「 」
なにかが聞こえた気がした。
なんだったんだろう?
幻聴なんて聞こえてしまうような性格じゃないのは、自分が一番理解している。
それは、確かにそこにあったものだ。
それは、確かに存在していたものだ。
それは、確かに。
「なんだっけ」
きっと。
思い出せないのはどうでもいいからだ。
身をよじって起き上がる。
今日も今日とて変わらず日は進む。
終わりに向かって進む哀れな生き物を救うのが俺の仕事。
別にそれが嫌だとは思わない。
けれどなんだろう。
今、とても。
「 」
こぼれ出たのは、赤ん坊をやや子を寝かしつける旋律。
ふと目を向けた先には、季節の花を咲かせる庭。
花が育つには日光が必要だと、誰かが言っていた。
やわらかな光が射し込む庭のそばには水を汲む井戸がある。
誰かがそこにいた、気がするんだ。
「ねえ」
名前を忘れてしまった人。
君は花のような人だった。
いい匂いがした。
笑顔が愛らしかった。
美しい声を持っていた。
そして哀れなほどに儚かった。
日光が必要だった花のような君。
君が夜闇で生きられたなら、まだここにいたのかな。
そうやって、詮無いことを考える。
やわらかな光の届かない影の楽園で。
お題「やわらかな光」
食堂に行くと、何故か後輩が沈んでいた。
あまりの沈み具合に、いつもは毛嫌いしている苦手な野菜を口に入れている。
あ、呑み込んだ。
「大丈夫か、おまえ」
「…………っ」
話しかければ、こっちを見ないままぼろりと涙を流した。
突然のことにいつも元気のいい後輩の現状を心配していた周りの人間もとたんに騒ぎ始める。
いったい何があったと言うんだ。
「どうしたんだよ……」
「うぇ…………」
「とりあえず擦るな、腫れるぞ」
「うー」
ゴシゴシと目を擦るから、慌てて止めさせる。
面が良いこいつが明らかに泣き跡を残していたら学年どころか学校中が大騒ぎだ。
「で?」
落ち着いたタイミングで泣いた理由を問いかける。
けれど、後輩の返事に早々にこの場を離れたくなるとは思わなかった。
「オレの…好きな人が……」
「おう」
「昨日ご飯作ってくれて」
「あぁ、うん」
後輩の好きな人。
話しやすいのか牽制か、この後輩はよくオレのところに話をしにやってくる。
まだ想いを告げていない片想い状態なのに。
しかもその状態で、世話好きな奴の部屋に入り浸っているのだ。
だから、こいつが誰を好きなのかは知っている。
ご飯を作ってくれて、という言葉に、簡単にその時の状況を想像することができた。
「その時の鼻歌が……」
「あぁ、あいつよく鼻歌歌ってるしな」
「失恋の歌だったんです〜」
帰っていいかな。
びゃああと泣き出した阿呆から、心配していた周りの人間が目を逸らす。
とりあえず話を続けよう。
意味が分からないから。
「…………なんでそれでおまえが泣くの」
「ひぐっ、失恋の歌ってことは失恋したってことでしょ?オレ以外にぃぃ」
残念ながらあの器用貧乏型多才バカはその時の気分関係無しに流行りの曲を歌ってるぞ。
リズムが好きだからとかいう理由でキャットファイトする洋楽歌ってたバカだからな。
カラオケのストック増やすために聴いた新曲が頭から離れなくなったとかだろ、それ。
とうとう食堂のテーブルに突っ伏してベソベソし始めた後輩を見下ろす。
人の気持ちを考えない傍若無人の言動を天然でする後輩の涙の理由は、心底くだらないものだった。
お題「涙の理由」
たとえば。
君が少しだけ賢かったら。
たとえば。
君がもっと救いようがなかったら。
たとえば。
君が何もかもを失っていたら。
たとえば。
俺が―――。
抱いた幻想を笑って投げ捨てた。
何を思ったって世界はいつもどおり月が昇り陽が沈む。
生まれた赤子は泣き、潰えた老人は土に還る。
それが真理であり、それが摂理。
代わり映えしない日常を吐き出しながら進む時を受け入れるだけの生き様。
だから君と過ごした縁側も、永い永い生の端っこに引っかかる滲みでしかないのだ。
「 」
記憶は、どこから失っていくのだろう。
記憶は、どこを最後に残すのだろう。
記憶は、何を基準に融けるのだろう。
「どうでもいいや」
ごちそうさま。
手を合わせて、静かに命に感謝する。
ごちそうさま。さようなら。
俺の糧に、君はお成り。
けれど、ふと考える。
声を忘れてしまった君へ。
笑顔を忘れてしまった君へ。
匂いを忘れてしまった君へ。
願わくば。
「また巡り会えたら、優しい歌を聴かせておくれ」
死後の世界も生まれ変わりも信じていない男が呟いた言葉に、返事は無く。
お題「巡り会えたら」
「黄昏ってさ、変な名前だよね」
「ん?」
「黄色に昏いでたそがれだよ、黄色って明るくない?」
「あー……あ?」
夕暮れ時、だいぶ冬に近付いて日が沈む時刻もはやくなってくる頃。
長く伸びた影を追いかけるように歩きながら口を開いた彼女は、指をくるりと宙で動かす。おそらく黄昏と書いているのだろう。新しく習う漢字をクラスメイト全員で宙に書いていた小学生時代を思い出した。
「黄昏ってあれだろ、誰ぞ彼」
「たれぞかれ?」
「そ。陽が沈みかけて、すれ違う人の顔もきちんと見えなくなる時間」
「それと黄色い昏いになんの意味があるのぉ」
「えー」
どうやらこの答えではお気に召さなかったらしい。
ぐりぐりと、髪が乱れるのも気にせず押し付けてくる頭を放置してスマートフォンを取り出した。
「あー……漢語?に似た意味の言葉があって、それに日本のたそがれを当てたみたいだぞ」
「そうやって文明の利器に頼るの良くないと思う」
「せっかく持ってんだから使い尽くすだろ」
スマートフォンの画面を二人で覗き込む。
昨今の検索機器は小型なのに高性能だ。字を間違っても『こっちの意味ですか?』って先回りしてくれる。
「でも誰ぞ彼かあ」
「黄昏には大禍時って意味もあって、化物と人間の境目が曖昧になるんだってよ」
「んふふふ」
「なんだよ気持ち悪いな」
楽しそうに笑って、彼女は大きく一歩踏み出してくるりと回転する。武骨なヒールに重心を置き、ちっともブレないその動作。
「ごちそうさま」
ぶるりと彼女の足元で影が揺れた。カツンと妙に響く音が鳴ったかと思えば、聞くに堪えない断末魔が響いた。
「美味しいか?」
「ぜぇんぜん」
君のほうが美味しいよ。
彼女は華やいだ笑みを浮かべ、それに呼応するように彼女の影が三日月型に笑んだ。
「たそがれ、おおまがどき。ねえ、君はちゃんと君かい?」
「オレがオレじゃないなら、それはおまえの失態だ」
「あぁ、そうだねえ、ボクの失敗だ。でもちゃんと気をつけてね。君はもう君だけの君じゃないんだから」
そばに来た彼女と手を繋ぐ。
たそがれの、大禍時だけの逢瀬。
触れ合うことが赦させる、境目が曖昧になる時間。
誰ぞ、と問わないために、強く強く絡み合った。
お題「たそがれ」
カチ、コチ。
時計の音だけが響く部屋。
オレはうつむいて、ぎゅっと拳を膝の上で握り締める。
どうしてこうなったんだろう。
いや。
間違いなくオレが悪いのはそうなんだけれど。
じゃあどうすればよかった?
何度考えても、たぶんオレは同じ行動をとる。
いつもどおり帰ってきて、料理作ってる背中に飛びついて後ろから手元を覗き込む。
危ないからって注意するあなたの言葉を受け流してぎゅうと抱き着いて。
そして。
「オレはとても怒っている」
「……ハイ」
「とてつもなく怒っている」
「……ハイ」
「弁明はあるか」
「ごちそうさまでした」
「〜~~〜〜!!」
あ、やば。間違えた。
弁明?弁明というなら、そりゃ。
一週間ぶりのあなたの匂いと体温に我慢できなくなってちょっと無体を働いてしまいましたけど。
それに関して後悔はしてないよ。
確かに煮詰めていた今日の夕飯が水分蒸発してしまってカラッカラになったけど。
これはこれでおいしいし。
顔を真っ赤にしたあなたはプルプル震えながら口を引き結んでいる。
また時計の音が部屋中に響く静寂が現れた。
けどさっきまでの緊張感はなくて、かわいいなあってオレは仁王立ちしているあなたを見上げている。
「ちゃんと」
「ぅえ?」
「ちゃんと美味い飯食わせてやりたかったのに」
「っ」
ああどうしよう。
大好きだ。
尖らせてる唇をがぶっと行きたくなる気持ちを抑え込んで、膝立ちになって手を取る。
「言い忘れてた」
「…………なに」
「ただいま。ご飯は明日にしましょっ」
「……………………バカヤロウ」
とたん騒がしくなる部屋に、帰ってきたって感じがしてオレはまたぎゅうと抱きついた。
お題「静寂に包まれた部屋」