あの日の景色
願い事
寝ぼけ眼を何度も擦り上げ夜明けを待つ。
貴方はこない。
逢瀬はありえないと知りながら。
ひらひら揺れる笹、七夕飾り。
ハラハラとこぼれる心、感情。
蒸し暑くてじっとりした風が頬を撫でる。
吹き出る汗では、こんな体では、手では、顔では、
貴方を引き止められない。
ここにいない貴方。
もう会えない貴方。
私以外を選んだ貴方。
願いは醜い。
貴方だけが、幸せでありますように。
青い風
濁りきった曇天の空。
泥濘む足元。
不明瞭な視界に小さな雨粒がチラチラと映り始めた。
あたりに屋根はなく、閑散とした瓦礫の山が広がっている。
ここが何処だかは知らない。
自分が誰だかも知らない。
世界に何が起きたのかも。
気づけば埃と瓦礫の下で蹲っていた。
人らしき影は辺りに一切として見えず、
肉片と赤黒い液体が潰されたように飛び散っているばかりだった。
飢えて倒れては散らばる肉片を貪りまた進むことを繰り返す。
雨はいよいよ本降りとなりそうで、
瓦礫でも積んでバラックでも作ろうかと思案したその時。
微かな物音が聞こえた。
おれ以外の何かがいる。
慌てて辺りを見回すが、雨で何も見えない。
もし、もしそれが敵対していたら。
自分より大きくて、ずっと強かったら。
不安ばかりがよぎる。
だが、そもそも音が聞こえたという確証も、
何かいるという確証もない。
思考に脳のリソースを振り切り、不安を捨て去ろうとする、が。
今度は確かに、がらがらと大きな音が聞こえた。
瓦礫の崩れる音。
ここには瓦礫の山を崩せるほどの力を持った何かがいる。
思い至った瞬間に、弾かれたように走り始めた。
気づかれてはならない。
できる限り遠くへ行こうとして回した足が絡まる。
途端に制御を失って倒れ込む体。
同時にべしゃりと大きな音がなった。
がらがらという音が止む。
間違いなく気づかれた。
何かがこちらへパチャパチャと音を出しながら近づいてくる。
怯え竦んだ体は立ち上がることもできないくせに
一丁前に振り返った。
黒い影が雨の向こうに見える。
恐らくは、おれの腰程度。四足歩行のなにか。
濡れることも厭わずにひたすらに近づいてきたそれは・・・
多分、犬だ。
ぴょこんとこちらを向いた三角の耳。
ふわふわした尻尾はゆらゆら揺れていて、
長い鼻はふすふすとこちらの匂いを嗅いでいる。
まあるい目がこちらを見ている。
こちらを襲う気はないらしく、
そのままぺたんと目の前に座り込んだ。
犬は、人類の一番最初のパートナーらしい。
この子は、おれと一緒に来てくれるんだろうか。
触れてみようと差し出した手をじっと犬が見つめる。
それが自分に差し出されていると認識した瞬間、
ぱぁっとその顔が輝き始めた。
ついでに尻尾が切れんほど揺られている。
もともと人と一緒にいたのだろうか。
完全に耳を下げ撫でられる体勢に入ったそれに怖怖と触れる。
気持ちよさそうに大人しく撫でられるそれ。
よく見てみれば体は痩せ細り、汚れきっている。
放ってはおけない。
撫でられていたそれを抱きしめてみる。
はっはっと息をしながら、尚の事嬉しそうに尻尾を振る。
そんな事をしているうちに雨は止んでいた。
頬を気持ちのいい青い風が撫で、濡れた体を乾かしていく。
目の前のその子に向き直り、問いかけた。
「おれと、一緒に来てくれる?」
「わんっ」
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シェパードの気持ちで書きましたが中型から大型ならどんな子でも当てはめられると思います。
小型犬はおそらく描写に噛み合わなくなりますが、入れても問題はないはずです。
皆様のお好きな犬種を当てはめてみてください。
カーテン
貴方は当たり前のように貴方のまま生きている。
朝起きて、カーテンを開けて外を見る。そのくらい自然に。
貴方は幸でも不幸でもない。
お金持ちなわけでも、頭がいいわけでもない。
容姿も秀でているわけじゃないし運動もあまりできない。
だと言うのにその姿はやたらと晴れやかで。
幸への執着がないのかいかれているのか。
貴方は貴方の人生に満足している。
だからちっぽけな幸不幸に惑わされない。
重たいカーテンに風が吹いてもびくともしないように毅然としている。
吹く風吹く風は貴方を確かに押しのけようとしているのに。
威風堂々。だというのに嫌らしさがない。
尊大でありながら最も我々に近しい。
貴方の魅力に取り憑かれた。
貴方を開けて見たかった。
体を、頭を、心を。
知りたい。
貴方を知りたい。
もっと。
もっと。
その魅力の正体を。
カーテン1枚に遮られて浮かび上がる影。
美しい貴方がそこにいる。
重たいカーテンは風で揺れない。
貴方の姿を見ることはできない。
私は貴方にとって不特定多数の目の一員。
カーテンを開けたら外が見えるくらい当たり前にいるもの。
貴方のその目を奪いたい。
開けたカーテンの奥にたまたま鳥がいたように、
重たいカーテンがたまたま強い風で動くように、
貴方のたまにの非日常になりたい。
しかしカーテン越しの恋はとどめておこう。
私は貴方の外でいい。
貴方は貴方であるのが美しいのだから。
青く深く
浸かった海は冷たくて、ほんの少し生臭い。
遠くには透明なほどに白い月がぽおんと浮かんでいる。
ムーンロードの上に俺は居る。
何度も何度も波に押し返されながら進んでいく。
それがどうにも心地が良くて、俺は歌ったり回ったりを繰り返した。
伸ばした髪が漂って、絡みついて、なおさら気分が良かった。
腰辺りなんてとっくに過ぎるほど、
もうすぐで海に沈む頃に、後ろにいた少女が俺に声をかけた。
「どうしてここなの」
「どうしてここに沈むのよ」
今まで問いかけられたそれにはどうしても答えられなかった。
自分の中でも答えが出なかったから。
彼女と初めて会ったのは、彼女の母の葬式。
俺が殺したようなものだった。
海に傾倒した俺に傾倒した人。
あろうことか己の娘をほっぽりだし海に沈んでしまった。
そうすれば俺が振り向くと思っていたのかもしれない。
はっきりと言葉で伝えて、打ちのめしてやればよかったと何度も後悔した。
その娘は今、何を考えているのだろう。
母を殺したような男が、母の沈んだ海に身を投げる。
さぞ奇怪だろう、異様だろうと同情する。
なんにもしてやれない。俺にその資格はない。
こうなる前に、彼女の母にしてやれなかった事を
してやるべきだった。
思い切り言葉で打ちのめして、
叩き折って圧し切ってやればよかった。
青く深く、声も響かぬ底につく前に、ようやく問の答えが分かった。
ただのひとかけらでも、もう遅くとも、
こんなことに付き合わせた贖いを、母を奪った罪を償うべきだ。
ただ一言お節介な言葉を放つ。
唖然としたような少女の背に伸びるムーンロード。
それを最後に俺は沈んだ。