夜景
子供の頃の感動を今でも覚えている。
私の住んでいた街の自慢は満点の星空。澄んだ空気と灯りのない地域。空の高さも、星の輝きも、はっきりと分かった。何度星空を見上げたか、何度手を伸ばしたか。
ある日、両親に連れられて花火大会へ行った。家から車で30分。会場も田舎だけれど、全国から訪れた人々でごった返していた。人ごみに酔いながら見上げた夜空の大輪は私の脳裏に焼きついた。
小学六年生の終わり、友達の家族と卒業旅行をすることになった。行き先は函館。函館山から100万ドルの夜景を見下ろして息を呑んだ。写真じゃとても味わえない感動。なんて綺麗なんだと子供ながらに思った。
大学に入学し、一人暮らしを始めた。夜に都会の夜景を見渡せる郊外に部屋を借りて。たまに夜に散歩をすると、その美しさをいつでも見下ろせた。宝石のようなそれは私を惹きつけてやまない。
私は現在、都心に住んでいる。必死に働き、お金を手に入れ、夜景の中に住んでいる。高層ビルも、展望施設も間近にあって、夜景を見下ろすのにはもってこいだ。
私は何度も夜景を見下ろし、その正体を知った。いつしか夜空を見上げなくなったことを思い出した。だけど光に近づけて、私はどこか満足している。
時折、子供の頃の感動を思い出しては寂しくなるのは何故だろう?
花畑
30株の花が咲く花畑のようだ。
そんな話を同僚にすると、笑われた。
「ロマンチストだなあ、お前は!」
そうか?と照れ笑いしながら頭を掻く。受験に合格することを桜が咲くと表現することがある。それに倣って新しく受け持つクラスの子達を花に例えてみたのだが。
「まあ確かに、あいつら見てればそうやって例えたくなるのも分かる。じゃ、お前はなんだ?蝶か?ジョウロか?」
「俺か?俺は……肥料かな。枯れて土になった……」
「はっはっは!アホくせー!」
そこまで言われると流石にムッとなる。別に理解して欲しいとも思わないが、そこまでこき下ろさなくともいいだろう。
「人間は花じゃねえ」
知ってる。
「お前は酔ってる」
シラフだ。
「いいか、お前、俺が言いたいのはな自分を認めてやれってことだ」
「は?」
「お前はこう思ってる。俺はもういい歳だ、せめて今を楽しみ未来に輝く子供達のためになれるならってな」
「そんなことは」
思ってない。その言葉が出なかった。自分で気づいていなかったが、こいつの言葉はどこか当たっている。
「人間は花じゃねえ。可哀想ぶってんな、年齢言い訳にすんな。俺ら、まだまだこれからさ」
言葉が沁みる。傷に?骨身に?それは分からない。でも一つだけ言えることは、こいつは俺を見抜いていると言うことだ。
もう若くないから。
やらない理由の言葉は麻薬だ。一度使えば抜けられず、使うたびに深みにはまり、次第に心をボロボロにする。得られるのは一時の安らぎ。毒の囁きをいつしか正論と信じ込み、知らず知らずのうちに身動きが取れなくなる。
「難しいこと考えてる顔だな?」
「ああ」
「ま、いいさ。再来年にでも旅行しよう」
定年か。俺はどんな言葉を用意するつもりだったんだろう。
一時の安らぎを得ることは決して悪いことじゃない。折れそうな心を支えるために言葉や物語がある。甘言を、境遇を言い訳に何もしないこと、そればかりじゃダメか。
俺は変われるだろうか?とりあえずは、からげんき。どんな花を咲かせられるかな。
空が泣く
彼は言った「この後雨が降るそうだよ」と。
私を心配する、彼の気遣い。取り込んだ洗濯物も、鞄の中の折り畳み傘も、彼が教えてくれたから。
彼は言った「雨上がりの空は綺麗だよ」と。
私を励まそうとする、彼の気遣い。透き通る夜空を、虹の橋を、彼と一緒に見られたら。
彼は何も言わない。青い雫を聴きながら、私にそっともたれかかる。生乾きの洗濯物も、壊れた傘も、虹も、星空も、そこにはない。しとしとと濡れる前髪をそっと撫でて、今、一緒にいてくれる。
夜明け前
ああ、今日も何もできていない。何かしようと意気込むけれど、心だけが焦って焦って、眠れない夜が幕を下ろそうとしている。
東の山の間が白み始める夜明け前、靴紐をキュッと結んだなら、玄関をそっと開けて旅に出る。誰もいない歩道、ぼんやり光る電灯、朝露に濡れた白詰草、カーテンの閉まった友達の家。しっとりとした、けれど爽やかな香り。澄んだ空気に包まれながら、立ち止まり、追い抜いて。
私だけが知っている、私だけの感動。
香水
それは春の予感