杏二郎は誰もが目を引く美しい面だけが取り柄のしがない小説家であり、十七の頃に財閥の娘と婚約をしていた。透き通る白い肌はその裏に赤い血管があるとは微塵も思わせないほど冷たく、端正な顔立ちであるが何処も線が細く美しかった。まるでまだ誰も知らない遠くの国からやってきた、人間より遥かに高貴な別のいきもののようであった。
杏二郎の美しさに翻弄されない者は滅多にいなかったので、世の条理に彼はぴったりと適い、女に明け暮れる毎日だった。彼の書く小説も又、女に始まり女で終わり其処に甘い純愛などなかったのであまり売れなかったが、特に彼の憂いになる様な事ではなかった。
然しそんな杏二郎にも一つ気掛かりな事があった。其れは自分の妻のことである。妻は大きな財閥の娘で杏二郎程ではないが顔立ちは整っていて、黒い髪が特徴であった。彼は彼女の父親のお金で不自由なく暮らせていたので彼等には多大なる感謝をしていた。然し妻だけは自分の美しさをものともせず、初めて会った時ですら彼を見ても表情を一つも変えなかった。ただ今日までずっと妻という役割だけを丁寧に果たしていた。
小説家である杏二郎の観察によると彼女は昔から関係の深い、平凡な顔の男に好意を寄せているようにみえた。その男は堅実に働き、彼女の財閥である程度良い地位についているようであった。彼には杏二郎に向ける表情よりもっと生き生きしたものを見せている様だった。
杏二郎は初めから特に妻に恋や愛などの感情を抱き、夫婦という形に合う関係になろうとは思っていなかった。ただ妻が自分の方を見ないのは少し納得がいかなかった。周りの目は自分に惚れ込んでいる様な甘い目や、嫉妬や欲に塗れた張り詰めた目であったが、彼女の目は真っ直ぐ表情を変えずに自分の方を冷たく見るので、彼女の瞳が透き通った緑がかった綺麗なものであることを彼は知っていた。杏二郎が夫として知っているのは精々其れだけであった。
杏二郎にとって最も近い位置にいる妻だけがこの世の、いや彼の人生においての不条理であったのだ。然し彼の方からその不条理を条理に直そうなどと言う事は考えてもいなかった。
ただ心の内にある小さな憂いを文章にすれば売れるだろうと思って筆をとっては其れに合う言葉が出て来ず紙を丸めて、昨日の女について乾いた文章を書いていた。
3/18/2026, 2:48:15 PM