Acogare

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3/22/2026, 12:13:15 AM

健太郎は一人の娘に長い間恋をしていた。
昔は共に遊び、時を過ごした仲であった。然し健太郎は意気地無しでその想いを伝えられずにいた。

健太郎は夢を見ていた。
それは不思議で奇妙な夢であった。隣に女が座っていて、健太郎に何かを話しかけているように見えるのに声が何も聞こえないのだ。健太郎は姿形がはっきりしない其の女に、一か八か自分の愛している女の名を呼び掛けた。すると其の隣の女が、片想いの女の影を落とした。とても愛らしい、そしてとても元気な女の影だった。長年拗らせてはどんどん質量が重くなってゆく彼の恋は、その女が自分の想い人だと分かった瞬間、一層大きくなって弾けた。彼女が夢にまで出てきて、やっと自分の大きく実った愛を自覚した健太郎はもういい加減この想いを伝えなければいけないなと思った。

この甘い夢から醒める前に、この形容し難い愛を長年の思い出を拾い集めて何とか言葉にしなければと思った。
そしてその夢から覚めたらすぐに、彼女の元へ走ってただ一途にこの愛を伝えようと決心した。
健太郎の目には希望の輝きが煌めいていた。

3/20/2026, 9:58:18 AM

辰吉は老練な画家である。
鮮明で多彩な色の顔料達は目から、ざらざらとした紙質は滑る筆を伝って手に伝わってくる。どのように描こうか、どうすれば良い絵が描けるのかと考える時間は苦しみであれど、その裏には何時も楽しさが躍っている。
正しく、辰吉は絵そのもの全てに心を高鳴らせ、躍らせ、他では味わえないだろう快感を得ているのだ。
これはどんなに壮大な恋や愛にも変わらぬ、ただ一人自分だけで始っては己の命尽きると共に終わる内での活動である。
そんな辰吉は幼くしていつの間にやら絵の神様か悪魔かに心を奪われてしまったのかもしれないと考える。
然し今日までずっと高鳴るこの心臓をもってして、
「あぁ良かった。私の心臓は奪われてなどいない。」
と分かるのだ。

3/18/2026, 2:48:15 PM

杏二郎は誰もが目を引く美しい面だけが取り柄のしがない小説家であり、十七の頃に財閥の娘と婚約をしていた。透き通る白い肌はその裏に赤い血管があるとは微塵も思わせないほど冷たく、端正な顔立ちであるが何処も線が細く美しかった。まるでまだ誰も知らない遠くの国からやってきた、人間より遥かに高貴な別のいきもののようであった。
杏二郎の美しさに翻弄されない者は滅多にいなかったので、世の条理に彼はぴったりと適い、女に明け暮れる毎日だった。彼の書く小説も又、女に始まり女で終わり其処に甘い純愛などなかったのであまり売れなかったが、特に彼の憂いになる様な事ではなかった。
然しそんな杏二郎にも一つ気掛かりな事があった。其れは自分の妻のことである。妻は大きな財閥の娘で杏二郎程ではないが顔立ちは整っていて、黒い髪が特徴であった。彼は彼女の父親のお金で不自由なく暮らせていたので彼等には多大なる感謝をしていた。然し妻だけは自分の美しさをものともせず、初めて会った時ですら彼を見ても表情を一つも変えなかった。ただ今日までずっと妻という役割だけを丁寧に果たしていた。
小説家である杏二郎の観察によると彼女は昔から関係の深い、平凡な顔の男に好意を寄せているようにみえた。その男は堅実に働き、彼女の財閥である程度良い地位についているようであった。彼には杏二郎に向ける表情よりもっと生き生きしたものを見せている様だった。
杏二郎は初めから特に妻に恋や愛などの感情を抱き、夫婦という形に合う関係になろうとは思っていなかった。ただ妻が自分の方を見ないのは少し納得がいかなかった。周りの目は自分に惚れ込んでいる様な甘い目や、嫉妬や欲に塗れた張り詰めた目であったが、彼女の目は真っ直ぐ表情を変えずに自分の方を冷たく見るので、彼女の瞳が透き通った緑がかった綺麗なものであることを彼は知っていた。杏二郎が夫として知っているのは精々其れだけであった。
杏二郎にとって最も近い位置にいる妻だけがこの世の、いや彼の人生においての不条理であったのだ。然し彼の方からその不条理を条理に直そうなどと言う事は考えてもいなかった。
ただ心の内にある小さな憂いを文章にすれば売れるだろうと思って筆をとっては其れに合う言葉が出て来ず紙を丸めて、昨日の女について乾いた文章を書いていた。

3/17/2026, 1:54:41 PM

「ねぇりゅうちゃん、私もう泣かないよ」
そんな事を言われたのは二十年程前だろうかと龍之介は過去を思い返した。この言葉の持ち主は昔よく遊んでいた小柄な女の子だった。いつも桜色の着物を着ていて其れがよく似合っていたことは覚えている。彼女は余り器用な方ではなかったのでいつも龍之介に頼っては近所のガキ大将とやらに揶揄われていた。
この言葉は一見自立を試みる耳ざわりの良い言葉に聞こえるが、其れは一種の依存の存在をほのめかす言葉であった事に数年経ってから気が付いた。龍之介はそれきり女に泣かれるとこの言葉を思い出す。不図頭の奥底から彼女の声が響くのだ。いや声はもう覚えてないらしい。それ程前の事なのに龍之介の頭に残っては、時々姿を見せて彼を悩ませていた。
龍之介は困っていた。女の涙が見れなくなったので、泣かせないよう神経を使い、誰も見ていない真っ暗闇で己の心をすり減らすのだ。今彼女は何処で何をしているのかなんて全く検討も付かないのに。
泣かないというのはそんなに良いものなのか、努力するものなのかと龍之介は時々夜中に彼女に問いかけている。

3/17/2026, 9:33:02 AM

敬太郎は二十にして小説家であった。
一日中家に閉じ篭り筆をとっては頭を悩ます生活を送っていた。幸運にも彼には文の才があり、彼の書いた書物は怠惰な生活が出来るくらいには人気を博していた。
そんな彼は少しばかり変わった女に密かに惚れていた。彼女は隣に住む二十くらいの女で、明け方四時位に敬太郎が朝の空気を吸いに外に顔を覗かせると、彼女もまた一つ段違いの窓から顔を覗かすのだった。ただ其れだけの間柄であったが敬太郎は、何時も少し赤い頬に黒眉の同じ時間に窓を開ける彼女に興味を持っていたのだ。
ある早朝、敬太郎は十分ほど寝坊をしてしまった。もう彼女は其処に居ないだろうと予想していたが、少しばかりの期待を胸に急いで窓を開けた。この時の彼は恋する男と云うより万物に目を注ぐ梟の如き小説家であった。
運が良かったのか悪かったのか、彼の予想は全くの検討はずれであった。彼は明け方に見合わない大きな音を立て窓を開けて彼女が何時もいる方を見ると、すぐに彼の目は気配を捉えた。其れは正しくその女の美しい目であった。彼女も又彼を見ていたのだ。彼女は敬太郎を見ると少し赤い頬を一層赤らめて影を残して消えた。
敬太郎はこの時、物凄く傲慢で愚かな勘違いをした。
敬太郎は次の日にはもう彼女宛に恋文を書いた。その手紙を書くのにも頭を悩ませたが一日で書き終えた。
其れよりも彼女の家の郵便受けに其れを入れる事の方が時間が掛かった。

拝啓
朝の空気というのはとても美味しく、半日ぶりに身体を乗り出して此方を照らしてくれる太陽を私は毎朝ふたつ見るのです。また何時か半日とは云わず隠れているその時間も私はお供したいと思っています。
敬具

敬太郎は手紙を出して自分の部屋に戻ってきた時、もしかしたらあの文章は随分遠回しすぎたかと思った。
彼は文の才があった。それ故自分の気持ちを直接的に表現する事において少々怖がりだったのかもしれない。
敬太郎は巧みな言い回しで言いたい事と少しずつ違った言葉を選んで、選びぬいて彼女に贈った。
明け方に空を見上げる彼女に、自分の言葉がちゃんと伝わっている事を願って、書き途中の小説の主人公に「愛しています」と言わせた。

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