海の底って宇宙みたいだな。
宇宙が好きな男はそう思った。
海の底は暗くて静かで、遥か彼方にキラキラと輝くものが見える。
手を伸ばしても届かない。
近付き過ぎたら翼は溶けてしまうから。
堕ちていく。意識と共に、底の方へと。
でも思ったよりも暖かくて、心地良くなって、目を閉じた。
まるで宇宙に放り出されたようで、なんだか幸せな気持ちになった。
浴槽の底で発見された男の顔は、どこか幸せそうな顔をしていた。
『海の底』
桜の花びらが静かに舞っている。
大きく枝を、花を、広げているその桜を見上げて、そっと思い出す。
君のいなくなった季節がまたやって来たよ。
あれからどれだけの時間が巡ったのだろうか。
暖かい陽射しが僕を包む。そんな、優しい季節がまたやって来た。
君はそちらで元気にしていますか?
随分ともう、姿を見ていないけれど。もう、二度と君には会えないけれど。
君がいなくなって、そうして、僕らの心にちくりと、棘のように残していったものが痛い。それは、僕らの罪だろうか。君を救えなかった罰だろうか。
あの頃、「苦しい」と泣いた君が、今、もうここにはいない。
あの頃、「会いたい」と泣いた僕は、今、この季節を、この世界を噛み締めている。
せめて――君の旅立ったその先が、こんな風に暖かい場所でありますように。桜の花びらが舞う、そんな優しい場所でありますように。
『君に会いたくて』
実家にある倉の中を探険していた。子供が探検したいと言うからだ。
「危ないからいたずらするなよ」と子供に声を掛けるが、内心自分もわくわくしていた。小さい頃から何があるのか気になっていた。
工具や農具、木棚の影に隠れ、古い木箱があった。
それをなんとなしに開いてみると、木箱の奥底に一冊の古い本が入っていた。どうやら日記帳のようだ。
日記帳には白黒写真と、殴り書きのような文字が綴られていた。
その写真を見て驚いた。祖父か、それよりももっと前のご先祖様かはわからないが、自分にそっくりな人物が写っていた。
日記帳を読んでみる。
『憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い
私を捨てるあの男が
私の場所を奪うあの女が
二人の間に生まれたあの子供が
呪ってやる
全員呪ってやる
呪う』
そこには、恨み辛みが綴られていた。
嫌な気持ちになりながら、静かに日記帳を閉じる。直後、突然背後が冷たく感じた。
――何かいる。
冷や汗が額に浮かんで流れ落ちた。
『閉ざされた日記』
木枯らしが吹いた。
着ていた上着が薄くて、体が小刻みに震えた。
さっさと帰った方がいいとは思ったが、今日は絶対に譲れない予定があった。
君と一緒に出掛けるって約束をした。
そして、その時、気持ちを伝えるって、決めたんだ。
君が約束の場所で待っている。
君は僕の姿を認めると、「遅い!」と笑いながら言った。
その笑顔もかわいくて、僕は――、
木枯らしが一層強く吹いた。声は風に乗って掻き消された。
「え? 何?」
息を切らして、笑う君のすぐ傍へ。
今度こそ君の耳に届くように。
『木枯らし』
君が笑う。僕に向かって。
「あはははは。いい気味! その格好がお似合いね!」
校舎の裏庭で殴られ、蹴られ、水をかけられ、ボロボロになった僕に。
笑った君に向かって、僕もへらりと笑う。
「……何笑ってんのよ。気色悪いわね!」
更に蹴られる。
鳩尾に当たり、息が一瞬できなくなる。
「はぁ……はぁ……。すっきりした……。もう帰るわ……」
疲れた表情で君が去っていく。
その後ろ姿すら美しい。
高笑いしている君も、憎悪を向ける君も、見下したような表情を浮かべる君も、蔑むような目で見る君も、僕にたくさんの感情を向けてくれる君は、とても美しい。
また明日も、美しい君と一緒にいたい。
『美しい』