桜の花びらが静かに舞っている。
大きく枝を、花を、広げているその桜を見上げて、そっと思い出す。
君のいなくなった季節がまたやって来たよ。
あれからどれだけの時間が巡ったのだろうか。
暖かい陽射しが僕を包む。そんな、優しい季節がまたやって来た。
君はそちらで元気にしていますか?
随分ともう、姿を見ていないけれど。もう、二度と君には会えないけれど。
君がいなくなって、そうして、僕らの心にちくりと、棘のように残していったものが痛い。それは、僕らの罪だろうか。君を救えなかった罰だろうか。
あの頃、「苦しい」と泣いた君が、今、もうここにはいない。
あの頃、「会いたい」と泣いた僕は、今、この季節を、この世界を噛み締めている。
せめて――君の旅立ったその先が、こんな風に暖かい場所でありますように。桜の花びらが舞う、そんな優しい場所でありますように。
『君に会いたくて』
実家にある倉の中を探険していた。子供が探検したいと言うからだ。
「危ないからいたずらするなよ」と子供に声を掛けるが、内心自分もわくわくしていた。小さい頃から何があるのか気になっていた。
工具や農具、木棚の影に隠れ、古い木箱があった。
それをなんとなしに開いてみると、木箱の奥底に一冊の古い本が入っていた。どうやら日記帳のようだ。
日記帳には白黒写真と、殴り書きのような文字が綴られていた。
その写真を見て驚いた。祖父か、それよりももっと前のご先祖様かはわからないが、自分にそっくりな人物が写っていた。
日記帳を読んでみる。
『憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い
私を捨てるあの男が
私の場所を奪うあの女が
二人の間に生まれたあの子供が
呪ってやる
全員呪ってやる
呪う』
そこには、恨み辛みが綴られていた。
嫌な気持ちになりながら、静かに日記帳を閉じる。直後、突然背後が冷たく感じた。
――何かいる。
冷や汗が額に浮かんで流れ落ちた。
『閉ざされた日記』
木枯らしが吹いた。
着ていた上着が薄くて、体が小刻みに震えた。
さっさと帰った方がいいとは思ったが、今日は絶対に譲れない予定があった。
君と一緒に出掛けるって約束をした。
そして、その時、気持ちを伝えるって、決めたんだ。
君が約束の場所で待っている。
君は僕の姿を認めると、「遅い!」と笑いながら言った。
その笑顔もかわいくて、僕は――、
木枯らしが一層強く吹いた。声は風に乗って掻き消された。
「え? 何?」
息を切らして、笑う君のすぐ傍へ。
今度こそ君の耳に届くように。
『木枯らし』
君が笑う。僕に向かって。
「あはははは。いい気味! その格好がお似合いね!」
校舎の裏庭で殴られ、蹴られ、水をかけられ、ボロボロになった僕に。
笑った君に向かって、僕もへらりと笑う。
「……何笑ってんのよ。気色悪いわね!」
更に蹴られる。
鳩尾に当たり、息が一瞬できなくなる。
「はぁ……はぁ……。すっきりした……。もう帰るわ……」
疲れた表情で君が去っていく。
その後ろ姿すら美しい。
高笑いしている君も、憎悪を向ける君も、見下したような表情を浮かべる君も、蔑むような目で見る君も、僕にたくさんの感情を向けてくれる君は、とても美しい。
また明日も、美しい君と一緒にいたい。
『美しい』
『――次のニュースです。昨日――で起きた殺人事件について――』
くだらない出来事を垂れ流すテレビを切った。
最近暗いニュースばかりだ。毎日どこかで誰かが死んで、誰かが悲しんでいる。
「物価もどんどん上がってるしよー……」
誰に言うでもなく、一人呟く。
ワーキングプア。ギリギリの生活をしている人間にとっては、辛い話だ。
――そろそろ限界か。いい加減、転職しようか?
そんなことを考えながら、パソコンを開いて転職サイトなんて覗いてみる。
その時、アパートの一室であるこの家の、玄関の扉の方からガタンと音がした。
見てみると、それは選挙のお知らせだった。
そういえば、もう選挙の時期だ。おかげで最近外がやたらに騒がしい。どいつもこいつも必死だ。
――くだらねぇ。
封筒を開けることもせずに、ゴミ箱へと投げ捨てた。
こんな屑みたいな小さな人間の一票なんかじゃ何も変えられない。大体投票したい先なんてありゃしない。公約なんてものは守られやしないし。誰も彼も皆、自分の利益しか考えていない。誰に入れても一緒。変わらない。
本当は、そんな考えでは駄目だと理解していても。弱者は強者に従うだけ。
この世界は緩やかな地獄だ。
何の為に生きているのか。働いて、稼いで、食べて、寝て、起きて、その繰り返し。
そんな藻掻くほど痛くも苦しくもないだろう、緩やかな地獄の底にいる弱者。一人で地獄の底を這いずり回っている。
――どこで間違えた? どうしてこんな風に生きているのだろう。
まるでゲームのように、どこかで現れた選択肢で、BAD ENDのルートを選んでしまったのではないか。
だとしたら、その中の正しい選択肢を選んだ自分がどこか別の世界に存在していて、そこの自分は幸せにやっていたりするのだろうか。
幸せに笑っている自分が存在しているなら、それは思うだけで幸福なことだ。
しかしそれならば、今ここにいる自分以上に不幸せな自分も、別の世界に存在していることもあるのだろうか。
最近購入したロープを、まさに今、首にかけている自分が存在する世界がどこかに。そんな自分が存在しているなら。
――哀れだな。
そうしてまだ、自分は緩やかな地獄で生きている。
『この世界は』