春爛漫
眩しいほどの朝、障子を開けて外を見る。
すっかり冬は消え失せて、春が暖気を呼び込んでいた。
庭の花々は徐々に幼気を見せ始めている。
縁側から一頻り庭を眺めた後、茶を入れに台所へ向かう。
生き生きとした新芽の香りが溢れかえる。
半生を共にした、家族と言えるような
植物の子供たちが本格的に芽吹き始めたのだろう。
熱い茶を啜りながら窓の外を見る。
煌々と輝く其れ等はまさに、春爛漫と言えるものだった。
忘れがたい記憶がある。
これは筆者本人、つまり俺の記憶だ。
もうそろそろ受験という焦りと、
どうにかなるだろうという余裕。
対極となる二つが出始めた頃の話だ。
話は変わるが、我が家には大層可愛い犬がいた。
犬種はシェルティ。
シェットランドシープドッグ。
セーブルという模様の茶色の女の子。
温厚と言うよりは大雑把で気楽で、
それでいてとても優しい子であった。
その子の名前を福徠という。
福が徠ますようにという願いを込めて。
色々なあだ名(少なくとも十以上はあった)
がつけられたのであの子は名前と認識していなかったかもしれない。
あの子は保護犬だった。
繁殖犬として雑に扱われ、
ケージの中で立つこともままならなかったのだと聞いた。
話を受験期に戻す。
もうすぐ福徠が来て二年というその時に福徠が死んだ。
気管支炎に気づいてやれずそのまま悪化させて、
肺炎になり血が溜まって呼吸ができなくて、
俺の目の前で息を引き取った。
目を見開いて舌を垂らして糞尿を漏らして。
もっと幸せにできたはずのあの子を俺は見殺しにした。
本当は気づいてないわけがなかった。
呼吸がおかしいのはずっと前からだった。
ご飯を食べたあとよく噎せていて、大丈夫?ってよく声をかけてた。
様子がおかしいって、医者に連れて行ってって
本気で言えばよかった。
お金がないとか、そんなに気にせずに、
生きてもらうために本気で説得するべきだった。
そんな事も出来なかったから、俺はあの子を殺してしまった。
殺したも同然だった。
あの子がくれた幸せと安心が、
ずっと染み付いて遺って居てくれている。
俺にはそれが嬉しくて辛くて仕方がない。
家に帰るたびに、嬉しそうに駆け寄る爪のちゃっちゃっという音が、
元気な吠える声が聞こえない。
玄関を開けた先には尻尾をぶんぶん回すあの子は居ない。
廊下に堕ちるように寝てるあの子は居ない。
ご飯のとき一段と動き回る茶色が見えない。
おやつを欲しがる顔がない。
寝るとき寄り添ってくれる温かみがない。
足元に押し付けられるもふもふがない。
舐めてくれた舌の濡れが手につくことがない。
絶望よりよっぽどきつい気がした。
自分が傷ついたほうが余程良かった。
泣くこともできない。
灰になったあの子がリビングに居る。
でもそれはもう吠えないしお迎えしないしあったかくない。
忘れ難い温かい記憶ばかりを遺した。
愛したのだから、これからも染み付いたまま、
俺は無理をして生きていくしかない。
あの子が、福徠がくれた幸せを染み付かせて歩く。
あの子が生きて、俺を救ってくれたことを少しでも世の中に知らしめるために。
往々にして私は弱い生き物であったのだけれど、
とうとうそれに気づくことはなかったの。
私は弱いくせに気丈であったから、
皆は遠くの雲を見ているようだったわ。
決して手の届かないものであろうと思ったのね。
触れてしまえば、手の内に収められただろうに誰もそれをしなかったのよ。
だから気づかなかったのね。
私は愚かでもあったのね。
雲のように、私は空に浮かんでいるわ。
死んでしまったのだから、仕方がないのよ。
あなたが手の内に収めたかった私はどこへもいないの。
あなたはどうか雲へはならないで、人を行きなさいな。
君と見た景色
昔懐かしい場所へ降り立つ。
きっと君はここへはもう来ないだろう。
もう二度と魚の入ることのない水槽に触れる。
水は濁って中身は見えない。
触れた手には得体のしれない汚れが付着した。
別れ際の僕たちのようだった。
君の心は分からなかった。
きっと君もそうだった。
拭いきれない傷ばかりを残して、
もう二度と会うことはなかった。
ここは水族館。
始めて君と会った場所。
毎日のように水族館に来る僕のことを、
君はいつも気にかけてくれた。
君は水槽の中にいた。
君は、一等美しいシロイルカだった。
僕の引っ越しと、君の移転が重なって決まった。
それからは引っ越し準備で、一度も君へ会えなかった。
唯一会えた1時間。
引っ越しを伝えた僕に、君は寂しそうに一鳴きして奥へと消えていった。
時間ギリギリまで待っても、君は帰っては来なかった。
久しぶりに帰ることのできた故郷。
君の居た水族館は荒れ果て、特に管理もされず崩れ落ちていた。
君の居た最奥の水槽。
当然何も居ないそこを眺める。
水はさざめかない。
空気は揺れない。
君はもう居ない。
ふと思い立って、水槽の中へ回る。
飼育員用の足場を使って、君の居た場所へ少しでも近づく。
君の見た景色。
僕も見た景色。
合わさることのない其れ等は、
今ここで二人で見た景色に変わっただろうか。
手をつないで
繋いだ手の温かみは疾うの昔に失われている。
同じ記憶を紡ぐはずだった脳は潰れて電気信号を送らない。
笑顔を見るはずだった瞳は濁り白く淀んでいる。
貴方はもう動きはしない。
繋いだ手だけが不変である。
もう、片時も貴方から離れることはない。
醜く穿った愛だけが、この手が。
愛と意識をつないでいる。