木漏れ日
前を歩く君の後ろ姿に木漏れ日の影が落ちた。柔らかな頬の輪郭を、温かい光が縁取っている。僕は後ろから、それを見つめていた。青い並木道を歩いていく君の姿は、まるで一つの絵画のようで。
「どうしたの」
君が振り返って、こちらを見た。僕はどうやら立ち止まっていたらしい。なんでもない、と首を振る。
「早く」
君はそう言って、前を向いた。すっかり間の空いてしまった道を、少し早足で歩く。
向こうのほうにあった薄暗い雲が此方に来たようで、ぽつぽつと小さな雨垂れが僕らに落ち始めた。幸いにも、僕らは傘を持って来ていた。
「青時雨ねえ」
「青時雨?」
「時雨みたいでしょう。木立から雨粒が落ちて」
ぱらぱらと青時雨が僕らの傘を鳴らした。彼女は物知りだから、色々な言葉を知っている。雨催いの木立を歩く君も、とても綺麗だ。
「また、」
君が振り返って、僕を見て笑った。どうやらまた立ち止まっていたらしい。
「早く来て、置いていくよ」
君はまた歩き出した。その姿は綺麗で、いっそ神秘的に見えた。僕が入り込める余地がないほど、完成されているかのような光景で。どうにも、君へ向かう足が進まぬまま。
「綺麗」
君の後ろ姿を僕は見ていた。
うしろすがたのしぐれてゆくか
手紙を開くと
拝啓
新緑の候、いかがお過ごしでしょうか。早くも夏の気配を感じる日差しに、過ぎ行く春を恋しく思います。桜ももう、とうに散ってしまいましたね。そちらの様子はどうですか。夏の芽吹きは綺麗でしょうか。
貴方と最後に会ったのは、もうずいぶん前ですね。それぞれ離れた所に居ますから、仕方がない事だとは分かっているのですけれど、やはり会えないと言うのは寂しいものです。貴方と話がしたい。他愛の無い事でも良いから、と時折考えます。
この手紙を出したのは、ただ貴方に手紙を出したい、と思ったからです。安直すぎるでしょう?でも私にはそれ以上でもそれ以下でもないのです。ただ、貴方と言葉を交わしたいと思いました。何でも良いのです。最近あったことでも、美味しかったものでも、綺麗だったものでも、何でも。貴方が見た世界を、貴方の言葉で綴ってはくれませんか。私もきっと、私の言葉で私の見てきた世界を貴方に送りましょう。ゆっくりでも構いません。貴方からの返事を心待ちにしています。
突然の手紙で、本当に申し訳なく思います。最後に一つ、手紙と共に私からささやかな贈り物を送ります。手紙を開いた時の貴方の顔を見れないことだけが口惜しいですが。それでは、くれぐれもお体には気をつけて。
敬具
♢
懐かしい字をなぞると、インクで指が少し黒くなった。封筒の中から、はらりと何かが落ちてきた。
「桜…」
淡い桃色をした、桜の押し花だった。そうっと破けぬ様に拾い上げて、光にかざして見ると、薄らと光を透かして淡い色に見える。手紙を開くと、入っていたのは、貴方からの言葉と温かな春の思い出だった。
「綺麗」
桜の押し花をつまんで、空に透かして見る。指にはインクの黒がついたまま。桜の花を縁取る、かすかな真夏の気配を纏う空の先に、春の淡い景色を見た。
sweet memories
美しい、天国の様な場所で、貴方に恋をした。貴方に初めて会った時、優しく会釈をした貴方が、途方もなく綺麗で、美しくて。
蝶が舞い、花は笑い、鳥が歌い、光は踊る。花があやなす白い光の中、一際赫く咲いた薔薇を摘んだ。遊星の降る楽園の中、二人、喋喋喃喃の睦言を交わす。君に射す光があまりに眩くて、まるで魔法にかかった様だ。夢見心地に目を開いた君の眼は、銀河を閉じ込めたかの様に煌めいている。
「私、海が見たいの」
「海は青くて深くて、綺麗だよ。君に見せてあげたい」
「なら、連れていって」
遠つ国を夢見る深窓に育つ少女の様に、君は遠くへ思いを馳せる。駄目だ、ここを出てはいけない。出ることは許されない。でも、と呟く僕に、君は彫刻の様な美しい笑みを浮かべた。
「僕らの罪は、どうなるの」
「貴方と一緒なら、それでも良いわ」
君の目見の中の美しい炎を見た。海を夢む君の、熱く燃える魔法の火。見惚れた僕は、君の手を取った。
二人、手を繋ぎ、楽園を抜け出す。怖くはなかった。君がいるから、それも良いかと。
「日が暮れてしまうね」
「気をつけて。この先は少し暗い」
手を握るのが、少し弱くなって、慌てて力を込めた。行く道の先に、門が見えてくる。
「行きましょう」
「もう、二度と戻れないよ」
「大丈夫」
舂く空の下、二人、門をくぐる。繋いだ手はまだ離れぬままで。その先は天国か、或いは…
僕はもう、解っていたはずなのに。
「堕天」
Nel mezzo del cammin di nostra vita mi ritrovai per una selva oscura, ché la diritta via era smarrita.
軌跡
明日のこと昨日あったこと
いつか全部忘れちゃうでしょう
だけど今日出会った世界は、大事にしまうのでしょう
好きな歌詞。その今日を積み重ねたものが、きっと軌跡になっていくのだろう、と。
好きになれない、嫌いになれない
落花流水の情、と言う。花が落ち水は流れるように、一方に思う気持ちがあれば、相手もその思いに絆され、きっと流されるだろうと。しかし、落花情あれども流水意なし、が往々にして現実というもので。
「好きだよ」
もう何度口にしたか分からぬ言葉は、再びするりと軽く舌を滑って出ていった。彼女は悲しそうに笑っている。
「ごめんなさい。貴方のことは、好きになれないの」
このやり取りを何度繰り返しただろう。そして、何度これで最後にしようと思っただろう。諦めきれない己の事を、いつも彼女は優しい笑みで受け止め、そして拒んだ。
「僕だって、」
落ちる花は際限なく、水面へと舞い落ちていく。でも水は流れては行かなくて、ただその凪いだ水面に花が重なっていくだけだ。そしてその花もいつか水底に沈み、泥に溶けていくのだろう。
「君のことを、嫌いになれない」
また彼女は笑った。花はまだ落ちきらない。