Acogare

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3/15/2026, 9:23:50 PM

溢れた星は一つずつ掬い上げていけばよいのです。
縁壱は夢の中で優しい朗らかな声を聴いた。それは天の声であったか。まだ明け方であるのに飛び起きた縁壱は、泣いていた。大粒の涙が溢れた。一切の煌めきもない哀しみの涙だった。今日もまた中途半端な自分と共に生きていかなければいけない運命に絶望した。ただ何時もより早く起きてそれと共にいる時間が増えたのを憎むのに、相手は天でも神でも何でも構わなかった。
縁壱は幼少期から金に困らない生活をする位には裕福であった。其れに加え縁壱は賢かったので世の中というのを解った気でいた。然し成長を重ねるにつれ、彼は賢い故に自分の生きている理由というのが知りたくなった、いや分からなくなったのかもしれない。
何をするにも苦労しない生活というのは歳を重ねるだけで貫禄も何もつかない、其れに対しいつの間にやら心の水分だけ奪ってゆく。其れは楽しみや悲しみ、苦しみというのが他と違って無いのである。
見上げた空には溢れる程沢山の星が煌めいている。其れ自体はとてもちっぽけであるのに、自分で燦々と光っていたのだ。対して縁壱は、光れなかった。ずっと他より大きな石ころのままで、自分で煌めくほどの熱情も、泥臭さも持ち合わせていなかった。
枕元には煙管がひとつ。縁壱は其れをふかしながら今日も街ゆく人の影を追っていた。

3/14/2026, 10:00:53 PM

けいちゃん、けいちゃんと呼ぶ声がした。
媚びた香水の強い女の声ではない。砂糖が入った甘い紅茶のような声だった。
小雪か?、圭太郎は夢の中で目覚めた。そこは真っ白な夢の中だった。圭太郎は真横に座っている女の気配を感じ、其方の方に目をやった。それは小雪であることに間違いはなかった。顔の整った圭太郎には少し不釣り合いな容姿の女ではあったが愛らしい顔や声、きちんとした服装や所作など目には見えない小雪の全ての要素が上品で朗らかであった。圭太郎は小雪が大好きだった。
夢の中の女も、形や声、服装も小雪のもので間違いはなかった。しかしその女は丁度目に靄がかかった状態であった。それは小雪である、だが圭太郎は断定できずに彼女の名前を呼ぶ事が出来なかった。何故なら、小雪は安らかな瞳の持ち主であったからだ。何を見るのにもその安らかな瞳を向けるのである。端正な圭太郎は周りの欲望にまみれた瞳とは全くもって違う、その瞳に何回も救われたのだ。だから圭太郎は断定出来なかった。
安らかなその瞳は小雪そのものだと知っていたからだ。

3/13/2026, 11:57:59 AM

私が愛した人は、深紅が似合う気の強い女です。
幸之助は手紙を或る男から受け取った。その男は四十くらいでつい三週間前まで幸之助が経営している宿舎に泊まっていた、品のない髭を生やした男だった。幸之助が受け取った手紙は如何にもその男を思わせる粗雑な筆跡であったが、一文だけ妙に丁寧に書かれていた。
幸之助はそれ程親しい会話を交わした事のない男の意外な告白に驚いた。彼に見合わない筆跡や言葉の選びをみるに、この男は心の底から深紅の女を愛していたのだと思った。ふと幸之助はこの男の昨日を思った。彼は三週間前妻を貰ったので京都の方へ引越すらしく、宿舎を出て行った。彼が荷物を最後に取りに来た時に幸之助が見た彼の後ろを付いていた女は新緑の似合う年齢に見合わない愛らしい雰囲気の女だった事を思い出した。
幸之助はただ深紅の女に見放されたか、悲惨な別れを遂げたか分からない下衆の男の叶わなかった恋の苦さと共にその手紙を破って捨てた。
何故なら幸之助は彼とは違い、自分の宿舎に一昨日から泊まっている女に一途な恋をしていたからである。
そして不幸にも彼女もまた深紅が似合う女だったのだ。
幸之助はもう二度と会うこともないだろう男の失恋に無駄に振り回されたくなかった。

3/12/2026, 1:23:17 PM

修蔵は母に買物を頼まれ大通りを歩いていた。青年と呼ばれる年も過ぎ一人前としての生活にも慣れてきた筈であるが、それでも他人から青年と見られる位の爽やかさを持ち合わせていた彼には女の影は一切なく、修蔵も其れを気にし始めていた。街ゆく人の姿を朧気な形で捉えながら歩く彼の目にふと、小柄であるが華やかさを身に纏う女の形がはっきりと映った。彼女は鴉色の美しい髪に桜色の髪飾りをしていたが一切顔が見えなかった。ただ、何故か彼女は修蔵の目を引きつけて離さなかったのだ。修蔵は単純にこの女との接点が何でもよいから欲しいと思った。そこで彼は初めてはっきりと辺りを見渡した。彼は霧がかかった色彩を見た。そして目の前の花屋に駆け込み、その中で最も目を引く場所に置かれた薔薇を一輪買い、彼女を追いかけた。修蔵の目がその女をもう一度捉えるまでに一秒もかからず、彼は小走りで近づいて「お嬢さん」と話しかけた。小柄な身体で小さく驚いて髪を揺らしながら振り向いた彼女の顔は透き通るほどの白さで、髪がかかった瞳は修蔵の心を引き込むには十分すぎる黒さだった。その時修蔵は後悔した。
彼女に薔薇の花は似合わない、彼女は白百合だったのだ。修蔵はただこの女をもっと知りたいと思った。

3/12/2026, 10:01:55 AM

啓太郎は考えた。静寂に包まれながらただ自分の心にある蟠りに触れる時間は平穏と呼んでよいものか。それが日常になればその蟠りはまた、自分の心を落ち着かせる平穏の一部となってくれるのだろうか。そんな事で心を悩ませながら彼は昨日出て行ったお淑やかで地味な女の姿を頭に浮かべた。彼女もまた平穏な日々を求めて砂時計と共に消えた様であった。

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