桜が散る音を聴いた。
多分あれは本当に桜が散った音であった。
身体が弱く、家の奥の薄暗い部屋で長い間看病されている杏介という若い男がいた。彼はひとりで立つことができないので、歩いた時の顔に受ける空気の優しさも、世界の形が常に変わりゆく事も彼は知らなかった。
長年、同じ天井ばかり見てきた。
無機質なもので溢れかえる彼の視覚には唯一、彼が全てを目で追いきれぬ、元気で可憐な女の子がいた。
彼女は事ある毎に杏介の部屋に来ては、楽しそうに其れを話した。
杏介は足音と共に新しい季節の訪れを教えてくれる彼女を、鳥の声すら聴こえぬ部屋で毎日待っていた。
季節は春。
満開の桜の美しさを人々教えようと可愛く鳴く鶯の声は当然杏介の耳には届かない。
然し鶯よりも快活な彼女の声も何故か其処にはなかった。毎日来ていた彼女が最後に杏介の部屋に来てから、もう五日も経っている。最後に来た日は確か桜が家の前に綺麗に咲いたことを教えてくれた日だった。
二日経った。まだ彼女は来ない。
三日経った。まだ彼女の声すら聴こえない。
………十日経った。一週間はとうに過ぎている。
日光の降る外の世界ではもう桜が散り終わっただろう。然し杏介は見たこともない桜が、今頃、見事に美しく散っているような気がした。
可憐に宙を舞うように、ひらひらと。其れでも、杏介の部屋には桜の花びら一枚すらも訪れなかった。
杏介が聴いた桜の終の音は、薄暗い無機質な部屋の、
長い長い無音の音だった。
重ねて、その無音に似合う小さな涙の流るる音がした。
────雑記。
幼い坊や(=彼)と放浪する無名小説家(=男)の話
彼はまだ言葉を余り知らない。
六年程しかまだこの世を生きていないからだ。
然し彼が感じた喜びや幸せが入り交じって形をなそうにも溢れてしまうくらいの最大の幸福を、何としてでも男に伝えたかった。それでも、彼の稚拙で少ない言葉ではとても言い表せることができそうになかった。
彼はただ一言、恐る恐る男に言葉を贈った。
『うれしい』
その短い音の響は、意味として、とても簡単な言葉であろう。然し彼のその言葉に乗せた感謝の気持ちは最大限に、真っ直ぐに男の心に響いた。
彼が使った言葉は、その瞬間だけ複雑で言葉にはできないほど沢山の意味を含んでいた。
私達が営んでいる"これ"は感情を言葉で表す、なんて単純な作業などでは決してない。
形も音も、手触りも何もない感情をどうにかして相手に伝える為に言葉は出来たのだ。
ただ綺麗な言葉を綺麗な風に並べて生きてきた男はこれもまた、言葉に出来ないほど感動した。
さて、男は小説家だ。
これからこの気持ちをどうにかして言葉にしようという
繊細で、精密で、丁寧で、尊い営みが始まるだろう。
あの夜、空の西側が確かに燃えていた。
金色に輝く大きな太陽は見事に全てを赤く染めた。
街ゆく人は沈む夕日の美しさを共に楽しみ、笑い合い、中には余りの美しさに涙を流し思いを馳せる人もいた。
夕日の燃えるような赤さに、
青い海すら赤く染めてしまう偉大さに、
みんな魅了されてゆく。波が広がってゆく。
人々が皆、其方の方を眺めていたとき、たった一人
京太郎だけは逆側を見つめていた。
其方は真っ暗で、もう夜がいた。
誰もが西側の沈みゆく夕日に魅了される中、
京太郎は嫌な程、夕方の東側に魅了されてしまった。
星空の下には街灯が仄かに暖かく光っていた。
与助は恋に哲学めいていた。
彼は幼なじみの千代に何とも言い難い想いを抱き始めた最中であるのだ。
彼女は人懐っこいため、十八になった今でも与助の家に来ては与助の母と、この服は海外からきたものなんだとか昨日小さな真珠を買ってもらったなどと仲睦まじく話していた。
丁度この日の夜も千代が帰った後で、彼女の燦燦とした声がなくなったからか、家は妙にしんとし、与助をしんみりとさせた。
与助はもう黒く染まってしまった空を、二階の窓から見上げようとしたが何かが重くのしかかっている様な気がして苦しさを感じたので、やめた。
代わりに地平線まで続く街灯を数えた。丁度地平線の際の辺りに千代を含めた叔父達が住んでいる。
それ程遠くないはずなのに、街灯以外すべて真っ暗闇が打ち寄せて侵食された建物のせいで大分千代が向こうに行ってしまった様に感じた。
彼女ももう十八である。彼女は白い肌に可愛らしい目鼻を兼ね備えていたし、頭も良かったので、縁談は沢山来ているだろうと最近母から聞いた。其の時だろう、与助の中の千代が知らない形に変わり始めたのは。いや、変わったというより溶けていったに近しいかもしれない。母の話を聞いた時、不覚にも自分の頬が赤くなっていったのを覚えている。
与助の脳は彼女が知らない誰かに娶られるのを想像するのを拒んだ。ある安直な考えが頭に浮かんだ、もしやこれは恋なのだろうかと。
然し、恋なら大分淡白だなあと思った。
また与助は昔から愛や恋においての男女の単純さを軽蔑していた。同じ場所に男と女がいれば妥協を繰り返しながらも結局直ぐに恋に堕ちてしまう。なんと浅はかな事かと。然し其れと一寸違わず同じことが自分と千代の間において起きているかもしれないのだ。いや千代はそんな事微塵も思っていないだろうから与助のいう浅はかな男女は与助だけだった。
はあ、と溜息をついた。
もう一度窓の外に目をやった。
自分の真上の夜空を見上げる事は何となく重苦しくて出来なかったが、地平線近くにある千代の上にある紺碧の夜空は顔を上げずともはっきり見えた。
そこには砂を散りばめたような満天の星が輝いていた。
その星を見て、ただ千代には星空の下で明るく育って遠慮なく僕の家に来てほしいなと暖かく思った。
もう直ぐやってくる日が登る時、与助のこの気持ちは恋なのか、将又違う何かなのかすぐに分かるだろう。
雨上がりの桜が散って、少し水分を含みながら舞わずに落ちてゆく花弁を横目に、宗介は千代の後ろをゆっくりと歩いていた。千代の着物は桜に似た淡く明るい色だったのに対して、宗介のものは青が深く入った着物だったので桜がぴたりと着いている様子が、第二の桜の趣を感じさせた。
千代は子どもらしい無邪気な性格であり、宗介は彼女の母がそんな彼女を叱っているのをよく見た。然し宗介は彼女が桜の幹よりもずっと深い芯を心に持っていることを知っていた。
そんな幹に彼は長らく凭れかかっていたので、彼女が咲かす花の匂いも落とした花弁の形もある程度は知っているつもりだった。
こんなに長くいるのに此方に顔を向けない彼女は、顔も可愛らしい上、笑顔がまた無邪気さを感じさせるので将来何処へ行ってもやっていけると、確信はなけれども彼は何となくその様な気がしていた。
桜が舞う。花弁が落ちる。
千代が笑いながら桜を追いかけて駆けていく。
宗介はこちらを一度も振り返らない彼女の後ろを追いかけながら、心に悲しさと名残惜しさが滲ませた。
もし今自分が彼女の行く道と違う道に進んでもきっと彼女は気づかないだろう。
色々考えても結局彼女に着いてゆくのは、彼女とまだ一緒にいたいのか、それとも彼女の行く方がどうしても正解に見えてしまうからだろうかという問いは宗介の中ではまだ形を成していなかった。
多分、千代は放っておいてもずっと幸せの中で暮らしていくだろう。そもそも彼女自身が幸せそのものであるのだろう。
そんな事は分かっていながら後ろから彼女の幸せが永遠である事を願ってゆっくりと彼女だけを追っていた。
幸せになって欲しいのは彼女なのか、将又自分なのか
宗介は考えてもいなかった。
ただひとつ、散った桜は街ゆく人に踏まれて
ぐちゃぐちゃになっていた。
其れを第三の桜の趣ととるかは宗介次第である。