雨上がりの桜が散って、少し水分を含みながら舞わずに落ちてゆく花弁を横目に、宗介は千代の後ろをゆっくりと歩いていた。千代の着物は桜に似た淡く明るい色だったのに対して、宗介のものは青が深く入った着物だったので桜がぴたりと着いている様子が、第二の桜の趣を感じさせた。
千代は子どもらしい無邪気な性格であり、宗介は彼女の母がそんな彼女を叱っているのをよく見た。然し宗介は彼女が桜の幹よりもずっと深い芯を心に持っていることを知っていた。
そんな幹に彼は長らく凭れかかっていたので、彼女が咲かす花の匂いも落とした花弁の形もある程度は知っているつもりだった。
こんなに長くいるのに此方に顔を向けない彼女は、顔も可愛らしい上、笑顔がまた無邪気さを感じさせるので将来何処へ行ってもやっていけると、確信はなけれども彼は何となくその様な気がしていた。
桜が舞う。花弁が落ちる。
千代が笑いながら桜を追いかけて駆けていく。
宗介はこちらを一度も振り返らない彼女の後ろを追いかけながら、心に悲しさと名残惜しさが滲ませた。
もし今自分が彼女の行く道と違う道に進んでもきっと彼女は気づかないだろう。
色々考えても結局彼女に着いてゆくのは、彼女とまだ一緒にいたいのか、それとも彼女の行く方がどうしても正解に見えてしまうからだろうかという問いは宗介の中ではまだ形を成していなかった。
多分、千代は放っておいてもずっと幸せの中で暮らしていくだろう。そもそも彼女自身が幸せそのものであるのだろう。
そんな事は分かっていながら後ろから彼女の幸せが永遠である事を願ってゆっくりと彼女だけを追っていた。
幸せになって欲しいのは彼女なのか、将又自分なのか
宗介は考えてもいなかった。
ただひとつ、散った桜は街ゆく人に踏まれて
ぐちゃぐちゃになっていた。
其れを第三の桜の趣ととるかは宗介次第である。
柊介は何気ないふりをして目の前の女の髪に触れた。
彼女の漆黒の髪は、光を反射させずに黒々と目に映るのに、触れた髪はするりと彼の手を抜け出してつるりと舞う。柊介はついその美しい髪を見て悲しくなって、眉頭に力が入った。今にも涙が出そうであった。
其の女は柊介の最も愛した女であり、また柊介でない他の男に明日嫁いでゆく女でもあった。
彼の最大限の努力は其の女の前では、一瞬にして姿を変えて脆くなった様である。
彼の顔に不甲斐なさと悲しさが滲んだ。
柊介は髪に触れた手を其の女の頬に持っていって、
触れない程度に気配を感じた。
触れていないのに、体温を感じた。
衣服が擦れて、仄かに甘い匂いすら感じてしまう距離であるのに女とは全く目が合わない。
柊介は込み上げる感情を押し込む様に一度目を閉じた。
そしてもう一度目を開ける時には一寸の歪みのない整った綺麗な顔で、微かに口角を上げていた。
彼は自分の気持ちに嘘をついて何気ないふりをして
彼女の方にあった手を自分の元に帰した。
無言の中で二人の間だけに一方的に彼の葛藤だけが煩く聴こえていた。
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ハッピーエンドで終わらせるのなら、
今この時が死ぬのに丁度良いと身をもって思うのです。
貴方と一緒になれて共に過ごせるこの時こそ、
最高の死に時でありましょう。
だからといって、この幸せ時に私は貴方を置いて死ねる程、自分の最期に拘っておりません。
もし、この時から段々と幸せがすり減ってゆこうとも、
貴方と一緒におれるというのなら私が死ぬ時は
どんなに苦しくても惨めでもよいのです。
貴方と共に死ねるのなら、
病にかかって痛くても、貧窮に陥って腹が減ろうとも、私にとってはハッピーエンドです。
ただ、我儘かもしれませんが、私の最期には貴方がいて欲しいのです。だからどうか健康には気をつけて貴方だけはずっと幸せであって欲しいです。
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男が妻になった心の綺麗な優しい女に、雪の降る中掛けたこの言葉において、男が懸念していた苦しみを伴った荒波は来る気配もなく、男は妻と共に最後まで平穏なまま幸せな生活を送った。
妻も男を心から愛していたので、男が四十年程前に話した願いを叶えてやった。
男は幸福の海の、深い、深い所で妻に見守られながら死んだ。然し悲しいことに、其の時から女の方の幸せは途絶えた様であった。
私には妻というものが御座いません────
死んだ両親が残した財産で職に付かずともあと五年は暮らしていけるのにも関わらず、世間の目を気にして、ある程度の地位は欲しいと考えた後、職を得るのに難渋していた誠二郎は数ヶ月前に訪れた古びれた布屋で、ある男に出逢った。其の男は老人並の落ち着きと慈悲深さを持ち合わせており、将来について思い悩んでいた誠二郎は尊敬の念を抱くようになった。布屋に通ううちに其の男は誠二郎に丁稚として働かないかと提案した。誠二郎はより一層彼への尊敬の念を深めながら、二つ返事で返答し働く事になった。すぐに誠二郎は彼を師と仰ぐようになった。
とても高いというわけではないが、それでも職を得て地位を確立した誠二郎は、次は女について悩み始めた。誠二郎はお見合いの話は何件か来たことはあるが、その縁談が決まるまでいくには若すぎる年齢だったのでまだ恋などという感情をはっきりと知らない平凡を極めた男だった。然し友人には二、三ほどもう妻を娶った者もいるのでどうしようかと頭を悩ませていた。
そんな誠二郎は師である布屋の男に相談をしてみた。
然し彼の返答は誠二郎を幻滅させた。
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私には妻というものが御座いません。私が貴方くらいの年齢の時には私も縁談やら何やらで人並の恋愛をするつもりでありました。然し、ある日から私は女というものが怖くなってしまったのです。女は男よりも計算高く怖い生きものです。…いや其れは最も私見ですがね。そんな事を思わせる恐ろしい出来事があったのです。
なので私は縁談も全てお断りして独りで生きていくことに決めたのです。そんな私は先ず仕事を一生懸命やりました。海外に行ったり東京で働いたり、女とは無縁の人生を歩んで参りました。
今となっては落ち着いて布を売っていますが、そんな私も恋、というものを最近羨ましく思えてしまうのです。二人の男女がお互いの気持ちを通わして心までもひとつにするというのはどんなに壮大な事か。女の怖さは歳を重ねるにつれて消化したのでしょう。今ではそんな経験をしておけば良かったと後悔しています。自分でその様な事を退けたのに、私は愚かですね。
然しもう出来ないと考えてしまうと、より一層欲しいと思うのです。ないものねだり、なのかもしれません。
なので私は女については貴方に何も言うことは済まないが、出来ないのです。最も、この歳になって幸運にも良い相手が見つかっても、夫婦になろうと思う程恋に魅入っているかは分からないのですが…。
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誠二郎は内心驚いた。何につけても一歩後ろから、最善を提案してやってのけるような其の男が、女につけては全然駄目だったことに驚いた。彼は全くもって完璧ではなかった。誠二郎が作り上げた彼の人物像とは全く違っていた事を知り、少し、彼への憧れがすり減った気がしてがっかりした。
そしてその日から誠二郎は彼を師と仰ぐようなことはなくなった。
まだ二十歳になったばかりの誠二郎は若さという残酷さを持ち合わせていた様であった。
まだ十八になったばかりの青年、弥助は暇を持て余して平日の真昼間に外に出た。列車に乗って付き合いの長い田所の家にでも行こうと思ったが金がない。仕方なくいつもと真逆の道を散歩する事にした。
少しいつもの道を外れると、もう其処は全くもって自分の知らない街だった。ただ一軒程跨いだ所であるのに、空気も、色も何もかも違う様に感じた。
弥助は単純に面白いなと思った。見た事もない花が的皪と輝いていたり、家に垂れている暖簾には余り聞かない言葉が生き生きと跳ねていたりと、弥助の目を強く刺激したので少し目眩がした。
坂道に差し掛かった辺りで途端に雨が降り出した。小雨だった。傘を持っていなかったので立ち往生した後、雨宿りが出来そうな所を見つけたので、止むまで此処に居ようと思った。
知らない街が、いつも通り静寂をかき消してゆく雨に降られていても、其処はまだ弥助の目には新しく映っていた。二十分程経ったのだろうか、いい加減目の前の景色に慣れてしまったが一向に雨は止む気配を見せない。
走って帰るべきかと悩んでいたその時弥助の後ろの戸が開いた。雨にも勝る音を立てて開いた。戸の奥には痩せた男が立っていた。落ち着いた色の着物を着て煙管を吹かせていたその男の顔はとても落ち着きを纏っていた。
その男は弥助を認識しても驚いた様子を見せず、雨が降っているのかと言った。其の男は手探りで如何にも洋風の高価そうな傘を取り出し弥助の方に差し出した。彼はすまないが此処まで取りに来てくれますか、と言った。
その男は盲目のようであった。
有難う御座います、と弥助は正直に傘を受け取った。
すると男は不図、今日はとても雨の匂いがしますねと言った。雨が降っているのだから当たり前じゃないかと心の中で思いながらも、弥助は其処で初めて雨の匂いを嗅いだ。その匂いは自分の若さを自覚させるような気がして余り好きではなかったが、この匂いが今までずっと近くに居たことを知って大変驚いた。男が住むこの辺りは弥助にとって新しいものであったと同時に弥助と男が感じるこの辺りの町の表情も全く違うのだと分かった。
二言程言葉を交わして弥助は其の家を後にした。
その傘は落ち着きのある香水と煙の匂いがして、弥助の鼻にも手にも直ぐには馴染んでくれなかったがそれすらも弥助に新鮮さを感じさせた。
五分程歩いたところで急にまた雨が弱くなって止んだ。其処はもういつもの道であった。
弥助はその道すらも懐かしさを感じて心が跳ねた。
ところにより雨が降ったその日の雨は、弥助に新しい風を吹かせながらやって来た。
弥助は部屋に戻っては窓を開けて、さっきまで自分がいた方角をみた。其処にはもう黒い雲はなかった。
また明日にでも御礼と共に傘を返しに行こうと思った。