じっくり腰を据えて、話すことにした。
もうそろそろ見ていられない。目の前の上司ときたら、ひらりと手を振って去って行った女(ひと)を見えなくなるまで目で追って溜息をついている。これで想いを認めないのだから、年頃の少女より女々しいというものだ。
『… 想ったところで仕方がないよ。』
私のようなのがあんな娘(こ)をさ、と言い訳がましく唇を尖らす様は、幼い頃とまるで変わらない。
確かに彼女をどう思うかは貴方の自由だ。だが、仮に…想像してみると良い。貴方の想いを彼女が嫌悪し、畏怖し、去って戻らないことがあるだろうか、と。
『やめてよ、』
『――。』
久しく聞かなかった少年時代の呼び名を聞いて上司は黙る。
私に引く気がないのが解ったのだろう。
怖がらずに、疑心を捨てて、己の本心と向き合え。さ、あの女(ひと)が、お前をどんな顔で見るのか言ってみろ。
『… わからない。』
頭の中で、ただ笑っている。白玉みたいな歯を見せて。
そう呟いて、男はまた溜息をついた。
… そら、解ったろう。お前は信じているんじゃないか。
誰をどれほど愛するかなど、決して自分では決められない。
だが、思いを遂げるための努力はできる。
さっさと腹を括りなさい、と言う私の言葉に、じとり、と険のある瞳が何とか言い返そうと見返してくる。
『説教臭いね。…歳なんじゃない?』
グズグズしていたら、貴方もあっという間に私の歳になりますよ。言うが早いかぴしゃり!と鼻先で襖が閉まった。
まったく、幾つになっても手の掛かる悪ガキめ。
【意味がないこと】
『くそぉーっ、悔しい〜〜〜!!!』
仰向けにひっくり返ったまま感情を思いきり吐き出すと、その声を待っていたように手拭いが差し出された。
初めての時は驚いた。好敵手へ勝負を挑みに幾度となく訪れてはいるが、この場所では見ない顔だったから。
『毎回ありがたいけど、まさか揶揄っていませんよね?!』
いつも負けている私を。語調が自然と強まってしまう。
私の言葉にその女(ひと)は、ハハハと声を出して笑った。
『貴方いつも、大声で口上を述べるじゃないですか。』
だから負けた方に要るだろうと思って持ってくるだけですよと、尤もらしい事を言いながら、今はもう見慣れた女が隣に腰を下ろした。
その情けをあの日以来、ずっと私が受け取っているわけか。
改めて不甲斐なさがこみ上げる。一回の勝負で二度負けた気分だ。…悔しい、悔しい!!!
私が顔を拭いたり頭にできたタンコブの場所を確認したりする間、この女は何も言わずに待っている。
その沈黙がありがたい。励ましだの慰めだのを口にされたらきっと余計に頭にきてしまって、二度と手拭いを受け取る気が無くなってしまう。
『……ありがとうございました。』
仏頂面で少し汚れた手拭いを返す。(洗って返すと言ってもどうせこの女は断る)はい、と言って苦笑される。毎回。
友人でもなく、敵でも味方でもなく、知り合いと言うには近いが、決まり切った言葉を交わすだけ。
やり取りを終えて別れる時、私とこの女が何なのかが解らなくて、妙なものだな、といつも思う。
べつに、名前の無い関係が不満なのではない。
でもいつか私が勝利を果たす時、貴女が好敵手(あいつ)に手拭いを渡して労るのかと思うと、嬉しくない気がしなくもない。
【あなたとわたし】
息を呑み眦を釣り上げた後、女は一気に泣き出した。
こんな筈ではなかった。数日間も任務に忙殺され心ならずも放ったらかしだった女の元へ、今夜、漸く忍んで来ることができたのだ。
涙声を聞いてやっと、自分の対応のまずさに気付く。女の見せたのは言ってみれば可愛らしい嫉妬心で、ムキになるような事ではなかった。急に何日も顔を見せなくなった私の身を案じながら、じっと待っていてくれたというのに。
『……なにも、泣くことはないだろう。』
正直、何を言ったら良いかわからない。女は共に入った褥の中で私に背を向けてしまった。腕枕からも逃れようと身を捩るが、体を寄せて阻止する。腕の中に感じる体温が熱い。
私がいつとも知れぬ身である事など、承知の上と思っていた。…いや、承知してくれていると知っている。何のために、身を捧げるのが望みであるかも。
だが自身の覚悟と、好いた相手の身を思うのでは訳が違うものかもしれない。返す返すもまずかった。
さんざん気を揉んだ末、ずっとご一緒できる上役さまが羨ましいと溢した女に、あの方のために死ぬなら本望だ、などと言葉にするべきではなかったのだ。
女は泣き疲れてきたようだ。こんな不甲斐ない男に泣かされて、それでも恨み言を堪えているのがいじらしく、身を焦がす程に愛おしい。
木偶のように悪かった、泣くな、と繰り返しながら、頭を巡らせ他の言葉を探す。本音は取り下げたくない……この女を相手に、心を誤魔化す事はできない。嘘はつけない。
さりとて、泣かせたままにすることもできない。
女の体を擦り髪を撫でながら、何とか声を絞り出す。
お前のためには死ねない。けれど、
『お前のため…私自身のために。生きていたい、と思う。』
女の体が一度震え、答える様に、しゅん、と鼻を鳴らした。
嘘ではない、と解るように、その晩はもう何も語らないと決めた。
【眠りにつく前に】
はっぴいー はろういんっ! 妻の声が華やいでいる。
再会からもうすぐ二月。常ならむ姿で笑い合う部下たちを見ていると、我々に起きた身の上の変化など、まるで夢でも見ていたかのようだ。
『奥方様も狐の面が欲しいそうですよ。』
天狗が微笑みながら徳利を差し出す。
各々考えた衣装を見せ合い、一頻りあれこれ批評したりじゃれ合ったり。狙い通り、妻は大層喜んでくれたようだ。
祭りの慣例に倣い、彼女は我々の畑で収穫した南瓜を蒸したり焼いたり潰したりして拵えた菓子を振る舞ってくれている。肴になるようにと、皮の金平も。忙しくしていて衣装を仕込む暇がなかったのが残念なようだ。
『…あれには日向の方が似合うさ。』
幽霊も一つ目小僧も雪女も、妻の菓子を頬張って笑い合っている。手懐けられている。日を浴びて育ったものを、日向の笑みを称えた女に与えられて。
思えば、いつしか農民の暮らしを徴する税の増減でしか見なくなっていたのかもしれない。しかし何度戦が起こって踏みつけられても、それが終わって荒れ地へ放たれても、消して絶えることがないのは彼らの営み。
…そう今の、我々の生き方だ。
朧な雲から月が顔を出す。もう、お前を厭う理由もないね。
これからは酒を嗜む口実になったり、妻の肌を照らしたりしておくれよ。
金平と盃を天狗に譲って縁を離れる。妻が両手で持った饅頭の大皿から一つ取って頬張った。
やっぱり南瓜餡だ。甘いね、美味しいよ。
でもお前、配ってばかりで食べていないんじゃないかい?
南瓜の甘みの残る口で、弧を描く唇に素早く吸い付く。
えっ、だか、はっ、だかいう声が起こり、一つ目の面はくすくす言ってひらひらと揺れていた。
まん丸な目と口と、真っ赤な頬を隠すように狐の面を掛けてやる。…耳の赤いのは隠れないね、ごめんよ。
【理想郷】
数ヶ月前に拾った女芸人は城内の者たちにもよく馴染んだ。一国の城主相手に真っ向、契約書による制約なぞ求めてきた面白いやつだ。弁が立ち、化粧や衣装で姿もくるくる変えて見せるので実に楽しい。
『あれを奥に迎えるとしたら何とする?』
室の膝へ寝転びながら問うてみると、随分お気に召したのですね、とはぐらかされた。澄まして見せておるが、平素と違い視線は合わない。拗ねておる。
美しい面を下から見つめていれば、暫くして、微かな吐息とともに言葉が降ってきた。
―――殿のお望みとあらば、不自由はさせません、と。
…愛いやつめ。儂があれに情がある訳無かろうが。
そもそも奥の事はそなたの領分、儂一人の望みをごり押すことでもない。
指で頬を撫で、あやしてやる。黒く大きな瞳が睫毛の影を落として此方を見た。戸惑いと悲しみが溜息に乗って届く。
そう剥れるな。儂が側室にと口にした時、あやつが何と言ったか教えてやろう。
『あのお美しい御方様から目移りするような殿方は御免被ると、けんもほろろであったわ。』
まあ、と室は複雑な顔をした。…が、儂が笑えば揃ってくつくつと笑い出す。
よしよし、それで良い。そもそもあれを留め置くのは、そなたを笑わせるためよ。儂が口説けと命じた男が、殊の外手こずっておるゆえな。
ならば私が口説きましょうかと、悪戯な微笑みで室が言う。
少年の姿で側に置いたら楽しそうです、などと言い出したゆえ苦笑した。ことに依っては浮気であろう?
『儂を裏切れば死ぞ。』
室は愉快そうに、まあ怖い、とまた笑った。
【もう一つの物語】