髪を乱しながら怒りに震える彼女は、激しい動悸が起きるほどに苛烈で綺麗だった。
心臓が鷲掴みされて、きっと瞼の裏にも焼き付いている。誰もが口を噤み、異様な光景に戦慄しているなかで彼女の喉の奥が引き攣る悲鳴は雲間から差し込む光のように聞こえて高揚に視界が潤む。
ああ、きっと私は彼女のために生きていたのかもしれない。もっと、もっと早くに会いたかった。傍で息をしている彼女のために。いま以上の苦しみを彼女に与えるために。
/ 終点
瞬く間に染まった夕暮れは遮るもののない澄み切った青い光が広がっていて、彼女と見たネモフィラ畑のような懐かしさと、涼しさを含んでいた。
一瞬のうちに色を変えてしまう空は心が空っぽになってしまうくらい綺麗だ。ようやく彼女はこちらを見つめてくる。遅すぎるだろうとか、文句をつけてやった。
彼女はぽろぽろと涙をこぼしていて、小さく独り言のように呟く。
「ほら、泣くなって」
人差し指で彼女の目尻に触れようとしてその指先は彼女の涙を透かした。そのまま色のない指先は簡単にすり抜けて体温も感じることはない。生ぬるい微風と騒がしい虫の音。汗が目に入って染みる痛みと少し酸っぱい夏の香り。
どれもが鮮明に実感できて、感じ取ることができるのに彼女に触れることだけは出来なかった。
瞳を真っ赤にさせながら、堰を切ったように彼女は焼けるコンクリートへと崩れ落ちる。足元は雨だれのような濡れた跡と、暮れの空に消えてしまいそうなひとりのぶんの影だけがのこった。
まんまるとしたロリポップのなかで息を呑むほどの美しい星屑が流れている。夜の闇のなかで光の尾は垂れ下がるような曲線を描きながら薄れゆく銀糸となって散っていく。
/目が覚める前に
彼女はどんな夢を見ているのだろうか。麗らかな春の香りに包まれた、穏やかで、幸せそうな寝顔。シーツに広がる少女の髪をそっと掬った。少し冷たくてしばらく弄ぶと、指先の熱が伝わったのか生ぬるい体温が残る。背もたれへと傾けるとぎしりと朽ちかけの椅子が鳴いた。まるで悲鳴のようだ。そう薄く笑いながらマグカップへと手を伸ばした。
コーヒーの底が見えない黒は一口飲むとやはり苦くて酸っぱい。こんなコーヒにはたっぷりとミルクを淹れたくなる。ぼんやりとした白が広がっていくところが好きだ。砂糖も足すほどに至高の味へと近づいていく。それでもまた彼女の影を探すように口の中へと苦みを含んだ。
ごうごうと、唸る突風とともに窓枠が軋む音が部屋に響く。霜のはった窓の向こう側には、心の凍えていきそうな深淵の夜だけが広がっているのだろう。寒く静かで、生き物の命を遠ざける冬の夜がこの世界を永遠に閉じ込めている。青空はもう何年と姿を見せていない。ふと壁に傾いて飾られた絵画を見つめる。水をまんべんなく塗ったような淡い空の色。横たわる彼女の透明な瞳のようだった。奇病にかかった彼女は命の使い道を見つけたようにいつだって光を通さない雲を見上げていた。正直、辺り一面を色濃く覆いながら時間の境をなくすそれの何が良いのか分からなかった。けれど取り憑かれたように筆を走らせると、自慢気に見せつけてこの絵がどれだけ素晴らしいのか永遠に語ってくるのだ。何が楽しいのか理解しようとも思わなかったのに、彼女の嬉しそうな微笑みには余りにも呆気なく惹かれてしまった。幸せがここにある。彼女さえいてくれるならきっとこれからも。
仄かな光を纏った雪が降ってくる。鉛色の空のなかでぼんやりと明暗をつくる柔らかな輝き。それまでの雪とは明らかに違う嫌な予感に肌がざわつく。まるで天からの祝福ようだと、外へと集まる民衆の姿。それが地面へとゆっくりと一人、また一人と傾いていくと、視線の端に崩れ落ちる影が見えた。考えるより先に体が動く。周囲の光景がスローモーションのように流れていくなかで何も分からないまま受け止めると、重さのままに地面へとしゃがみ込む。彼女の薄く開かれた瞼の奥は人形のように冷たくて、瞳孔が開ききっている。遠くから聞こえる叫び声。呼吸は浅くなって、言葉を紡ごうとしてようやく気づく。彼女の唇からは白い息が溢れることがなかった。
パチパチと音がして顔を上げた。切れかけの照明が花火のように明滅する。天井に光の花が咲いたような照明器具は彼女と一緒に選んだ。眠りにつきそうな優しい時間をもっと過ごすために。
「……っ、また、笑ってくれよ、なぁ」
衝動のまま、彼女へと縋りつく。背中に回した手のひらに突き出した骨の硬さが伝わる。冷たくて、細い身体を、もう力強く抱きしめることはできない。この命に終わりが訪れるのはいつだろう。ふと見上げた先にあるサイドボードには群青の空が飾られている。ずっと変わらない彼女の瞳に映りつづけた世界。
機嫌良さげに歌う表情、踊るように描き続ける指先。困らせたくて触れ合った熱。
生きることを諦めてしまいたいのに、彼女が言いそうなことなんて分かりきってしまう。
まだ諦めないから。最期まで隣りにいるから、だからまた一番近くで笑ってくれ。
/ 明日、もし晴れたら
もっちりと揚がったココア色のあげぱんは、多幸感に包まれる午後の香りにぴったりだ。大きく口を開けて齧りつくとコクのある甘さがじんわりと頬を緩ませてくれる。幸せで、眩しくて、ほんのりと切ない。何度も思い出してしまう子どもの頃の暖かな思い出。
ぼんやりとした夕方の空気のなかで、また一頁めくった。
アルバムのなかの私は口の周りを真っ黒にしていて、まるで泥棒のようだ。それなのに、瞳はきらきらとさせながら丸っこい手で食べている。むず痒さと今と変わらない自分らしさが残っていて、写真と同じように私は笑ってしまった。
/ 澄んだ瞳