KILO

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2/25/2024, 4:25:19 PM

「龍は、雨を降らせるからね」


シマは行きつけの中華料理屋のカカウンターに座り、海老のチリソース煮と白飯を掻き込みながら右上に設置されている小さなテレビ画面に目をやり、その台詞を思い出していた。
テレビ画面には所謂お天気キャスターが明日の天気を告げている。ここのところもう二週間以上も連続して雨が続いており辟易していた。

シマは結んでいた自身の髪を左手で解き、ふぅと一息ついた。明るいオレンジ色の髪の毛がふわりと降りる。襟足はちょうど首を隠すくらいの長さがあり、サイドは耳にかかっている。左の耳たぶには銀色の輪のピアスがひとつついていた。前髪は目に少しかかるかかからないかの長さで、そこからブラウン色の瞳が覗く。

「ごちそーさんでした」

手を合わせてカウンター奥にいる初老の男に声をかけた。

「シマちゃんってほっんとイケメンだよね」

初老の男の隣で皿を洗っていた30代半ばくらいの女が顔をこちらに向け感心するようにそう告げた。

「そんなこと言うの、ミヅハさんだけっすよ」

「シマ、いつもありがとな。ところで今、忙しいんだってな」

初老の男が作業を止めてシマが座るカウンターに近づく。

「はい、まぁでも...あと少しで終わりそうです」

シマは建築科に通う大学生で今は卒業制作で忙しなくしている。現に今日も作業場からこの中華料理屋に向かった為、作業服タイプの所謂ツナギ服を着ていた。薄いグレーの作業服には転々と白いインクがついている。

「ご苦労なこったなぁ。身体に気をつけてな」

「ありがとうございます。今日も美味かったっす」



ガラッと中華料理屋の戸を引き外に出る。夜の闇に湿った空気が鬱陶しく、先ほどよりは雨足は弱まっているもののサァーと雨が地面や屋根に当たり雨音をたてていた。
店の傘立てから透明のビニール傘を取り出しそのまま流れるように傘を開き、シマはポケットに手をやり煙草を取り出し火をつけた。ふぅと紫煙を吐き、店の外に設置された銀色の筒状のスタンド式灰皿に灰を落としながら店先から通りをぼうっと眺めた。
雨は到底止みそうになく、先ほどのお天気キャスターが言うには今度一週間は続く見込みだそうだ。


「中国では、龍は神様みたいなもんで、龍が泣けば雨が降るんだよ」


シマは先ほど思い出した台詞の続きを思い出していた。
そう言われたのはもう何年前のことだったか。シマがまだ中学生の頃、近所に住んでいたハタチのお兄さんにそう言われたのだった。この人は一人っ子のシマをよく気にかけてくれ、本当の兄のようにシマも親しんでいた。
だがシマの家が引っ越しをしたのをきっかけに、もう会うことも連絡をとることも自然となくなっていった。

(だとしたらこの雨も、龍が泣いてるせいなのか?)

とんだ傍迷惑な話だな、とシマは思いそしてそんなことがあるわけがないと静かに紫煙を吐いた。


「ねぇ、知ってた?」

シマの右から急に声がしてシマは驚いてそちらを見る。傘に当たる雨音のせいで人が近づく気配を感じ取れなかったのだ。

「龍って実在してんだよ」

あ。
とシマの右手からぽろりとまだ火のついた煙草が下の水たまりに落ちジュッと音を立てた。

シマは隣に立つ長身のこの男のことを昔から知っていた。

何も言えないシマを他所に、雨音だけが響いていた。
雨を降らす雲が陰鬱を吹き飛ばし、闇の間に星を見たような気がした。

2/25/2024, 3:30:43 AM

(なんだっけ、あれ)

古い雑居ビルとビルの間。
人がふたり入れるほどのスペースのその路地の前でイズミは足を止めた。その路地を奥まで進んだ左側に、さほど大きくないネオンの看板が薄暗い路地をほのかに明るく照らしていた。
イズミは目を凝らし看板を見つめた。
そのネオン看板はピンクのライトで丸を描き、中に黄色で ”鱼“ の文字が描かれている。

「さかな...?じゃないか」

というかなんの店だ、とイズミは呟いて少し考え、さしていたビニール傘を畳んだ。路地に入るには少々傘は邪魔だ。
朝から降り続いていた雨は昼過ぎには小降りになり今はもうほとんど止んでいた。路地に入ると先ほどまでの大通りの車の騒音が一切消えてしまったように感じ、イズミは思わず後ろを振り返った。車こそは見えないが、遠くで横断歩道の信号機が赤から青になったことを知らせる鳥の鳴き声がしている。
意を決して看板に向き直り一歩一歩と奥へと進んでいく。

看板の前まで来たが、やはりそこがなんの店なのかはわからなかった。
古びた木の扉があり、窓はない。外から中を覗くことはできない。
怪しい気配をひしひしと感じていたが、好奇心がそれを上回る。イズミは扉のドアハンドルに手をかけた。
ドアハンドルは冷たく重い材質で、先の雨で少し濡れていた。
ハンドルを下に引いて手前に引くと、扉はぎぃと音を立てて開いた。ドアベルが付いていたのだろう、小さくチリン、と音を立てた。
まずイズミの視界に入ったのは、水槽だった。それもひとつやふたつではなく、30以上はあるだろうか。狭い部屋だと思ったが意外と広さはあり、縦長に長い部屋のようだった。そこに水槽が並び、水槽の上にまた水槽が重ねられている。そして水槽の中ひとつひとつに、それぞれ小さな熱帯魚が泳いでいた。種類も様々なのだろう、色も形も違う魚たちが泡を立てて泳いでいた。イズミは、まるで水族館だなと思ったがすぐに思い直した。
まず水族館にしては部屋が薄暗く、湿度も高めで生ぬるい空気が漂っている。水槽こそ一つ一つライトアップされているがそこまで明るくないく、外観と同じく怪しさが漂っている。

(店...なのか?)

そうなるとやはり表の看板の “鱼” の文字は魚という意味だったのかとイズミは思い、所狭しと並ぶ水槽を見渡した。
ブーンと、水槽に取り付けられたエアーポンプの機械音が響いている。泡がぷくぷくと出ては消えてを繰り返している。
そんな様子に目を奪われていると、

「ドア、閉めてくれない?」

突然男の声がしてイズミは驚く。
店に入った時には気づかなかったが、イズミの左、部屋の左奥にカウンターがあり、カウンター越しに男がこちらを見ていた。
男は髪が長く後ろで一つに結んでいるようだった。前髪は右側が長く右目を隠していたが、左の切長の目がイズミを捉えていた。黒い七分袖のカッターシャツから覗く腕からは刺青が見えた。なんだろう、金魚だろうか。赤く長い尾のようだった。

「すみません」

イズミはそう言いながら後ろ手にドアハンドルを持ち「もう出ますから」とそう言った。

「いらっしゃい。まぁそう焦らないで、見ていきなよ」

男はニコリと目を細めた。

「はぁ...」

気の抜けた返事をし、あぁ、逃げられないなとなんとなく悟ったイズミはドアを閉め、水槽に向き直る。

「あの、ここって...」

そうイズミが問うと、

「あぁ、魚、売ってるの。小さいの専門ね」

と男は言った。
やはりそうだったかとイズミは思った。それにしても怪しすぎる。お客さんなんて滅多にこないんじゃないか?と巡らしていると、

「あ、今、怪しいって思ったでしょ?」

男は目を細めクツクツと笑った。

「学生さん?制服」

男は指をさしそう言った。

「はい」イズミが返事をすると、へぇ〜いいね、羨ましい、と、男が言う。なんとなく建前を並べられた気がし、イズミは怪訝な顔を男に向けた。

イズミは部屋の中ほどまであゆみを進め、そこに泳ぐ小さな魚を見つめた。水槽にそっと手を当てると、ほのかに暖かい。

「狭くない?」

イズミは思わず魚たちに小さく呟いた。

「こいつら、ここが居心地いいんだってさ」

ふと背後から声がしてイズミは肩を震わせ驚く。
後ろを向くと男がイズミと同じ目線に腰を屈ませ、水槽をのぞいていた。住めば都って言うでしょ、と目線を魚に這わせながらそう言った。男からは、ふわりとスパイスがきいた木のような匂いがした。

「なんでわかるんですか?」

「んー、そう言ってたからね」

「魚がですか?」

「そ、魚が」

男がそう言い、あぁなんだ茶化されてるのかとイズミは不服そうにした。


「僕だったら、こんなとこ出て行きたい」


思わず口から出た言葉にしまったとイズミは思った。

「帰ります」

イズミは屈んでいた足を伸ばし、そそくさとそう言った。

「またおいでよ、イズミくん」

ドアに向かう足を止めて思わず振り向く。

「俺、タチバナ。また寄ってよ」

タチバナはそう言うと、イズミに手を振った。
イズミはドアを開け、外に出る。雨はもう止んでいた。



夜、自室にて眠りにつく前、イズミはあの魚屋のことを考えていた。
魚たちは今もあの狭い水槽で泳いでいるのだろうか。夜の闇の中、シンとしたあの生暖かい空気の店の中でキラキラと泡を反射させながら。

(そういえば、なんで名前...)

眠りに落ちる寸前、そんなことを一瞬頭をよぎったが、考える暇もなく、泡沫となって闇の中で弾けて消えた。

2/24/2024, 5:20:00 AM

濃いブラウンのバーカウンター。
片側のコーナー部分は丸くカットされており木目調のデザインが光沢を放っている。
このバーカウンターは、シラギが自宅の隅に設置したもので、せいぜい2人、もしくは3人が横並びに座るのが限度の小さめのサイズのものだった。
シラギが立つ後ろの壁には、趣味で集めた酒が綺麗に整頓されていて、遊びに来た友人に振る舞ったり、時には自分で楽しんだりもしている。


「でもさ、なんだかこう...うまく逃げ道を作られてるような気がしてさ」

シラギの正面に座りカクテルが入ったグラスを上から下へとつぅっと人差し指でなぞりながら、ふぅと一つ溜め息をついてモモセはそう言った。

「ズルいよなぁ、なんか。別れの際に、愛してるなんてさ」

俺何も言い返せなかったよ、とバーカウンターに突っ伏してモモセが呟いた。

確かに、とシラギはそんなモモセを見ながら思った。
愛しているけど一緒にはいられない、と言われ別れを告げられたらしい。そんな都合のいい文言を言う女だ。きっと他所に男がいるのだろう。そして今までもそうやって男女関係を終わらせてこれからもそうして続けていくのであろう。

「まぁ、そんな女だったってことじゃない?」

到底慰めにはならない言葉がシラギの口から紡いで出た。

「まぁ、そう思うしかないというかなんというか…」

モモセはすっかり酒が回ったのか目が虚だ。
そしてはぁ、と大きなため息をつき、愛してたのにな、とボソリと呟いた。

愛というのは不思議だ。人は愛という言葉にひどく惑わされて生きているように思う。
何が愛なのかは分からないままに、いつからかそれを知った気で生きている。そしてまた、誰かに愛を求め、そして与えようとする。
それはシラギ自身も同じで、目の前のこの男に、もう随分前から愛を奪われているのだ。


”愛している“

シラギはその言葉を、カクテルグラスを傾けてグッと飲み込んだ。

窓の外を見やれば、冬の夜の冷たさが闇に溶け込んでいる。
遠くに見えるネオンの極彩色が、ひどくうるさく感じた。

6/16/2023, 5:01:48 AM

兄の部屋には本棚があった。

香織の部屋にはない、オークでできたイギリスアンティーク調の本棚だ。背丈は100cm程で、均等に三段に分かれている。
棚の一番上には草花のような模様が彫られていた。
濃い茶色のその本棚は、兄の部屋には似つかわしくない、重厚でそれでいて繊細な存在感を示している。



「なぜ」

と思わなかったわけではない。なぜ自分の部屋にはなく、兄の部屋にだけそれがあるのか。
ただ口にはしたことはない。
なぜならたとえ自分の部屋にあったとしても、そこに入れられるのは“本ではない何か”なのは明らかであったからだ。

兄は本が好きだった。
ジャンルは問わずに様々な本がその本棚に所狭しと収まっていた。




「香織が読みたいものがあれば、いつでも好きなものを持って行っていいからね」

兄はよくそう言っていた。
そんなとき決まって香織は、三段ある一番上の一番右側にある本を手に取るのだった。
その本は作者が書いた短篇を集めた本だった。

初めて手にした時、“無造作に積まれた本の上に黄色い檸檬がポンと置かれた”その表紙に惹かれたのだ。

「ほんと好きだね、それ」


そして思いを馳せるのだ。

いつか、えたいの知れない不吉な塊が私の心を終始圧えつけているようなそんな焦燥感なんかがある時に、兄の部屋の本棚の本を無造作に積み上げて、黄色い檸檬をぽんと置いてみよう、と。そしてそれが兄の部屋にしかない、あの綺麗な本棚を巻き込んで爆発するのをこっそり見ていよう、と。


香織はそう妄想して笑みを浮かべるのだった。