夏草
青々としたくさっぱらの海に呆然と立っている。
空には雲ひとつない。
地平線までが透き通って見渡せるほどだった。
ジリジリとした暑さが肌を焼く。
体中から汗が噴き出る。
しかし遮るものはない。
あるいは、草を編んで被ればマシだろうか。
私は一体どこから来たのだったか。
どんな目的で、どうやって?
夏草の群れは依然として青々しい。
強度は十分にあるだろうか。
屈み込んで、引きちぎろうと手を伸ばす。
瞬間、強い風が吹いた。
日陰が必要ないほどの涼しさをもたらしている。
手元の夏草を見つめる。
青々とした夏草は陽光と風を受け生き生きとさざ波合っている。
そのまま地べたに座り込む。
燦々と輝く太陽が煌々とこちらを見つめている。
どうやってここまで来たかなんて覚えていないが、
足があるのだから歩いていけばいいだろう。
すっくと立ち上がり、目の前に歩いていく。
どこに進めばいいかなんてわからないが、進めばきっと何かある。
ここにある
風が流れるように、
海がさざ波を起こすように。
この世にとどまり続ける永遠など
ひとかけらもありはしない。
それでも私は求めてやまない。
今を生きとし生けるもの共その全てが、
その胸の内に、
体内にのみ下したその想いや思いは、
それだけは。
ただただ個々にあり、
ここにあり、
決して潰えるものではないと。
見知らぬ街
見知らぬ景色。
ここは私の知らない場所。
知らない場所は未知で満ち満ちているわけで、
ここは私にとって異世界だった。
ここに来るまで、留まるまで何があったわけでもなく、
ただここから出る気力がないのであろう。
足りない頭で孤独を啄み続けている。
孤独はいつか孤毒となる。
体を蝕むそれらを無視するわけには行かないというのに、
体も頭もいうことを聞きはしない。
これでは屍に変わりないだろう、と嘆き続けている。
生き返りたいのに、死ぬのが怖いのに、
それ以上に知らないを知ることが恐ろしい。
知ったことで、知らない自分が殺されるのが怖い。
毎秒毎秒、知識が、知見が覆されていく世界。
変わってしまった帰り道。
切り倒された、秘密基地のあった森。
なくなってしまった大好きな遊具。
みんなみんな変わってしまって、
ここはもう見知らぬ街になってしまった。
見知らぬ街を知ることが、見ることができなくて。
まだみんなと遊んでいたくて。
一緒に給食を食べてたくて。
学校に行っていたくて。
休日には買い物とか行きたくて。
けれどここはもう知らない場所だから、
見知らぬ街だから、
啄んだ孤独に啄み返されて消えてなくなるしかないんだ。
遠雷
輪郭までもがとろけてしまいそうな、長い長い雨の中。
ざあざあ振りの外には目もくれない貴方がいる。
その目はいつだって虚ろで、真剣で。
相反する感情を発露させたその瞳が私は大好きだった。
その目は、貴方の象徴であり、まさしく私の恋の象徴だった。
筆を取る。
絵の具を溶かす。
キャンバスに色を付けていく。
ひとつひとつの動作が洗練されていて、
美しいなんてそんなものじゃないくらいだった。
遠くで雷が鳴っている。
貴方はわざわざこんな雨だらけの街に越してきて、
雨ばっかりを描いていた。
私の恋の象徴は、貴方の愛の象徴だった。
貴方は、雨を愛している。
湿気た風を、暗い空を、重い空気を。
叶わない恋を、お互い背負い続けている。
私も貴方も、この気持ちを世界に打ち明けずに死んでいく。
遠く遠くで雷が鳴っている。
私達のように。
出会うことはないと言わんばかりに。
でも、それでも。
貴方の愛は世に残り続けるのだから、
貴方だけはきっと報われるのでしょう。
8月、君に会いたい
魚面の夢を見た。
すぐ上には水面。
足元には玉状の石の群れ。
大昔、川に落ちた時の夢。
確かこのあとすぐに引き上げられて、それで。
溺れていた記憶を見ていたというのに焦りはない。
エアコンの効いた涼しい部屋の中で、
俺はこれ以上ないくらいの平穏を保っている。
枕元の時計は2:36を指す。
まだまだ夜中だ。
カーテンを除けてみればぽっかりとした月が浮かんでいる。
まるいまるい、魚の目みたいにまるい月。
起きているのに夢を見ている。
夢を見ているというよりは、これは。
夢に見ているのか、あの日の情景を。
溺れた恐怖と焦りに勝るほど美しかったあの景色を。
揺れる水面。
流れる透明な水。
周りを泳ぐ小魚たち。
そして、目の前のあの大きな魚。
皮膚をぱくつくでもなく、逃げるでもなく、俺の目の前にいた。
あれから何年経っただろう。
鮮明に思い出せば出すほどまるで恋のように焦がれるのだ。
まだ、生きているのだろうか。
あの大きさならば、鳥にも狙われることは少なかろう。
もし、いまだに生きているのならば。
会いたい。
あの溺れた夏のように。
あれに出会った8月の川の中で。