遠くの街へ
電車の窓から見える景色というのはひどくつまらないものだ。ビルも工場も田んぼも山も住宅も、全部どこか青白い表情をしている。歩く人間からも虫けらほどしか意思を感じない。照明に飾り立てられた看板も、作り笑いなだけで血が通っていない。しかし今は、そのよそよそしさが街から遠く離れたことを実感させ、呼吸を楽にするのだった。
私は故郷を捨ててきた。捨てる理由などいくらでもあった。人は生きているだけで毒を垂れ流すものだ。長く住めば住むほど澱が重なり濁っていくのは必然だった。私はこれ以上は息ができないと思った。だから遠くへ行くことにした。
立つ鳥跡を濁さず、に照らし合わせれば私は無責任な鳥だった。しかし濁さずに去れる鳥がいるなどということは私には信じられない。そんな鳥はもはや質量が存在しないに違いない。そんな鳥には、存在価値もまた無いに違いない。
知らない駅の改札を抜けると、知らない人々がビルの根元を往来していた。故郷より随分と人が多かった。多くの人に紛れて歩くと、私は自分の存在が限りなく透明になっていくような気がした。他人との境界が曖昧に溶けていって、私の存在がなかったことになるような気がした。
私は古ぼけた小さな不動産屋に入って、半年前に女が首を吊ったとかいう安いアパートを借りた。パスタや缶詰など保存の利く食糧を買い込んだ。白い食器ばかり買った。ゴミ箱とゴミ袋を買った。私は最低限の動きに努めたが、部屋にものが増えていくにつれて、空気が濁っていくようだった。この街から出ていくのも時間の問題だと思った。そうして各地を転々としていって、私はいつかどこにも行けなくなるだろう。この国は狭いから。その時は海外へ飛び出すしかない。私は本屋で英会話の本を買った。帰りの電車に揺られながら、私は本のフレーズを口の中で唱える。What’s the purpose of your visit?私はなんと答えるべきなのか皆目見当がつかなかった。
2024/02/28
雨に佇む
「私、雨嫌いなんですよ」
昇降口のガラス戸を見つめたまま、彼女は大きめの声で言った。ガラスの向こう、校門までの道は雨で毛羽立っていて、雨音は辺りの物音をかき消しモノトーンに曇らせていた。こちらも声をやや張り上げる。
「そういう人、珍しくないと思うよ。胸を張っていい」
「なぜ嫌いだと思います?」
こちらの返答を意に介さず、問いを重ねる。
「濡れるからとかじゃないのか」
「傘を持ち歩くのが嫌だからですよ」
「傘忘れたのか」
「忘れたのではないです。40パーに賭けたんです」
「将来ギャンブルとかしないほうがいいよ」
彼女の反論を予期するが、何も言わない。それからふたりとも微動だにせず、雨に視線を流し続けた。彼女は痺れを切らしたように振り返った。
「傘、持ってます?」
「持ってると思う?」
「からかってるんでしょう」
「見てみる?」
リュックサックを下ろし、口を大きく開いて見せてやると、彼女は目を大きく開いて、肩を大袈裟に下げた。溜息は雨音に溶けて消える。
「困りましたね」
再び外を物憂げに見やる。雨は一向に止む気配はない。
「今日はありがとうございました」
しばしの沈黙ののち、彼女は出し抜けにそう言った。「受験期なのに、夏休みの最中に、わざわざ」
「いやいや、息抜きになったし良かったよ」しかし、と彼女が美術室で描いていた絵を思い浮かべる。「モデルとしては役者不足だったみたいだね。結局全く違う絵を描いてたし」
「いえあれでいいんです」被せるように大声で言って、それから小声で続ける。「概念として必要だったんです」
概念、とわざとらしく呟き、分からない風に首を傾げる。
「ところで先輩は、夏の予定はどんな感じですか?まだあと半分くらいありますけど」
「んー、だいたい勉強漬けかな」
「私は引き続き、大会に出品する絵を描くつもりです」
お互い頑張りましょう、と拳を突き上げるので、拳をつくってぶつける。
雨足はいっそう強くなっていた。断続的に風が吹き、ガラス戸ががたがたと揺れる。
「そういえばなんですけど」彼女は素っ頓狂な調子で言った。「3日後に花火大会がありますよね」
「あるね」
「あの、ですね。その」
言い淀み、目を泳がせる。胸の前で右手を握りしめ、顔を上げる。
「もし」
「そういえばその日、世話になっていた近所の姉さんが帰ってくるから、迎えついでに花火を見に行く予定なんだよ」
彼女は目をしばたたいた。またしばたたいて、笑った。
「私も友だちと行く約束をしていたんですよ。会場で会うかもしれないですね」
彼女は外へ向き直った。相変わらずの大雨だった。
「見たい配信があったので、そろそろ私帰ります」
ガラス戸に駆け寄り、手をかけて振り返る。
「今日は本当にありがとうございました」
ガラス戸を開け放つと、雨音が濁流となって流れ込んできた。ワンテンポ遅れて駆け寄って、戸の外に顔を出すと、彼女はでたらめに腕を振って、みるみる小さくなっていった。
追いかけようとして、立ち止まった。美術室で見た赤と黒の抽象画が脳裏に浮かんだ。
濡れても別にかまわなかった。しかし雨垂れの外に踏み出せない自分がいた。
2023/08/28
ここではないどこか
旅に出たい。ここではないどこかへ
あるはずなんだ、ここではないどこかに
そうして消え去りたい。ここではないどこかで
ここは私の凡てで、ここにはなにもない
ここには何も残したくない
2023/06/28
日常
日常系に憧れるのは、なぜでしょうか。
日常系が楽しいのは非日常だからです。
他人の日常は自分の非日常というわけです。
人生の主役を降りると日常は楽しくなります。
物語の登場人物でいては、日常から逃れられません。
私はもう随分と前に、日常を手放しました。
物語を書くことを人生の最大目標に据えると、人生の主役を辞めることができます。
仮にあなたが今、人生を執筆に捧げると決意したとしましょう。
物語のネタにするため、あなたは世界をつぶさに観察するでしょう。駅の雑踏、食堂の会話、風に揺れる街路樹の葉のひらめき。それらのひとつひとつに対する、あなたの感情の機微。あらゆる記述可能な物事は、物語の肥やしになりえます。物語の肥やしにするために、あなたは人生のすべてに記述の機会をうかがうのです。記述の機会を作るために、あなたはあなたを操縦するのです。
一挙手一投足を、物語のために制御する。
これはまさに、元あった自分の人生の上に、新たな主人公を立て、ラジコン操作するようなもの。つまり、人生の主役を降り、人生を物語化する行為にほかなりません。
かくして私の日常は、日常系化したわけです。
アイデアノートが埋まるたびに、私はホクホクします。
日記帳は、加工した日常で毎日賑やかです。
不幸はあっても無駄はありません。成功も失敗も、すべて愛おしい物語のサンプルです。
眠る前に、私はふと、心細くなります。
私は果たして、生きていると言えるのでしょうか。私は本来、どういう人間だったのでしょうか。私は、なんのために物語を書くのでしょうか。
2023/06/23
一年後
来年のことを私がいうと、みんな変な顔をするようになった。お父さんもお母さんも、お姉ちゃんも、じいじもばあばも。ピアノのコンクールで失敗して泣いて、来年こそはと話したときも、ばあばのお誕生日に肩たたき券を、期限は来年までねと渡したときも、みんなきまって、お腹に痛みがあるように苦しい顔をして、うそみたいな優しい声を出した。みんな何かを隠している。顔をしかめるばかりで、誰も教えてくれない。
それでもひとりだけ、笑ってくれる人がいた。
神社の御堂の縁側に行くと、いつもその人がいた。家にいては、ずっと気味の悪い目で見つめられるから、私は近所の神社で時間を潰すようになっていた。
遠くから目が合うと、その人はにっこり笑って膝をぽんと叩く。私はそこへ頭を横たえる。
雲がゆったりと流れていく。
「あなたがお母さんならいいのに」
そういうと、その人は私の髪をすきながら、優しくつぶやく。
「はやくわたしのものになるといいですね」
雲間から、太陽がゆっくりと顔を出して、私は目を瞑った。
2023/05/09