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 彼女はどんな夢を見ているのだろうか。麗らかな春の香りに包まれた、穏やかで、幸せそうな寝顔。シーツに広がる少女の髪をそっと掬った。少し冷たくてしばらく弄ぶと、指先の熱が伝わったのか生ぬるい体温が残る。背もたれへと傾けるとぎしりと朽ちかけの椅子が鳴いた。まるで悲鳴のようだ。そう薄く笑いながらマグカップへと手を伸ばした。
 コーヒーの底が見えない黒は一口飲むとやはり苦くて酸っぱい。こんなコーヒにはたっぷりとミルクを淹れたくなる。ぼんやりとした白が広がっていくところが好きだ。砂糖も足すほどに至高の味へと近づいていく。それでもまた彼女の影を探すように口の中へと苦みを含んだ。
 ごうごうと、唸る突風とともに窓枠が軋む音が部屋に響く。霜のはった窓の向こう側には、心の凍えていきそうな深淵の夜だけが広がっているのだろう。寒く静かで、生き物の命を遠ざける冬の夜がこの世界を永遠に閉じ込めている。青空はもう何年と姿を見せていない。ふと壁に傾いて飾られた絵画を見つめる。水をまんべんなく塗ったような淡い空の色。横たわる彼女の透明な瞳のようだった。奇病にかかった彼女は命の使い道を見つけたようにいつだって光を通さない雲を見上げていた。正直、辺り一面を色濃く覆いながら時間の境をなくすそれの何が良いのか分からなかった。けれど取り憑かれたように筆を走らせると、自慢気に見せつけてこの絵がどれだけ素晴らしいのか永遠に語ってくるのだ。何が楽しいのか理解しようとも思わなかったのに、彼女の嬉しそうな微笑みには余りにも呆気なく惹かれてしまった。幸せがここにある。彼女さえいてくれるならきっとこれからも。

 仄かな光を纏った雪が降ってくる。鉛色の空のなかでぼんやりと明暗をつくる柔らかな輝き。それまでの雪とは明らかに違う嫌な予感に肌がざわつく。まるで天からの祝福ようだと、外へと集まる民衆の姿。それが地面へとゆっくりと一人、また一人と傾いていくと、視線の端に崩れ落ちる影が見えた。考えるより先に体が動く。周囲の光景がスローモーションのように流れていくなかで何も分からないまま受け止めると、重さのままに地面へとしゃがみ込む。彼女の薄く開かれた瞼の奥は人形のように冷たくて、瞳孔が開ききっている。遠くから聞こえる叫び声。呼吸は浅くなって、言葉を紡ごうとしてようやく気づく。彼女の唇からは白い息が溢れることがなかった。

 パチパチと音がして顔を上げた。切れかけの照明が花火のように明滅する。天井に光の花が咲いたような照明器具は彼女と一緒に選んだ。眠りにつきそうな優しい時間をもっと過ごすために。
「……っ、また、笑ってくれよ、なぁ」
 衝動のまま、彼女へと縋りつく。背中に回した手のひらに突き出した骨の硬さが伝わる。冷たくて、細い身体を、もう力強く抱きしめることはできない。この命に終わりが訪れるのはいつだろう。ふと見上げた先にあるサイドボードには群青の空が飾られている。ずっと変わらない彼女の瞳に映りつづけた世界。
 機嫌良さげに歌う表情、踊るように描き続ける指先。困らせたくて触れ合った熱。
生きることを諦めてしまいたいのに、彼女が言いそうなことなんて分かりきってしまう。
まだ諦めないから。最期まで隣りにいるから、だからまた一番近くで笑ってくれ。


/ 明日、もし晴れたら

8/1/2023, 11:31:47 AM