「胸が高鳴る」
彼は、まるで神様のように見え、胸が高鳴った。
昔から読んでいた絵本に出てくる、皆から愛され、
尊敬され、崇められ、聖人で、竜殺しの英雄とされる彼
彼が生きている時代に生まれていたら、もう少しだけ自由になれていたのかもしれないと思っていた。
そんな彼が今、目の前にいる。夢だと疑った。
こちらに伸ばしてきた手を払払いのけて、背を向けて逃げ出した。
怖かった。救われると分かっているのに、それがどうしても怖かった。自分があんな神聖なものに触れて良いわけがないと思ってしまった。
私が、私を、神様はきっと許さない。
こんな怪物が救われて良いはずがない。
彼が私を探しに私の部屋に入ってくる。もうどこにも逃げ場はない。
きっと彼には、私が怯える小さな子供に写っているのだろう。慈愛に満ち溢れた瞳が私を離さない。
ああ、神様、どうか私を救わないで。救おうとしないで
私は、わたしは、すくわれていいはずがない
「星が溢れる」
彼の目は不思議な色をしている。
濁った青に、黄色の星が散りばめられているような瞳。
星空のようで綺麗だと言ったら、悪趣味だと返された。
彼はすぐに自分を卑下する傾向がある。
少し前のとある日、私は階段から落ちて一週間寝ていたらしい。らしいというのは、階段から落ちた後の記憶が全くないからだ。ただ、寝たきりで目も覚まさなかったということだけを後から知った。そして、そのとき私につきっきりで世話をしてくれたのは彼だという。
他にも看病をしてくれた方から聞いてみると、曰く、彼は私が目を覚まさなくなった3日目に1人で夜に泣いていたという。
私は、なんとも不謹慎極まりないが、見てみたかったという考えが最初に出てきた。
彼の星空のような目から涙が溢れるのは、まるで、星が溢れる様な光景なんだと、それを綺麗だと思ってしまったからだと。
「たった一つの希望」
糸である。
触っただけで切れてしまいそうなほど細くて繊細な糸。
希望とは、そういうものだと教えられたのは9歳の頃であった。
母に言われ、父に教えられ、兄によって教え込まれた。
希望とは、ほとんどありはしない幻想、妄想の類であると。
私は生まれたとき確かに生きていたが、死んでいた。
兄の代わりに過ぎなかったのだ。私はいなかった。
思考を止めた、息をするのもやめてしまいたかった。
この世に、自分が自由に生きれるとは思えなかった。
口を開くのをやめた、感情を出すのもやめてしまった。
それほどまでに、私は幼子でありながら、諦めた。
ただ、それでも、やはり人とは哀しい生き物だった。
ずっと。
ずっと、ずっと、祈っていた。
自由に生きたいと、生きていたいと。
私は、自由に生きて良い、それだけを言われたかった。
誰かに救われるのをずっと待っていた。
細い、か細い、繊細な糸に縋り付くしかできなかった。
「現実逃避」
今度こそ死んでしまう。手が届かない。あと少し、ほんの少しだけだから、だから__。
願いは虚しく散るものだと、神はいないのだと知らしめられる。彼を救えなかった。2回だ。1回目は、彼の自己犠牲によるもの。その時は、みんなが協力してくれた。
2回目、今回はわたし一人だけ。今回も彼がわたしを助けてくれた。
救助が来たのは、彼が死んだすぐ後だった。
なんてひどい悲劇だろうか。わたしが手を伸ばして彼の腕を掴めたら、彼と手を離さなければ、彼は死んでいなかったのに。
泣いた。無様に、哀しみに、自己嫌悪に、助かったことへの安堵感に、彼を失ってしまった喪失感に暮れ、ずっとずっと泣いた。そうすれば、彼は同情して今にもわたしを慰めてくれると思っていたから。
彼がわたしを抱きしめてくれると思い込んでいるから。
なんてひどい自分勝手な現実逃避であろうか
「今日にさよなら」
彼は記憶が一日でなくなる。なので、毎日自己紹介から始まり、彼が、次は覚えておけるようにと言って書いていた日記を見せる。
もう少しで日付が変わってしまう。また、彼と別れなければならない。いつものことだけれども。
今日の彼は死んでしまう、けれど生きている。
なんと残酷だろう。なんと悲劇的だろう。
傷つき合うことで愛を確かめるのは愚かにも程がある。
彼はまた、明日には自分のことを忘れている。
だから、今日の彼にさようならを告げる。
彼がつけた日記を捨てる。
一ページしか書かれていない日記を捨てる。
明日の彼は、生きているだろうか