KILO

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(なんだっけ、あれ)

古い雑居ビルとビルの間。
人がふたり入れるほどのスペースのその路地の前でイズミは足を止めた。その路地を奥まで進んだ左側に、さほど大きくないネオンの看板が薄暗い路地をほのかに明るく照らしていた。
イズミは目を凝らし看板を見つめた。
そのネオン看板はピンクのライトで丸を描き、中に黄色で ”鱼“ の文字が描かれている。

「さかな...?じゃないか」

というかなんの店だ、とイズミは呟いて少し考え、さしていたビニール傘を畳んだ。路地に入るには少々傘は邪魔だ。
朝から降り続いていた雨は昼過ぎには小降りになり今はもうほとんど止んでいた。路地に入ると先ほどまでの大通りの車の騒音が一切消えてしまったように感じ、イズミは思わず後ろを振り返った。車こそは見えないが、遠くで横断歩道の信号機が赤から青になったことを知らせる鳥の鳴き声がしている。
意を決して看板に向き直り一歩一歩と奥へと進んでいく。

看板の前まで来たが、やはりそこがなんの店なのかはわからなかった。
古びた木の扉があり、窓はない。外から中を覗くことはできない。
怪しい気配をひしひしと感じていたが、好奇心がそれを上回る。イズミは扉のドアハンドルに手をかけた。
ドアハンドルは冷たく重い材質で、先の雨で少し濡れていた。
ハンドルを下に引いて手前に引くと、扉はぎぃと音を立てて開いた。ドアベルが付いていたのだろう、小さくチリン、と音を立てた。
まずイズミの視界に入ったのは、水槽だった。それもひとつやふたつではなく、30以上はあるだろうか。狭い部屋だと思ったが意外と広さはあり、縦長に長い部屋のようだった。そこに水槽が並び、水槽の上にまた水槽が重ねられている。そして水槽の中ひとつひとつに、それぞれ小さな熱帯魚が泳いでいた。種類も様々なのだろう、色も形も違う魚たちが泡を立てて泳いでいた。イズミは、まるで水族館だなと思ったがすぐに思い直した。
まず水族館にしては部屋が薄暗く、湿度も高めで生ぬるい空気が漂っている。水槽こそ一つ一つライトアップされているがそこまで明るくないく、外観と同じく怪しさが漂っている。

(店...なのか?)

そうなるとやはり表の看板の “鱼” の文字は魚という意味だったのかとイズミは思い、所狭しと並ぶ水槽を見渡した。
ブーンと、水槽に取り付けられたエアーポンプの機械音が響いている。泡がぷくぷくと出ては消えてを繰り返している。
そんな様子に目を奪われていると、

「ドア、閉めてくれない?」

突然男の声がしてイズミは驚く。
店に入った時には気づかなかったが、イズミの左、部屋の左奥にカウンターがあり、カウンター越しに男がこちらを見ていた。
男は髪が長く後ろで一つに結んでいるようだった。前髪は右側が長く右目を隠していたが、左の切長の目がイズミを捉えていた。黒い七分袖のカッターシャツから覗く腕からは刺青が見えた。なんだろう、金魚だろうか。赤く長い尾のようだった。

「すみません」

イズミはそう言いながら後ろ手にドアハンドルを持ち「もう出ますから」とそう言った。

「いらっしゃい。まぁそう焦らないで、見ていきなよ」

男はニコリと目を細めた。

「はぁ...」

気の抜けた返事をし、あぁ、逃げられないなとなんとなく悟ったイズミはドアを閉め、水槽に向き直る。

「あの、ここって...」

そうイズミが問うと、

「あぁ、魚、売ってるの。小さいの専門ね」

と男は言った。
やはりそうだったかとイズミは思った。それにしても怪しすぎる。お客さんなんて滅多にこないんじゃないか?と巡らしていると、

「あ、今、怪しいって思ったでしょ?」

男は目を細めクツクツと笑った。

「学生さん?制服」

男は指をさしそう言った。

「はい」イズミが返事をすると、へぇ〜いいね、羨ましい、と、男が言う。なんとなく建前を並べられた気がし、イズミは怪訝な顔を男に向けた。

イズミは部屋の中ほどまであゆみを進め、そこに泳ぐ小さな魚を見つめた。水槽にそっと手を当てると、ほのかに暖かい。

「狭くない?」

イズミは思わず魚たちに小さく呟いた。

「こいつら、ここが居心地いいんだってさ」

ふと背後から声がしてイズミは肩を震わせ驚く。
後ろを向くと男がイズミと同じ目線に腰を屈ませ、水槽をのぞいていた。住めば都って言うでしょ、と目線を魚に這わせながらそう言った。男からは、ふわりとスパイスがきいた木のような匂いがした。

「なんでわかるんですか?」

「んー、そう言ってたからね」

「魚がですか?」

「そ、魚が」

男がそう言い、あぁなんだ茶化されてるのかとイズミは不服そうにした。


「僕だったら、こんなとこ出て行きたい」


思わず口から出た言葉にしまったとイズミは思った。

「帰ります」

イズミは屈んでいた足を伸ばし、そそくさとそう言った。

「またおいでよ、イズミくん」

ドアに向かう足を止めて思わず振り向く。

「俺、タチバナ。また寄ってよ」

タチバナはそう言うと、イズミに手を振った。
イズミはドアを開け、外に出る。雨はもう止んでいた。



夜、自室にて眠りにつく前、イズミはあの魚屋のことを考えていた。
魚たちは今もあの狭い水槽で泳いでいるのだろうか。夜の闇の中、シンとしたあの生暖かい空気の店の中でキラキラと泡を反射させながら。

(そういえば、なんで名前...)

眠りに落ちる寸前、そんなことを一瞬頭をよぎったが、考える暇もなく、泡沫となって闇の中で弾けて消えた。

2/25/2024, 3:30:43 AM