最後の声
ここは波打ち際。
貴方は適当につっかけてきた靴を脱いで、
お気に入りの服で波間へ身を挟む。
どうやら引き返す気なんてさらさらないようで、
還る気の貴方はもう腰まで浸かってしまった。
長い髪が波に遊ばれ揺れている。
大きな波に何度も押し返される。
それでも、貴方は歩みを止めない。
貴方はご機嫌なようで、どんどん沈んでいく。
その度に体は濡れて重くなって、波に打ちのめされてるはずだけど。
やっぱりあなたはご機嫌みたいで、
くるくる回って、歌なんて歌っている。
これから死ぬ貴方。
海に恋した愚かな貴方。
そのうえ貴方は海に愛されてしまった。
きっと二度と帰ってはこないでしょう。
あの人の、母の愛した男がこんなに愚かであったなんて。
寧ろ、愚かであったから愛したのかも。
自分のことも無頓着のように見えて、
身だしなみはきちんと整えられていて。
人に興味がないくせに優しくするから。
狂った母は貴方に傾倒して先に沈んでしまった。
ここは母の沈んだ海だった。
なぜここを選んだか聞いてみたけれど答えは返ってこない。
今も、答えてくれない。
最後、私が引き換えして貴方は進む約束の深さまで来た時。
貴方はくるりとこちらを振り向いて一言。
「罪滅ぼし」
それだけ言ってこぽっと沈んでしまった。
小さな愛
例えば名前を漢字で書けること。
コーヒーにいくつ角砂糖を入れるか知っていること。
昨日食べたご飯を知っていること。
そばにいることいてくれること。
しみじみとした小さな愛は普遍的に、
断片的に当たり前として貴方達の周りに転がっている。
その転がった愛が、拾い集めた愛が、
どうかあなたの命を守る盾に
あなたの命を繋ぐ縄に
あなたの命を温める布団に
あなたの命を照らす光に
あなたの命を休ませる夜に
どうかそうなりますように。
そうでありますように。
どこへも行かないで
暗い路地裏。
子どもたちの秘密基地。
段ボールにガムテーム、格好良い木の枝と
ちょっと奮発して買ったリボンやらシールやら。
幼稚な作りですぐに壊れてしまうように見えるそれらは、
案外長生きしていることがある。
何故なら、子供達が居ない間に守るものどもが居るからだ。
寂しいもの、或いは気付かぬもの。
それらは健気に遊び場を守っている。
大雨、強風、風化から基地を逃し続ける。
いつまでも、永遠に一緒に遊び続ける為に。
しかし終わりは来る。
子供はいつまでも子供で居られない。
いつかは秘密基地から姿を消してしまう。
秘密基地のことも、友達のことも忘れてしまう。
あれらはそれをよくわかっている。
いつしか献花がなくなったように。
自分の死を悲しむ声が少なくなっていくように。
自分たちが置いていかれる存在であることをよくわかっている。
だから認めれない。
寂しい、寂しい、寂しい、寂しい。
どうして来なくなったの。
どうしておいていったの。
友達じゃなかったの。
そして、自覚しないうちに大きくなった子供達を
引き摺りこんでしまう。
自分たちの家。
大きな大きな暗がりの中。
あの日の秘密基地へと。
だからあちら側へ行ってはならない。
あれらいつだって手薬煉引いてあなたが来るのを待っている。
君の背中を追って
いつの日からか君が目につくようになった。
成績優秀。
容姿端麗。
品行方正。
良い子の集合知のような貴方。
気に食わなかった。
一番ははいつだってあたしだったのに。
だからねじ伏せようとして、血が滲むような努力をした。
食事を、睡眠を切り詰められるだけ切り詰めて。
あくる日も、あくる日も。
頑張って、頑張って、頑張って、頑張って。
倒れるくらい限界になって、ようやく気づいた。
君は手が届かないところにいる。
ずっとずっと、てっぺんの近く。
そのお膝元に君はいる。
手が届くはずがない。
持ち合わせた"モノ"が、
"才能"が、違いすぎる。
あたしは普通の子になった。
一番じゃ無ければ、誰だってあたしを見はしない。
あなたは凄い子ねと言った先生も、
これなら将来は心配ないなと行った担任も、
あなたなら何だってできるだろうと言った顧問も、
教えなくたって大丈夫だなと言った塾の先生も、
もうあたしなんて見向きもしない。
あたしは頑張ることを辞めた。
君は無敵だった。
君の背中を追っていた日々。
君の背中を追う意味がなくなった日々。
一番であることへの執着との乖離。
かわりの、君への執着。
君の背中を目で追い続ける。
お膝元から滑り落ちるか、てっぺんにたどり着くか。
その日になるまで、君を見続ける。
その日が来るまで、決して君から目を背けない。
雨の香り、涙の跡
ざあざあ降りの雨がある。
しとどとなく降っている。
降る雨は、
空を濡らし、
街灯を濡らし、
葉を濡らしている。
雨は光を吸い込んで、暗い暗い空を守り合っている。
なんの変哲もないベランダ。
観葉植物も仕切りもなく、可愛げなんてのもなかった。
降りしきる雨に濡れながら珈琲を啜る。
カフェインなんてどうでもよかった。
真夜中が明けるまで、眠りたくはなかった。
薄く香る苦味。
煙とともに立ち昇って遠くへ行く。
誰かに嗅がれる頃には少しも苦くはないのだろう。
涙の跡はまだ枯れない。
ずぶ濡れになって隠すのが精一杯だった。
脆いから、
穴だらけだから、
色んなとこから嫌なものがたくさん染み入って、
自分に染み入って溶け込んでくるから。
それを流し出さなきゃいけなくて。
まだまだ青い自分が許せなくて。
芯までぐじゅぐじゅになったから。
涙の跡が乾くまで、それまでここを動けない。
涙の跡が乾いたのなら、その時にはもう晴れているだろう。
雨の香り、涙の跡。
共に乾いて遠くへ行って、誰かに届いた時には
ちっともなんともなくなってるはずだろう。