奥の研究エリアか。死体に出くわさなかったわけだ。
「……これは」
「で、コイツが通報者だ。どうやら花粉症気味で、普通のマスクをしてて延命できたらしいな」
「……」
画面に映されたその1人は、まわりでバタバタと死んでゆく研究者たちを見て、当惑しながらも逃げ出そうとしていたようだった。
しかし、彼もやがて喉を抑え、苦しそうに表情を歪ませ始める。ロビーまできて、あと一歩というところで倒れ伏した。
「……」
「……」
文字通りの全滅。あまりにもむごい結果に、言葉を探すことすらできない。
バディはゆっくりとツマミを動かし、惨劇の少し前の映像を注視している。そして、ポンと膝を打った。
「あぁ、アジサイだ。見つけたぜ、ホレ」
「アジサイ?」
「言っただろ? 通報者のダイイング・メッセージだよ。“アジサイが咲いた”」
モニターには、確かに、惑星の擬似環境下でツボミを開く紫陽花が映っていた。
そのわずか数秒後に、この大量死だ。この基地は、もう破棄するしかないだろう。研究成果もすべて水の泡になる。
損失額は莫大なものになるだろう。我が社もどれほど保険金を払わされるか……そんなことを考えていると、オリオン2が妙に悟ったような顔で話しかけてきた。
「……なぁオイ。これはよ、植物の復讐なんじゃねえか」
「なんだ、また突飛なことを」
「それまで幸せに暮らしてた花をよ、こんなサイアクな環境に押し込んでよ……なんとか生き延びたら“成功例”として、そのサイアクな惑星にポイってなもんだぜ。そりゃ、怒るだろ」
バディは、真剣だった。真剣に、この信じられない筋書きを語っているのが伝わってきた。神妙な顔に、口出しするのもはばかられる。
「だからよ……植物にゴメンナサイをしようぜ。俺とお前で、ダブル土下座」
「あのな。テロリストが毒性の植物を持ち込んでこうなった方が確率は高いなとか、思わんのかお前は」
「なんだよ夢のねえやつ! ディズニー観たことねえのか?」
「だいたい、本当にミスター植物とやらが怒っているのなら、我々2人の土下座で足りるわけないだろうが」
「ちぇー、それもそうか」
不貞腐れたように舌打ちし、オリオン2は椅子に背を預けた。
そのとき、映像をあやつるツマミから指が離れた。
すべてのモニターが一斉に、現在の状況を映し出す。
全身の汗腺が、一気に開いた。
モニターに映る植物が。
花が。
すべてこちらを見つめていた。
私の異常に気付き、バディもモニターを見た。そして、固まった。
蛇ににらまれたカエルのように、我々は息すら潜める時間が続いた。そんな緊張感の中で、ようやく、基地に入ってからの違和感に気付いた。
そうだ。エントランスからずっと、見られていた。長い廊下を渡り、ロビーで死体を検分し、そして今。隣の鉢植えからも。
視線を、感じる。
長く、いやな静寂が続いた。
やがて、沈黙が破られた。オリオン2の腕時計が、アラーム音を鳴らしたのだ。
震えを押し殺した声で私達は酸素残量を確認し、即座に撤退を決定した。毒素の濃厚なエリアへは、この装備では突入できないという結論に達したのだ。
そうして、逃げるようにモニタールームを後にする。
最後にチラと見えたモニターでは、咲き誇るアジサイが、極彩色の輝きを放っていた。
目標文字数 1800字
実際の文字数 3972字
主題「あじさい」
副題「SF」
うーん、まとめる能力を感じる。(錯覚)