にーふ

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 あるところに、もじをよむのが苦手な男の子がいました。
 その子はひとよりもひらがながにがてで、なんどもなんども、かみに書いたひらがなを指でなぞるようにして、ようやく読めるようになったのでした。

 すこし育って、その子はむずかしい本がだいすきになりました。読めることがうれしいのです。
 あめの日もはれの日も、もじがたくさん書いてある本を読むようになりました。

 みんながお外であそんでいる時も本を読んでいたので、その子はいつからか「本の虫」と呼ばれるようになりました。
 なぜそんなに本を読むことがだいすきなのか、その男の子以外には分かりませんでした。ある時はなぞなぞのような難解な本を読み、ある時は人々を救うヒーローが出てくるような本を読みました。

 そんな中でもその子がいっとうすきで、何度も読みなおしていたのは、羊のむれが母親を探してがんばるお話でした。彼らはなんどもきけんな目にあいながら、はなしあって、力をあわせて、のりこえていきました。

 その子は、本を読みつづけました。「本の虫」というあだ名にバカにするような色が混じり、次に呆れに変わり、最後には誰も彼の名を呼ばなくなるくらいまでに、彼はずっと本を読み続けました。

 その時、彼はすでに大人になっていました。読む本も難しくなり、専門書や、論文や、報告書を読みふける毎日でした。

 彼は毎日、一生懸命に本を読みました。それが彼の続けてきたことで、それだけが取り柄だと彼自身はそう思っていました。目がかすみ、眠気に眉間を抑え、家に帰れない日々に悩みながらも、毎日、毎日。

 ある日、彼は間違いを犯してしまいました。なんてことはない、読み飛ばし。とても大事な書類の、誰でも気付くような文面から、目を滑らせてしまったのです。
 珍しいことだと、彼の同僚は笑いました。よくあることだと、彼の上司は慰めました。けれど、どれだけ励まされても、彼はなにか抜け落ちたようになってしまったのです。


 彼は本を読むことをやめました。しばらくお休みをとって、自分の家に帰りました。
 疲れた表情の彼を、壁一面の本棚が迎えます。よく帰ってきたね。さあ、ぼくたちを手に取って。きっとキミを、昔のように夢中にさせてみせるから、と。

 でも、彼は本を読むことができませんでした。ぼんやりとベッドに座り込んで日々を過ごすようになってしまいました。
 本を読むことができないのなら、自分の人生には何があるのだろう。彼は真剣に、そんな風に考えるようになってしまっていました。

 その姿はまるで、魂が失われた抜け殻のようでした。壁の本たちは心配そうに囁き合います。

 あの子はいったいどうしてしまったのだろう。
 ぼくを読んでくれれば、挫折から立ち直る強い人のお話が読めるのに。
 俺を読めば、楽しい舞踏会の話で元気づけてやれるのだが。
 私を開いてくれたら、勇気を再び手に入れるお手伝いができるわ。

 そんな囁きも、彼の耳には入りませんでした。いつもなら、トイレにだって本を持ち込んでいた「本の虫」の姿は、どこにも見当たりませんでした。

 そのうち、彼はじっと考え込むことが多くなりました。自分が今まで読んできた本は、ほんとうに自分が思うようなお話だったのだろうか。読み飛ばして、勝手な想像をしていたんじゃないだろうか。そんなことを、毎日、毎日。

 ある日、彼は手紙を受け取りました。彼のおばあちゃんからのもので、古風な便箋には心配そうな文が書かれていました。
 彼は、それはもう用心深く、指でなぞるように手紙の文字を読みます。1文字、1文字、ゆっくりと。読み進めるうち、彼はぽろりと涙を流しました。

 そうだ。読めることは、楽しいことだったんだ。読めることは、嬉しいことだったんだ。

 人の気持ちがこもったものは、こんなにもあたたかいんだ。

 彼は決めました。もう一度、読んできた本をぜんぶ読み直そう! 長いおやすみをもらっていたので、時間はたっぷりあります。
 なぞなぞのような難解な本を読みました。幼い頃は分からなかったなぞが、今ならスラスラと解けます。本の中でなぞが解けて喜んでいる人たちと、一緒に喜ぶことができました。
 人々を救うヒーローの物語を読みました。なんども折れそうになる主人公を、ただ励ますだけではなく、少しは休んでいいのだと思いながら読むことができました。それでも、頑張ってしまうからヒーローなのだと理解することもできました。


 羊のむれが、母親をさがして頑張るお話を読みました。何回も危険な目に遭い、それでも力をあわせて乗り越える彼らに、ほんの少しあこがれました。最後に母親と出会って大団円! 彼はすこしだけ、ひとりきりの家がさびしくなりました。

 少し迷って、彼は生まれた家へ電話しました。ひさしぶりだったので、すこしぶっきらぼうになりながらも、ゆっくり、すこしずつ、言葉を伝えあいました。

 その様子に、本たちは嬉しそうな声でヒソヒソと話します。

 あぁ、よかった。ぼくのおはなしは、また、あの子を楽しませることができたんだ。
 また次も読んでくれるさ。俺の話も、ずいぶん長く読んでいたしな。
 あの子なら大丈夫。本をよむことは、怖いことじゃないって知ってるもの。

 そう、彼はもう大丈夫でした。おやすみをやめて、また、本を読む日々に戻ることにしたのです。
 
 でかける前に、彼は振り返って、すこしだけ照れくさそうに笑いました。そして、「行ってきます」と言い残し、とびらをしめました。


 机の上の本が、風をうけて、手を振るようにパタリと閉じました。







目標文字数 2700字
実際の文字数 2347字

主題「好きな本」
副題「絵本調で」

字足らずによるレポートF評価不可避

6/15/2024, 2:13:25 PM