天津

Open App

雨に佇む

「私、雨嫌いなんですよ」
昇降口のガラス戸を見つめたまま、彼女は大きめの声で言った。ガラスの向こう、校門までの道は雨で毛羽立っていて、雨音は辺りの物音をかき消しモノトーンに曇らせていた。こちらも声をやや張り上げる。
「そういう人、珍しくないと思うよ。胸を張っていい」
「なぜ嫌いだと思います?」
こちらの返答を意に介さず、問いを重ねる。
「濡れるからとかじゃないのか」
「傘を持ち歩くのが嫌だからですよ」
「傘忘れたのか」
「忘れたのではないです。40パーに賭けたんです」
「将来ギャンブルとかしないほうがいいよ」
彼女の反論を予期するが、何も言わない。それからふたりとも微動だにせず、雨に視線を流し続けた。彼女は痺れを切らしたように振り返った。
「傘、持ってます?」
「持ってると思う?」
「からかってるんでしょう」
「見てみる?」
リュックサックを下ろし、口を大きく開いて見せてやると、彼女は目を大きく開いて、肩を大袈裟に下げた。溜息は雨音に溶けて消える。
「困りましたね」
再び外を物憂げに見やる。雨は一向に止む気配はない。

「今日はありがとうございました」
しばしの沈黙ののち、彼女は出し抜けにそう言った。「受験期なのに、夏休みの最中に、わざわざ」
「いやいや、息抜きになったし良かったよ」しかし、と彼女が美術室で描いていた絵を思い浮かべる。「モデルとしては役者不足だったみたいだね。結局全く違う絵を描いてたし」
「いえあれでいいんです」被せるように大声で言って、それから小声で続ける。「概念として必要だったんです」
概念、とわざとらしく呟き、分からない風に首を傾げる。
「ところで先輩は、夏の予定はどんな感じですか?まだあと半分くらいありますけど」
「んー、だいたい勉強漬けかな」
「私は引き続き、大会に出品する絵を描くつもりです」
お互い頑張りましょう、と拳を突き上げるので、拳をつくってぶつける。
雨足はいっそう強くなっていた。断続的に風が吹き、ガラス戸ががたがたと揺れる。
「そういえばなんですけど」彼女は素っ頓狂な調子で言った。「3日後に花火大会がありますよね」
「あるね」
「あの、ですね。その」
言い淀み、目を泳がせる。胸の前で右手を握りしめ、顔を上げる。
「もし」
「そういえばその日、世話になっていた近所の姉さんが帰ってくるから、迎えついでに花火を見に行く予定なんだよ」
彼女は目をしばたたいた。またしばたたいて、笑った。
「私も友だちと行く約束をしていたんですよ。会場で会うかもしれないですね」
彼女は外へ向き直った。相変わらずの大雨だった。
「見たい配信があったので、そろそろ私帰ります」
ガラス戸に駆け寄り、手をかけて振り返る。
「今日は本当にありがとうございました」
ガラス戸を開け放つと、雨音が濁流となって流れ込んできた。ワンテンポ遅れて駆け寄って、戸の外に顔を出すと、彼女はでたらめに腕を振って、みるみる小さくなっていった。
追いかけようとして、立ち止まった。美術室で見た赤と黒の抽象画が脳裏に浮かんだ。
濡れても別にかまわなかった。しかし雨垂れの外に踏み出せない自分がいた。

2023/08/28

8/28/2023, 10:13:18 AM