敬太郎は二十にして小説家であった。
一日中家に閉じ篭り筆をとっては頭を悩ます生活を送っていた。幸運にも彼には文の才があり、彼の書いた書物は怠惰な生活が出来るくらいには人気を博していた。
そんな彼は少しばかり変わった女に密かに惚れていた。彼女は隣に住む二十くらいの女で、明け方四時位に敬太郎が朝の空気を吸いに外に顔を覗かせると、彼女もまた一つ段違いの窓から顔を覗かすのだった。ただ其れだけの間柄であったが敬太郎は、何時も少し赤い頬に黒眉の同じ時間に窓を開ける彼女に興味を持っていたのだ。
ある早朝、敬太郎は十分ほど寝坊をしてしまった。もう彼女は其処に居ないだろうと予想していたが、少しばかりの期待を胸に急いで窓を開けた。この時の彼は恋する男と云うより万物に目を注ぐ梟の如き小説家であった。
運が良かったのか悪かったのか、彼の予想は全くの検討はずれであった。彼は明け方に見合わない大きな音を立て窓を開けて彼女が何時もいる方を見ると、すぐに彼の目は気配を捉えた。其れは正しくその女の美しい目であった。彼女も又彼を見ていたのだ。彼女は敬太郎を見ると少し赤い頬を一層赤らめて影を残して消えた。
敬太郎はこの時、物凄く傲慢で愚かな勘違いをした。
敬太郎は次の日にはもう彼女宛に恋文を書いた。その手紙を書くのにも頭を悩ませたが一日で書き終えた。
其れよりも彼女の家の郵便受けに其れを入れる事の方が時間が掛かった。
拝啓
朝の空気というのはとても美味しく、半日ぶりに身体を乗り出して此方を照らしてくれる太陽を私は毎朝ふたつ見るのです。また何時か半日とは云わず隠れているその時間も私はお供したいと思っています。
敬具
敬太郎は手紙を出して自分の部屋に戻ってきた時、もしかしたらあの文章は随分遠回しすぎたかと思った。
彼は文の才があった。それ故自分の気持ちを直接的に表現する事において少々怖がりだったのかもしれない。
敬太郎は巧みな言い回しで言いたい事と少しずつ違った言葉を選んで、選びぬいて彼女に贈った。
明け方に空を見上げる彼女に、自分の言葉がちゃんと伝わっている事を願って、書き途中の小説の主人公に「愛しています」と言わせた。
3/17/2026, 9:33:02 AM