女の柔い手が俺の袖に触れている。いつもなら掛けられているはずの、お気をつけて、が聞こえない。
昨日の夜、青い顔をしたこの女を見た。
同僚と今日の段取りをつけていて、部屋の戸のすぐ外に立っている者の気配に気付かなかった。
慣れきっていた。この女に。
息を呑む微かな音に勢い良く戸を開けると、驚いた女は持っていた盆を落として尻餅をついた。湯呑みが二つ、廊下に転がる。
『こりゃ、すまんなあ。』
火傷はしとらんか?と、背中から同僚の声がする。女はいつになくか細い声で、はい、とだけ答えると湯呑みを拾って去っていった。
『手くらい握ってやれば良いものを。』
同僚のニヤついた顔に歯噛みする。この野郎、気付いていやがったな。俺が帰らなかった場合のなしをつけている時、よりによってあいつが聞いていたのを。
話していたのは念のため。死ぬつもりなど更々無い。
とは言え危険な仕事には違いなく、あいつに掛ける言葉は見つからなかった。その後、あいつはもう来なかった。
それから夜が明けてまた暮れるまで、いつもなら聞こえてくる女の明るい声は無かった。そしていざ例の仕事に出掛けようという時になって、女は俺の背に縋っている。
大丈夫。心配無用。俺が死ぬと思うか?…どれも違う。
俺が言いたいのは、お前が聞きたいのは?
俺の身を案じて泣く女に何て言ってやりゃあ良い?
手くらい握ってやれば、という声が蘇る。うるせえ、誰のせいだと思いながら、振り向いて女の肩を引き寄せた。
『うまい煮付けが食いたい。』
思い付く限り一番ましな……柄にもないが、願掛けだ。
いつものように飯を作れ。
いつものように、俺が帰るように。
【行かないで】
10/24/2023, 3:39:18 PM