『心の深呼吸』
昔、何かがあって、無性に悲しくて泣いたのを覚えている。
他人に泣いているのを悟られたくなくて、枕に顔を押し付けて喘ぐように、声を押し殺して泣いた。
ヒックヒックとしゃくり上げるのがなかなか止まらなくて、更に枕に顔を押し当てていたせいで息も上手くできなくて、軽い窒息状態にあった。
だんだんと酸欠になって、頭に軽いモヤがかかって。
次第に何故自分が泣いていたのかも忘れて、ボーッとしてしまったあの夜。
今は違う。
今は映画を見て泣くし、悲しい出来事があると泣く。
とりあえず感情が動けば泣く。
その時、絶対に声を押し殺さないでワンワン泣くのだ。
そうすれば深く息を吸えるから、あの夜のような、自分一人だけが先の見えない海で小舟で揺られている想像なんてしなくて済む。
ボーッとあるのかも分からない地平線を想像して、見つめて、悲しくなって泣く、なんてことをしなくて済む。
深く息を吸って、俺は今日も泣く。
泣いたらスッキリして、心が楽になるから。
『時を紡ぐ糸』
ぼくは蚕です。
卵生まれの桑の葉山育ち、脱皮は4回目が終わってもう少しで5回目の脱皮をしたいな、なんて思っている普通の蚕です。
今日も、大きな肌色のナニカが桑の葉山を大きくしました。モリモリ食べて、脱皮のために力をつけます。
5回目の脱皮が終わった蚕です。
ぼくが生まれてから、だいたい一月が経ちました。
周りのみんなと『もうそろそろサナギになりたいね』なんて話をしています。
ぼくは決めました。
明日、サナギになることにします。
大きな肌色がぼくの背中を撫でてくれるのが好きですが、サナギになって羽化して、飛べるようになったら大きな肌色にまとわりつきにいこうと思います。
大きな肌色を、僕が撫でるのです。
サナギになるためには、繭を作らなければなりません。
繭を作るのに、2、3日かかってしまいます。
ぼくが生まれてから初めての大作業です。
でも、成虫になるために頑張ります。
頑張って、「空」というところを飛ぶのです。
サナギになれば、成虫になるまで1度お休みします。
だから、また成虫になってから会いましょう。
ふふ、楽しみだなぁ。
「お、今日は沢山繭になってるな。じゃあ、鍋で煮ようかな。」
グツグツ、グツグツ。
「よしよし、良い絹糸になるんだぞ。」
ぼくは蚕です。
ぼくの成虫になって「空」を飛んで、大きな肌色を撫でる夢は潰えました。
ぼくは今、繭だけ取られて糸になりました。
ああ、サナギになりたいって言うんじゃなかった。
ぼくは刺繍糸になりました。
『落ち葉の道』
「お兄さん、そこのお兄さん!」
いつものように道を歩いていると、後ろから話しかけられた。
振り返ると、小さな少女がこちらに向かって手を振っていた。
「……なんだ、ポプラの精霊か。」
「ポプラじゃないですよぅ、あんな植物と一緒にしないでください。アタシは涼風の精霊ですぅ。」
「風の精霊?それにしちゃあ、ずんぐりむっくりだな。」
「レディーに向かって失礼な!」
「……それで?なんで俺に声をかけたんだ?」
そう尋ねると、ずんぐり……涼風の精霊は途端に申し訳なさそうな顔をして言った。
「お兄さん、落ち葉を集めてきてくれない?」
「ほら、これでいいか?」
俺は特に急ぐ用事もなかったし、何より精霊に嫌われたら何をされるか分かったものではないから、お望みのとおりに落ち葉を集めてきてやった。
「わーい!そうそう、これですよ!」
「ただの落ち葉にそんなに喜べるんだな……で、何をするんだ?焼き芋か?」
「ブッブー、違いますぅ。アタシ、最近木枯らしの精霊に乗っ取られかけてるんですよねー」
「は?」
意味がわからない。精霊が乗っ取られる?
「ほら、アタシたちって現象が形を持ったものじゃないですかぁ。最近秋が短くて、秋の精霊たちが夏とか冬固有の精霊に乗っ取られてるんですよー。」
涼風の精霊曰く、現象そのものが風化してしまったり、気候変動で消えてしまうと精霊も一緒に消滅してしまうのだそうだ。
「君も消滅の危機にあるということか?」
「そーゆーことです。でも、タダで乗っ取られたくないので、落ち葉をうんと遠くまで飛ばして、マウントを取ってやるんです!」
なんだか、不思議な感覚だ。精霊に特有のものだろうか?
「だから俺に落ち葉を用意させたんだな。」
「そうです!じゃあ今からやりますから、お兄さんは見ててくださいっ!!」
途端に真剣な表情になった少女を、俺は知らずのうちに息を止めて見守る。
『北の客人、鈴なりのツリガネ。お前は冷たい顔を当て、我らに息を吹きかける』
ビュウビュウ、と風の音が聞こえる。
気づけば俺が集めた分以外にも、周りに落ちていた落ち葉が風に飛ばされていく。
「どうだ、見たか木枯らし!アタシの力を見て怯えたなら、もっとアタシの出番を増やしなさいよね!」
風が吹き続けている。
風に乗って落ち葉が道を作る。
その上を、(体重が心配になるが)あの涼風の精霊が歩いていた。
ああ、今年の秋はまだ終わっていない。
『君が隠した鍵』
「ねぇ、あなた。」
なんでもない日曜日の午後。
『夫婦で一緒に何かする』とだけ決めているその日に、妻が映画を見ながらポツリと言った。
「映画って、感情移入し過ぎちゃうから、アタシ嫌いだわ。」
俺たちが高校生だったくらいの年に流行っていたロマンス映画を見ながら言うセリフじゃないだろう、と思う。
「嫌いなら、見なくていいじゃないか。そもそもこれはお前が見たいって言ったんだろう?」
「……それとこれとは違うの。」
何が違うと言うのだろう?妻の言うことは時々難しい。
その映画は、ありきたりの恋愛映画だった。
男女が一夜の恋に燃え上がって、でも結局日常に戻らざるを得なくなる、といったふうのいわゆる悲恋。
妻はもう何度もこの映画を見ているはずなのに、また性懲りも無く泣いていた。
「……もう、やだ。見たくない。」
何度もそう言うのに、結局見てしまう。そして、また泣く。
「映画って、入り込ませるのに特化しているのに、入り込んだ私は何も出来ないのがとてももどかしいの。アドバイスして、すれ違いを直してやりたくなる。」
鼻を啜りながら、涙声で妻が言った。
「……それは、作り手冥利に尽きるってやつじゃないのか。お前がそんなに入り込めるってんだから。」
「うん。……でも、映画には心がないの。監督の心があって、俳優達の心が詰まっている、心でできた1つの集大成なのに、映画には心がないの。」
出来上がったのは、ただのモノだから。
「それが寂しいの。アタシは映画の心を癒したい。映画の心に入り込んで、一緒に考えたいのに、映画には心がないのよ。」
正直、妻の言っていることは半分も理解できなかった。
「俺としては、今のお前の心に入る鍵を探したい気分だよ。お前になりきれば、言いたいことも理解できるのかね。」
「あなたはあなただから良いのに。アタシになってしまったら魅力が半減だわ。だから鍵は隠しておくわね。」
そう言って、妻は泣いて赤くした目元を緩ませて笑った。
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あまりにも駄作ですね。
『手放した時間』
「この魔法を使うと、君の病気はたちどころに治る。」
胡散臭い見た目の自称魔法使いが、病床の私に向かって言った。
「でも、1つ重大な欠点があるんだ。」
「……なに?」
「君は不老不死になるのさ。病気1つしない健康な体になりすぎるってやつだね。」
沈黙。
私の喘ぐような細い息が、静かな部屋に響く。
「良い。それで良いから、病気を治して。」
私にはまだ幼い弟がいる。あの子には私しか残っていないのだ。
だから、死ぬ訳にはいかない。
「弟さんのため、だっけ。」
魔法使いが目を細めて尋ねる。
「そう。私が死んだら、あの子が困る。」
「……。魔法をかけるよ。」
どこからか古びた杖を取り出した魔法使いが、杖の先を私に向ける。
「勇気ある君に1つ忠告だ。不老不死ってのは、思ったより『人間でなくなる』ってことだよ。」
「なんでもいい、から早く。」
「はぁ…。忘れないでね。」
魔法使いがブツブツと何かを唱えると杖が光った。
その日、私は病気が治って、不老不死になった。
「ありがとう、姉さん。」
小さかった弟が何十年と生きて、笑顔で息を引き取った。
「こちらこそ、弟よ。」
私はこのために不老不死になった。
そのことに後悔なんてしていない。
弟が最後の家族だったから、しばらくは彼や彼の家族との思い出に浸ろう。
そう思ったところで、違和感を覚えた。
「思い出ってなんだっけ。」
旅行に行ったり、楽しかったり苦しかった思い出があったはずなのに。
私の中では、いつの間にか『数ある毎日のうちの1つ』として処理されてしまっていた。
「あれ、あれ、?」
探しても、探しても。
頭を辿った先には、沈みかけた『日常』だけが靄のようにたゆたっているだけ。
「なんで、もっと楽しかった思い出があるはずなのに。」
どうして、何も無いのだろう。
不老不死になった私は、何か重要なイベントがあっても『日常の延長』としか思えなくなってしまった。
気づかないうちにとても大事なものを、手放してしまった。