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桜が散る音を聴いた。
多分あれは本当に桜が散った音であった。


身体が弱く、家の奥の薄暗い部屋で長い間看病されている杏介という若い男がいた。彼はひとりで立つことができないので、歩いた時の顔に受ける空気の優しさも、世界の形が常に変わりゆく事も彼は知らなかった。
長年、同じ天井ばかり見てきた。

無機質なもので溢れかえる彼の視覚には唯一、彼が全てを目で追いきれぬ、元気で可憐な女の子がいた。
彼女は事ある毎に杏介の部屋に来ては、楽しそうに其れを話した。
杏介は足音と共に新しい季節の訪れを教えてくれる彼女を、鳥の声すら聴こえぬ部屋で毎日待っていた。

季節は春。
満開の桜の美しさを人々教えようと可愛く鳴く鶯の声は当然杏介の耳には届かない。
然し鶯よりも快活な彼女の声も何故か其処にはなかった。毎日来ていた彼女が最後に杏介の部屋に来てから、もう五日も経っている。最後に来た日は確か桜が家の前に綺麗に咲いたことを教えてくれた日だった。

二日経った。まだ彼女は来ない。
三日経った。まだ彼女の声すら聴こえない。

………十日経った。一週間はとうに過ぎている。
日光の降る外の世界ではもう桜が散り終わっただろう。然し杏介は見たこともない桜が、今頃、見事に美しく散っているような気がした。
可憐に宙を舞うように、ひらひらと。其れでも、杏介の部屋には桜の花びら一枚すらも訪れなかった。

杏介が聴いた桜の終の音は、薄暗い無機質な部屋の、
長い長い無音の音だった。
重ねて、その無音に似合う小さな涙の流るる音がした。

4/18/2026, 7:51:12 AM