勿忘草(わすれなぐさ)
「私を忘れないで」なんて身勝手が過ぎるのではないか。
消えたのはあなたの都合だろうに。忘れてほしくないのなら、せめて「決してあなたを忘れない」とあなたが宣言すべきではなかったのか。
あなたと入れ違いにベランダの一隅を占有し始めた青い花はなんだか地味で、しかし灰色のベランダには無視できない彩りで、厚かましさはあなたのようだ。
名前も知らずにベランダに放置していたが、あなたがいなくなって少し後に家に呼んだ友人が名前を教えてくれた。あやうくスベったまま枯れていくところだった。
訊いてもいないのにその友人は、丁寧に由来まで教えてくれた。恋人のために花を摘もうとして水没した騎士の伝説を聞いた。なんて不器用な花言葉なんだろう。
あなたに似ている。そういう意味では、あなたの花選びのセンスは最悪だ。
きっと見るたびに思い出すから、私はあなたを忘れない。
2023/02/03
こんな夢を見た
幼い頃から夢というものが分からなかった。
こんな夢を見た、と友人が嬉々として語る夢の内容は、多くが奇妙で脈絡がなく、因果や物理法則が弾け飛んでいた。時として走れなかったり、声が出なかったりするように、身体の操作がままならないことも多々あるようだった。
そして何より、短編集のように毎度違った夢を見るという。
私は眠ると、少年の身でベッドから起きる。ときに二度寝しつつ部屋を出て、階下へ下りると母親が朝食の用意をしてくれる。朝食を食べて支度をして登校すると、7時間の授業があって、昼食を食べる友人がいて、放課後の部活動がある。暗い下校路を仲間と談笑して帰って、くたくたの身体で風呂や夕食や課題を済ませて、ベッドでぐずぐずとスマホをいじった挙げ句に眠る。そして私は目覚める。
「それってどっちが夢なんだろうね」
私の席の横で、椅子の背もたれを抱えるようにして座る友人が言った。私は黒板の方を向いたまま毅然と答えた。
「それは、私の意識だけが連続しているんだから、私が現実だよ」
「あっそう」
あまりの素っ気なさに拍子抜けした。
「訊いておいてその反応なの」
「あっそう」
「ふざけてるの」
「あっそう」
「…え?」
「あっそう」
信じられない思いで友人の方へ向き直ったそのとき、友人の顔がぼやけて見えた。というより、見えなかった。
あれ、どんな顔立ちだったっけ。
浮かぶはずのない疑問がよぎる。しかしわだかまりはそれだけではない気がする。今は何時だろう。いつ授業が終わったんだっけ。外が赤いから放課後だろう。夕日はいつから沈まないのだっけ。ここは教室であっているのか。私の席の他に、もう一つしか椅子のない部屋。私はどうやってここへ来た。今日は何をしていた。彼女は何者だ。私は何者だ…?
「おはようお嬢さんよく眠れたかい」
勢いよく上体を起こしてベッド横の姿見を見ると、目を見開いた少年の顔、というか自分の顔があった。
「私男になってるー、と言わんかね」
友人の声の方を振り向く。
「言わない」
「それは良かった」
実験は成功だ、と頷いた。
右耳から円筒形のデバイスを外して、しみじみと眺める。
現実を夢見心地にする装置だ、と告知されていたが、まさか夢そのものに塗り替えられるとは思わなかった。友人が言うには、上位の意識を作り出し切れ目なく重ねることによって、現実のほうを夢と勘違いさせるという仕組みらしい。まったく恐ろしいものだ。果たして、一度作られた上位の意識はどこへ消えたのだろうか。仮にもわれ思う主体として存在していたのだ。それは魂とも呼べる代物ではないのか。
「ねえ、これって副作用とかないよね」
「さあ」
「さあってなんだよ適当だな」
「さあ」
さすがにちょっと不謹慎だと思った。
「その冗談怖いからやめてくれよ」
「さあ」
「…ねえ」
「さあ」
舐め腐った態度に苛立って肩を掴もうとした。そのとき、ぐわりと視界が滲んで揺れた。
2023/01/24
タイムマシーン
「あらあらこんな傷を作って、痕が残ったらどうするのよ」
「心配無用よお母さん。その時はタイムマシンに乗ればいいんだから」
22世紀初頭、科学の粋を結集し、人間の全身を原子レベルで過去の状態に巻き戻す装置が開発された。外見から内臓、それに記憶まで巻き戻してしまうさまから、小難しい装置名の代わりにタイムマシンと呼ばれていた。
「全くいい時代よね。私の指も元通りにできたら良かったのに」
「なんで失くしたんだっけ」
「工場のアルバイトでコンベアに巻き込まれたのよ。学生時代の話」
「タイムマシンは1年までだから無理ね」
様々な理由から、タイムマシンで1年以上遡ることは禁止されていた。タイムマシン側にも、それを防止する機構が組み込まれていた。
タイムマシンを使用すると、巻き戻した時点のスタンプが、暗号化されて全身に刻印される。たとえば12/31に364日分巻き戻せば、肉体の時間は1/1として記録される。しかし、12/31から遡行できるのは1年前の12/31までなので、もう一度タイムマシンを使用しても今度は1日しか戻せない。どうやっても1年以上前には戻れないのだ。
『お母さん、お母さん』
夕食の食器洗いの手を止め電話に出ると、せかせかとした娘の声が聞こえてきた。
「どうしたのよ、何かあったの」
娘は今日、彼氏とデートすると言っていたはずだ。
『彼が、彼が、死んでしまったのよ』
「え、あなた今どこにいるのよ」
『彼の家よ』
「救急車は呼んだ?すぐに呼びなさい」
『無理よ』
「落ち着きなさい。深呼吸して、そうしたら119にかけるの」
『私が殺したのよ』
息を呑んだ。しかしすぐに平静を取り戻した。
「わかったわ。そこで待ってなさい」
母親が家に着き、娘について部屋に入ると、滅多刺しにされて臭気を放つ男の死体が横たわっていた。
娘曰く、デートの待ち合わせ場所に彼は来ず、電話にも出ないので心配になって家に行くと、知らない帰ってくれと門前払いを食らったという。ショックで玄関先に泣き崩れたところ、迷惑そうにしつつ家に上げてくれた彼だったが、自分のことを忘れてしまったかのように他人行儀に話すので、堪えられなくて殺してしまったらしい。今日は娘の誕生日だった。
母親は娘をなだめ、てきぱきと男の死体をビニールシートで梱包する。
死んでいようがバラバラだろうが、肉体は過去と繋がっている。肉体に刻まれた過去の痕跡を遡れば、生前まで構築し直すのは造作もないはずだ。生死は人が決めた線引きであり、実態は原子の集合体でしかないのだから。
死体と娘を車に乗せ、家に戻る。
男の死体をタイムマシンのカプセルに寝かせ、遡行時間を設定する。7時間で十分だろう。実行ボタンを押し、いくつかの警告に同意すると、作動音が鳴り始める。電気自動車の走行音程度の静かな音だ。無事動いていることに安心して、母親は寝ることにした。娘はそばで見守るらしい。
母親が布団でスマホを見ていると、娘が血相を変えて寝室に入ってきた。タイムマシンがエラーを起こしたらしい。急いで駆けつけディスプレイに表示されたエラーコードを見て、母親はハッとした。
見覚えのあるコードだった。肉体を1年巻き戻して、更に1年巻き戻そうとしたときに見たものと同じコード。
壁に掛かった時計はちょうど12時を回っていた。母親はすべてを悟った。この男は昨日1年分遡ったのだ。そして、日付が変わって遡行期限が1日分更新されることで、当初戻ろうとしていた時点が1年と1日前として扱われることになってしまったわけだ。
どうすることもできず、点滅する表示灯をただ見つめた。泣きわめく娘の声が頭蓋骨に響いた。
2023/01/23
閉ざされた日記
押し入れから段ボールを引き出す。なんの印も付けていないので、いつのものが入っているのか分からない。しかし、何重にも貼られたガムテープを剥がして中を見れば一目瞭然だった。
しわくしゃのプリントや表紙の擦れたノート、なぜ残そうと思ったのか不明なあれやこれやが、懐かしさというより子供のあどけなさに対する慈しみに似た感情を起こさせる。まるで他人のようだ。転がっていたガラクタや書き込まれた文章を見ると、ところどころ古い記憶と結びつきはするのだが、セピアのベールというかアクリルの壁が彼我の間にあって、不思議と手触りがないのだった。
そのまま乱雑な箱の中を物色していると、文庫本くらいの大きさの手帳が見つかった。日記帳だ。そういえば昔、まめに毎日記録していたのだった。
どうして書くのをやめたんだったか、と思い出そうとしつつ手帳を開こうとする。が、表紙だけめくれて以降がめくれない。本文部分は全ページくっついていて、板のようになっている。よくよく見ると、部屋の蛍光灯を反射しててらてらと光っており、どうやらのりで固められているようだった。
中身を見るにはどうしたものかと考えかけて、ぞくりとした。かびたミカンに触れてしまったような、思いがけない嫌な感触が背筋を走った。なぜ、と思う。何も心当たりがない。しかし、手帳をこんな状態にしておいて何の心当たりもないことが、最大の恐怖だった。
我に返って、段ボールの中身に視線を落とす。つい先程までごみくずに見えていたあれこれが全て、生臭いなにかを包み隠しているように思えてくる。
わけがわからなかった。頭の中が真っ白だった。一刻も早く封じ込めなければならないという焦燥に駆られるままに段ボールに詰め直し、ガムテープで徹底的に封をした。その段ボールを押し入れに仕舞い直しながら、その光景の既視感にぞっとした。
前に取り出したのはいつだったか。
その段ボールは、知らぬ間に親が捨てるかなにかしたようで、もう行方はわからない。
2023/01/19
木枯らし
木枯らしが木々を裸にしていく
木枯らしが落ち葉をさらっていく
色を奪っていく
あの人もこの季節に消えた
風のように予告なく
空虚な気分だけ残して
木枯らしが熱を奪っていく
木枯らしが思考を凍らせる
木枯らしがすべてを真っ白に染めていく
冬が来る
2023/01/18