まだ起きていたのか。
読めとは言ったが、睡眠を
削れと言った覚えはないぞ。
… きりの良い所まで?
駄目だ。此方に寄越しなさい。
私に布団を敷かせるのはお前
くらいのものだ。それは良いが、
薦めた本のせいで独り寝を
強いられては堪らん。
————フッ…
こら、暴れるな。
灯りが消えても私にはお前の
裾が見えているぞ。
つれなくされた分、精々夢で
機嫌を取って貰うとしようか。
… おやすみ。
【ページをめくる】
「足元に気を付けて。」
前日の昼下がりに、男は女の手を取って川辺に立っていた。濃い緑色をした細い草と、小さな白い花が水面で洗われている。夏の午後は暑かった。足元の|清《さや》かな水音に目を細めながら、女はそっと顔の汗を拭った。
「わぁ、可愛い。」
溜め息のように囁く。水中に咲く花が珍しいのか、女の視線は揺れる川面に注がれたままだ。男がそっと手を引き、木陰を選んで平たい石の上に腰掛ける。
「清流にしか咲かない花だ。君はこんな山中まで来られないだろうと思ってね。」
「初めて見ました。」
女が顔を上げて微笑う。日光を避けたというのに、その瑞々しい顔は輝いていた。
男の余暇は貴重だ。低くはない地位に立って久しく、業務は決して少なくはない。そんな彼が女を連れて山の水源へ向かう気を起こしたのは、女が新しい単衣(ひとえ)を仕立てたと知ったからだ。近々開かれる宴の日、女は領主の近くに侍り唄と舞いを披露する。新しい衣装はその準備であり、女に芸を所望した領主からの賜り物なのだった。部下でも身内でもない女の仕事に、男は物を言える立場ではない。ましてや衣装を贈ったのは他でもない主君である。嫉妬心など抱きようはずもない。……ない、のだが。男はちらりと女の顔を見下ろした。汗が落ち着いたらしく、女は川の上を渡ってくる風の涼しさに目を細めている。白く優しい曲線を描く顔に、水面の光が照り返して揺れていた。
「明日はお互い忙しくなるね。」
新しい単衣で舞う女は、それは美しいだろう。一体どれだけの男がどんな顔をしてそれを愛でることになるのか。そこまで考えて、何を馬鹿なと男は静かに首を振った。
「——さま。」
女がまた微笑った。しかしその顔は何故か、先程までとは違う悪戯な色を帯びている。
「このことは、どうか秘密にしてくださいませ。」
言いながら、女は草履の紐を解いて足袋を脱いだ。驚く男をよそに、つま先を川の流れに浸ける。
「冷たくって、良い気持ち!」
――――パシャ。女の白い足が揺れ、水面を蹴って光る飛沫(しぶき)を作った。
「……駄目だよ、君。男にそんな姿を見せたら。」
目を奪われていたことに気付いた男が渋面を作る。男は女が時に見せる思い切った行動が苦手だ。それはいつも予測が付かず、防ぎようもなく彼の心を掻き乱す。女は男の苦言もどこ吹く風で、清い流れにつま先を泳がせながら言った。
「憂いも洗われるようです。どうぞご一緒しましょう。」
「憂い?」
「ええ。暑さも、嫌なことも全て。」
女の言葉を聞き、男の腹に何かがすとんと落ちる。嫌なこと……男が何を憂いたのか女は知らない。しかし交わした短いやり取りの中にそれを感じ取り、女は彼を気遣っているのだろう。それに気付くと、さっきまで色を帯びて見えていた女の仕草が何だか優しく暖かく感じられる。男はそれ以上何も言わず、組んでいた足を崩して足袋を脱いだ。
【素足のままで】
眠れないか? …私もだ。
今日は昼寝をし過ぎたね。
日陰を選んだはずなのに、
気づいたら何故か私の顔にだけ
西日が当たっていて…
ンッフフ!!
起こしに来た奴の顔ったら。
こんな休日を過ごす日が
来るとは思わなかった。
この私ともあろうものが
恋人を抱いてのん気にお昼寝…
なぁんて、ね。
良いんだよ。そのかわり、
明日からはまた忙しいんだ。
さあほら目を閉じて。
…夢の中でも腕の中(ここ)に居てね。
【どこにも行かないで】
燕が頭上を行き過ぎる。
曲線が重なり合いながら初夏の空を切り取っていた。
燕は毎年同じ場所に巣を作るのだ。
もしかしたら、あの離れの軒で孵った雛たちが故郷の空を覚えているのかもしれない。
飛ぶことを覚えた若い鳥たちはやがて海を越えてゆく。
信じてほしい、嫌わないでほしい。
そんなことを願えたのは遥かな過去だ。
自分も……そしておそらくは彼女も。
「……燕の巣を見に行こうかな。」
軒の巣が空になっていたら、女はまた独りだ。
歩み寄る切っ掛けには都合が良い。
そう切り替えてしまうと、すぐにすとんと気が楽になった。土産に何を持っていこうか、などと考え始めた自分に笑みが溢れる。
嗚呼、なんて不細工な恋だろう!
【渡り鳥】
この目、あんまり好きじゃ
なかったんだよね〜。
気味悪いとか、死人みたいとか
言われてさ。見えてないと勘違い
して悪さしてくる奴もいたし。
でもお頭に出会って、皆が俺の
こと白目って呼ぶようになって…
初めて会った時、それを聞いた
君が微笑ってくれて!
今じゃ、この目も呼び名も
気に入ってる。
… だから、呼んで?
いつでも、用が無くたって
良いからさ。困ってる時なら
絶対、飛んで行って助けるから。
何度だって惚れ直させてみせる
からね、絶対!!
【好きだよ】