春風とともに
微睡みに浸る身体を引き摺り起こす。
あたりはすでに春の陽気で満たされていた。
気分を害したリスみたいな顔をした君が隣でもぞもぞしている。
上から布団をかけてやって、朝食の準備を始めた。
適当にスクランブルエッグなんかを作って置いておく。
桜が爛漫としている。
眩しくて仕方がない。
カーテンを閉めて君を起こしに行く。
まだ本調子ではないようだ。
のそのそとご飯を食べて、大きな欠伸と共に食べ終わる。
外では春風が吹いている。
桜の枝が揺れて花が落ちていく。
風流だなんて思いはしない。
それでも、君が「きれい」と一言寝惚け眼で零したから。
春風なんかもいいなと思った。
涙
空腹を感じてようやく身を起こす。
昨日はよく泣いた日だった。
何でもない日にこそ涙を流す。
忙しい日よりも楽しい日よりも悲しい日よりも、
何も無い日を選りすぐってその日に涙を流す。
涙は感情のオーバフローだ。
楽しすぎても悲しすぎても怒りすぎても喜びすぎても
涙が出てくるものだ。
台所へ向かい、冷蔵庫を開ける。
そういう時に必要以上が出てこないように、
又は溜まった感情に突き動かされないように。
何の変動もない、何も無い日に溜まったものを消費する。
それは、まるで消費期限の近い食べ物を急いで食べるように。
冷蔵庫の中身は空っぽだった。
心も、今そのように空っぽになった。
忘れていた空腹を思い出す。
近くにあったお菓子を掻い摘んで飢えを凌ぐ。
溜まった腹と感情と。
また減らす日を作らなくてはいけないな。
春爛漫
眩しいほどの朝、障子を開けて外を見る。
すっかり冬は消え失せて、春が暖気を呼び込んでいた。
庭の花々は徐々に幼気を見せ始めている。
縁側から一頻り庭を眺めた後、茶を入れに台所へ向かう。
生き生きとした新芽の香りが溢れかえる。
半生を共にした、家族と言えるような
植物の子供たちが本格的に芽吹き始めたのだろう。
熱い茶を啜りながら窓の外を見る。
煌々と輝く其れ等はまさに、春爛漫と言えるものだった。
忘れがたい記憶がある。
これは筆者本人、つまり俺の記憶だ。
もうそろそろ受験という焦りと、
どうにかなるだろうという余裕。
対極となる二つが出始めた頃の話だ。
話は変わるが、我が家には大層可愛い犬がいた。
犬種はシェルティ。
シェットランドシープドッグ。
セーブルという模様の茶色の女の子。
温厚と言うよりは大雑把で気楽で、
それでいてとても優しい子であった。
その子の名前を福徠という。
福が徠ますようにという願いを込めて。
色々なあだ名(少なくとも十以上はあった)
がつけられたのであの子は名前と認識していなかったかもしれない。
あの子は保護犬だった。
繁殖犬として雑に扱われ、
ケージの中で立つこともままならなかったのだと聞いた。
話を受験期に戻す。
もうすぐ福徠が来て二年というその時に福徠が死んだ。
気管支炎に気づいてやれずそのまま悪化させて、
肺炎になり血が溜まって呼吸ができなくて、
俺の目の前で息を引き取った。
目を見開いて舌を垂らして糞尿を漏らして。
もっと幸せにできたはずのあの子を俺は見殺しにした。
本当は気づいてないわけがなかった。
呼吸がおかしいのはずっと前からだった。
ご飯を食べたあとよく噎せていて、大丈夫?ってよく声をかけてた。
様子がおかしいって、医者に連れて行ってって
本気で言えばよかった。
お金がないとか、そんなに気にせずに、
生きてもらうために本気で説得するべきだった。
そんな事も出来なかったから、俺はあの子を殺してしまった。
殺したも同然だった。
あの子がくれた幸せと安心が、
ずっと染み付いて遺って居てくれている。
俺にはそれが嬉しくて辛くて仕方がない。
家に帰るたびに、嬉しそうに駆け寄る爪のちゃっちゃっという音が、
元気な吠える声が聞こえない。
玄関を開けた先には尻尾をぶんぶん回すあの子は居ない。
廊下に堕ちるように寝てるあの子は居ない。
ご飯のとき一段と動き回る茶色が見えない。
おやつを欲しがる顔がない。
寝るとき寄り添ってくれる温かみがない。
足元に押し付けられるもふもふがない。
舐めてくれた舌の濡れが手につくことがない。
絶望よりよっぽどきつい気がした。
自分が傷ついたほうが余程良かった。
泣くこともできない。
灰になったあの子がリビングに居る。
でもそれはもう吠えないしお迎えしないしあったかくない。
忘れ難い温かい記憶ばかりを遺した。
愛したのだから、これからも染み付いたまま、
俺は無理をして生きていくしかない。
あの子が、福徠がくれた幸せを染み付かせて歩く。
あの子が生きて、俺を救ってくれたことを少しでも世の中に知らしめるために。
往々にして私は弱い生き物であったのだけれど、
とうとうそれに気づくことはなかったの。
私は弱いくせに気丈であったから、
皆は遠くの雲を見ているようだったわ。
決して手の届かないものであろうと思ったのね。
触れてしまえば、手の内に収められただろうに誰もそれをしなかったのよ。
だから気づかなかったのね。
私は愚かでもあったのね。
雲のように、私は空に浮かんでいるわ。
死んでしまったのだから、仕方がないのよ。
あなたが手の内に収めたかった私はどこへもいないの。
あなたはどうか雲へはならないで、人を行きなさいな。