女の柔い手が俺の袖に触れている。いつもなら掛けられているはずの、お気をつけて、が聞こえない。
昨日の夜、青い顔をしたこの女を見た。
同僚と今日の段取りをつけていて、部屋の戸のすぐ外に立っている者の気配に気付かなかった。
慣れきっていた。この女に。
息を呑む微かな音に勢い良く戸を開けると、驚いた女は持っていた盆を落として尻餅をついた。湯呑みが二つ、廊下に転がる。
『こりゃ、すまんなあ。』
火傷はしとらんか?と、背中から同僚の声がする。女はいつになくか細い声で、はい、とだけ答えると湯呑みを拾って去っていった。
『手くらい握ってやれば良いものを。』
同僚のニヤついた顔に歯噛みする。この野郎、気付いていやがったな。俺が帰らなかった場合のなしをつけている時、よりによってあいつが聞いていたのを。
話していたのは念のため。死ぬつもりなど更々無い。
とは言え危険な仕事には違いなく、あいつに掛ける言葉は見つからなかった。その後、あいつはもう来なかった。
それから夜が明けてまた暮れるまで、いつもなら聞こえてくる女の明るい声は無かった。そしていざ例の仕事に出掛けようという時になって、女は俺の背に縋っている。
大丈夫。心配無用。俺が死ぬと思うか?…どれも違う。
俺が言いたいのは、お前が聞きたいのは?
俺の身を案じて泣く女に何て言ってやりゃあ良い?
手くらい握ってやれば、という声が蘇る。うるせえ、誰のせいだと思いながら、振り向いて女の肩を引き寄せた。
『うまい煮付けが食いたい。』
思い付く限り一番ましな……柄にもないが、願掛けだ。
いつものように飯を作れ。
いつものように、俺が帰るように。
【行かないで】
青空に洗濯物がたなびく。
今日は白いものが多くて大変だった。寝衣、包帯、手拭い…下帯。ほぼ全て上司のものだ。
やり始めたのは子供の頃で、もう習慣付いている。立場が変わった今では回数も減ったが、他の者に任せると思うと何か落ち着かない。
ふぅー、と、深く息をつく。空が高い。秋晴れだ。
薄手の寝衣はもう使わないだろうし、乾いたら少し厚手のものと取り替えよう。袷も出して、繕いが要るか確認して……
などと考えていると、スタスタと軽い足音が近付いてきた。覚えのある足運びに顔を上げる。
『あの方はお留守だぞ。』
やって来た女は目を見開いて足を止めた。尻端折りした自分の姿を思い出し居心地の悪さを覚えたが、女は笑顔で労いの言葉を口にする。おまけに足袋を廊下に投げ捨てて、裸足で縁を降りてくるから驚いた。
『怪我でもしたらどうするんだ。』
平気だとでも言うように、私に歯を見せて笑う。呆れたやつだ。いい天気と言われ、そうだなと返す。衣替えかと問われ、ああそろそろと返す。ぽつりぽつりと話しながら、女の視線は、空へと向かう。微笑っていた。
その薄い唇から、不意に有名な和歌の一首が零れ出た。
景色から連想したのだろう。…が、私は黙ったまま釈然とせず渋顔を作る。女は、はは、と笑った。足袋を履き直して去っていく背中に、呆れたやつだ、と声が漏れた。
『男の洗濯物に天の香具山は無いよ。』
ああ気まずいと呟いて、上司はそのまま文机に突っ伏した。あの女は貴方の下帯なんか気にしてやいませんよ。
そう口にすると、なんでお前に解るんだ、とばかりにジトリと睨まれた。藪蛇だった。
【衣替え】
もうすぐ半年。
彼女が此処へ来てから、殿の御前はもとより我々下々のむさ苦しい酒盛りにも大輪の花が咲く様になった。
今夜も、歌に舞はいかがと姿を表した彼女に部下たちは手を叩いて大喜び。日頃の労を労う席なのだから、今日ばかりは好きに盛り上がるといいさ。節度は持ってね。
彼女の歌は、ほとんどが聞いたことのないものばかり。
巡る星と陽、喜び、痛みや悼み、童の戯れ、そして恋。彼女の声で様々な詩を聞いた。詩に混ぜられた異国の言葉も、幾らか覚えた。時々ズキリと胸を刺すのに、聞き逃すまいとしてしまう。
『おお、いっちょやるか!』
部下の一人が立ち上がり、木札か何かを拍子木代わりに打ち鳴らし始めた。別の年若い部下が何人か、無理な裏声を出して歌に沿い始める。呵呵と笑いが起こり、彼らと彼女は親指を立てて合図を交わした。
……ふーーーん?
お前たちは、この歌を知っているんだね。
とやかく言う理由はないが、なんとなく彼らの名前を記憶に留めた。美しい歌声を騒音で遮ってくれちゃって、彼女が笑っていなければ減給したよ。
人の営みを、咲いては散り種を落とす花に例えて。
人生は無駄ではないと、光る奇跡だと彼女は歌う。
そんな風に、声を枯らして。
影に生きる私たちを、そんな詩で笑わせ、踊らせ、自分の事だなんて錯覚させて。……来世にまで、期待なんかさせて。
まったく、罪な女とは君のことだよ。
もうすぐ半年。
殿からは『構わん、好きにせよ』とお言葉を賜った事だし、それまでには何としてもものにするよ、君を。
【声が枯れるまで】
ずっと昔に捨てたのに、忘れられない名前がある。
かつての私を示す記号。
忘れたことさえ忘れ去った頃、亡霊のように帰ってくる。
彼女にそれが知れた時、ああ、またか、と目の前が暗くなった。
『…、それは忘れてくれないか。』
なぜ、と黒い目が問い掛ける。良い名前ですね、と微笑んでいた女(ひと)はその笑みを翳らせてしまった。でも話せない。君はその頃、私がどんなだったか知らないんだ。それで良いんだ。暫くの沈黙が落ち、彼女は小さな声を返した。
ごめんなさい、と。
何も悪くないのに、かつての私のせいで、それを明かせないせいで、君に寒々しい思いをさせている。返せる言葉が思いつかない。
彼女が一歩、私に近づいた。更に一歩。
両の手が片方ずつ彼女に取られる。呼吸も触れ合いそうな近さ。いつもより幾分冷たい手に強く掴まれ、互いの緊張が伝わる。
もう二度と口にはしない、と、小さな唇がささめいた。
…けれど、今日まで貴方を生かしたのなら、私はその名も大切に思います。かつての貴方を。
止まっていた呼吸がはっ、と流れた。
彼女の肩がびくりと震える。それでも視線は合ったままで、両手は強く繋がれていた。ゆるゆると指に力を入れ、その冷たい手を握り返す。
『いつか、そんな風に思えるだろうか。』
綺麗な顔がほんの少し赤みを戻して、未来の貴方に聞いてあげますよ、と言った。
その頃には貴方が気絶してしまうような女の秘密も教えてあげます、なんて明るく言いながら、色っぽく科を作るものだから笑ってしまった。
【忘れたくても忘れられない】
昼下がり。廊下であいつと出会した。
小さな風呂敷包みを手にしている。遣いでもあるのかと聞くと外の空気を吸いに、と言う。想定通り。
『時間が空いているから付き合おう。』
何でもない風を装ったが、目の前のやつは妙な顔をした。理由が怪しかった自覚はある。しかし誰かが必ず付き添う理由など、はっきり言って隠す必要は無い、と開き直る。
出会した、というのは嘘だ。昼前に上司から声が掛かり、半日の間、私が目付を任されていた。
『目を離さないで、でも邪魔もしないで。』
何をと問うと、すぐにわかるよと言われてしまい、それ以上聞く事はできなかった。だが、否やはない。
困ったように首を傾げながら、やつは退屈するが良いか、と言った。構わないと答える。
城を出て三刻程歩き、木々の間のぽっかりとした野原へ辿り着く。春には一面小花が咲いて見栄えもするが、今は枯れかけてくすんだ草が秋風に揺れているだけだ。
上司がこいつを一人にさせないのは、夏の初め頃から頻繁に体調を崩し、食欲が失せぐっと痩せてしまっているからだ。なのに、どうして体を引きずってでもこの寂しい場所へ来たがったのかわからない。
手荷物が開かれる。出てきたのは幾つかの、とても小さな握り飯。摘み上げ、のろのろと口へ運ぶ。その一口は鳥が啄むような量だった。溜息をつきながら長い時間を掛けて、やつはそれを食べ切った。日が傾いていた。
『風にあたると吐き気が和らぐらしい。』
あの時間が何なのか、何を報告したものかと思いながら上司を訪れると、そんな事を告げられた。食べようとしているのなら大丈夫、とも。上司の目は、先程別れたやつのものとよく似ていた。つい先程、ありがとう、と言って笑った瞳には、秋の午後の光が揺らめいていた。
【やわらかな光】