お題『きっと明日も』
「わあぁぁぁんっ! ふぇね、いない……ふわぁぁぁん……」
しまった、ハウレスに頼んでいたけど、気がつかれてしまったらしい。寝室から主様の泣き声が聞こえてきた。早く帰らないと。
控えめに、ごくごく控えめにノックをして主様の寝室に身体を滑り込ませた。そこにいたのは……。
「主様、だめです! フェネスならすぐに戻ってきますから!」
「はうれす、やー! ふぇねす、ふぇねす!」
いや、というのは本気ではない。その証拠に主様とハウレスは日中よく一緒に遊んでいる——ハウレスの腕立て伏せの背中に主様が馬乗りになるという、遊びなのかどうなのかよく分からないけれど、主様が喜んでいるからまぁいいか、といったところだけど。
「あ、ふぇねす!」
俺に気づいた主様のお顔は涙でぐしょぐしょだった。
「ああ、やっぱりフェネスじゃないと添い寝は無理だな」
助かったと言わんばかりに苦笑を漏らし、ハウレスは主様の手を取ってそこに軽く口づけを贈った。
「主様、おやすみなさいませ。どうかいい夢を」
寝室から退出していくハウレスの背中に向かって「ばいばーい」と振った手でもって今度は俺の身体にしがみついてくる。
「ふぇねしゅ、だいしゅき……いっちゃ、やー……」
そのまま寝息を立て始めた。
主様のことはお慕いしているけれど、夜泣きと後追いには少し参るなぁ。
でも、これも今だけだと思うと愛しくもある。
「ふわ……ぁ……」
なんだか俺も眠くなってきた。
おやすみなさい、主様。きっと明日も素敵な一日になりますからね……。
お題『香水』
「フェネス、今日はいつもと違う匂いがする」
主様はそう言って、鼻をスンと鳴らした。
「いつも使っているヘアオイルの香りと喧嘩しないフレグランスをつけてみたのですが……おかしいでしょうか?」
先日買った、ベースノートにムスクの香りも入った香水は、嗅いで気に入ったと同時に少し期待したのだ……その、主様にも気に入っていただけるといいな、なんて。だって、ムスクは、ジャコウジカの雄が雌を誘惑する香りだから、少しでもあやかれるかな、って。
俺の気持ちを知ってか知らずか、主様は少しだけ面白くなさそうに唇を突き出した。
「フェネスだけずるい」
思いがけない反応に、瞬きの回数が増えてしまう。
「そんな楽しそうなこと、ひとりだけずるい。私もフェネスの香りと調和する香水が欲しかったなー」
「あ、ああ、主様!?」
思った以上の反応に、俺の顔に熱が集まった。
「音楽会まで時間があるから、香水屋さんに立ち寄ってもいい?」
もちろん、俺の返事は——
それは、主様と音楽会を聴きにエスポワールの街に向かっている馬車の中でのお話。
お題『突然の君の訪問』
主様の16歳のお誕生日の翌日。
俺は約16年間にわたる担当執事生活の幕を閉じた——はずだった。
今日から主様の担当執事はハウレスだ。完璧主義のハウレスになら主様を任せても安心だと思う。
それにしても、俺は主様をお育てしてずいぶん変わったと思う。どうしようもなく卑怯で臆病者で泣き虫だった俺を救ってくれたのは、紛れもなく主様の存在だ。
主様が生まれてからというもの、泣いてる暇なんてほとんどなかった。主様がいるから卑怯な姿はお見せできないと思ったし、主様をお守りするために臆病でいることなどできなかった。
350年近くの人生の中で、たったひとときの親子ごっこだったかもしれない。無償の愛を捧げてきたつもりだったけれど、だけど実は逆で、俺が主様から無償の愛を受け取ってきたのだ。【親はなくとも子は育つ】というけれど、【子供がいるから親は育つ】ということがよく分かった。
俺は書庫の整理をしながら、後で育児生活の総括を日記にしたためるべく日々感じたことを反芻していた。
午後3時がきた。主様のお茶の用意をしなくては……そう思って日記から顔を上げて、担当執事ではなくなったことに気がついた。少し寂しくはある。
うーん、なんだかスッキリしない。
「こういうときは、ランニングかな」
近くの湖までひとっ走りすれば気分が晴れるかも。
しかし主様とお散歩した記憶が邪魔をして、胸のモヤモヤは解消されない。それならば筋トレだ。
けれども、これも主様を背中に乗せて腕立て伏せをした記憶と結びついて、ついに寂しくなってしまった。
これが空の巣症候群……? いや、でもまだ1日目だし、環境の変化に慣れていないだけかもしれないし。
夜、主様が寝付くはずの時間が過ぎた。
そろそろハウレスが仕事を終えて執事室に戻ってくるだろう。主様が1日どう過ごされたのか聞きたくて、このあと一杯付き合ってもらうことに決めた。
琥珀色の液体で満たされた瓶と、ロックグラスをふたつ。
——しかし、いくら待ってもハウレスは戻って来なかった。
まさか、主様と何かトラブル? いや、あのハウレスが何かするとかあり得ない。でももしも何かあったら俺はどうすれば……?
あまりにも気になり過ぎて、とうとう俺は主様のお部屋へと足を運んでしまった。
中からクスクスと笑う主様の声が漏れ聞こえてきた。それから「参りました」とハウレスが何やら降参している声。
「フェネスを呼んできます」
コツコツと革靴が床を叩く音が聞こえてきて、まずい! と思った時には扉が開かれていた。
「……フェネス、どうしてここに?」
「や、やぁ、ハウレス……戻ってこないから、どうしたのかな、って」
まさかハウレスを疑っていたとか、おくびにも出せない! しかしそんな俺の心中を知らないハウレスは「ちょうどよかった」と言って俺を室内に押し込んだ。
「俺の睡眠サポートだと安眠できないと言われてしまった……後は頼んだぞ」
そしてそのままハウレスは出ていってしまった。
「あ、主様?」
なんで? どうして? そんな言葉が頭の中をぐるぐると駆け巡った。
「ずっとフェネスに寝かしつけられてきたから、なんだか落ち着かなくて。ハウレスに悪いことしちゃった」
そう言って、まったく申し訳なくなさそうな顔をしていらっしゃるのは……
「フフッ」
思わず笑ってしまった。
「あー! 私のこと、子供っぽいって思ってる!」
「すみません、そうではなくて」
むくれる主様に、ほんのわずかしかない前の主様のお話をすることにした。
「前の主様が『フェネスが手を焼くような親子になる』って、俺におっしゃったのです。そのときの話し方と寸分違わぬ表情をされていたので、つい」
そのついでにいろいろ話し込んでしまった。
気がつけば主様は夢の戸口に立っていらっしゃったので、その背中を押して俺も自分の部屋へと引き返した。
お題『向かい合わせ』
主様が16歳になられた。
執事たちは皆口々にお祝いの言葉を述べていく。俺もその中のひとりだ。
「主様、お誕生日おめでとうございます。ひとりの人としてすっかり立派にお育ちになられて、俺も嬉しいです。
でもその一方で……もう育児が終わってしまったんだな、と思うと寂しく思う俺もいます。俺の名前を呼びながら一生懸命ハイハイをなさっていたのがつい先日のように……」
あ、だめだ、このままだと泣いてしまう。それを悟られたくなくてレンズを拭くふりをしてモノクルを外せば白いハンカチが差し出された。
「もう、フェネス、おおげさ。それじゃあまるで結婚式のスピーチじゃないの」
すみません、とハンカチを受け取り涙を拭えば、そこには前の主様に瓜二つのお顔がある。
結婚式、という言葉で思い出した。
「あの……よかったら前の主様——お母様のお写真をご覧になりますか?」
主様は目をぱちくりさせている。
「嘘……写真があるだなんて、聞いてない……」
「ええ、今までお話しませんでしたからね」
すぐにご用意します、と言い残して一旦2階の執事室に戻った。棚に眠らせている膨大な日記帳と主様からいただいた絵などの奥に、目的のアルバムが眠っている。
主様がこの屋敷にやってきてすぐの頃に撮った、エスポワールの写真館の宣伝用に撮影したウェディング姿の、前の主様と俺の写真。雰囲気作りのためとはいえ、愛の誓いを立てさせていただいたのも記憶に新しくて頬に血が集まってくる。
「今は感傷に浸ってる場合じゃない」
本来の目的を果たすべく、主様の部屋に向かった。
アルバムを広げた主様はしばらく無言で見入っていた。
「おかあさん……」
そう呟くと、堰を切ったように涙を流し始めた。俺がハンカチを差し出せば、目元をゴシゴシ拭い、ついでに鼻をかんでいる。
「やだ、大袈裟なのは私の方だわ。ごめんね、フェネスとお母さん。私、今猛烈に嬉しさと嫉妬でぐちゃぐちゃになってるの」
「嫉妬、ですか?」
「そうよ、嫉妬よ。私より先にフェネスとウェディングドレス着て幸せそうに笑ってるのがこの上なく悔しいの! でも……」
主様の人差し指が、前の主様の輪郭をやさしく撫でた。
「お母さん、ちゃんと幸せだったのね。……よかった」
お題『海へ』
主様を水の都・ヴェリスにお連れしたことがある。
「悪魔執事の主の情操教育にいいのでは?」とフィンレイ様が言ってくださったおかげで、3歳だった主様ととある貴族のプライベートビーチに行ったのだった。
これはそのときの記憶。
衣装係のフルーレに手伝ってもらい、水着にお着替えした主様が登場した。その場にいた執事たちは全員両手で口を覆い、それからたっぷり3秒は置いて「かわいい……」とため息混じり。
その気持ちもよく分かる。俺も屋敷で水着を試着したお姿を見て膝から崩れ落ちた。ツーピースのデザインは、トップスがパフスリーブになっていて、そこにボリュームがあるので幼児体系特有のぽんぽこおなかをカバーしている。パンツもかぼちゃを彷彿とさせるラインで、こちらもまた体型補正として申し分ない。
そんな俺たちの視線などどこ吹く風、主様は早く海に入りたくてウズウズしている。
「主様に日焼け止めはもう塗った?」
フルーレに声をかければ、はい、と軽やかな返事。
「念入りに塗りましたから。さぁ、いつでも海へどうぞ」
楽しそうに歌う波しぶき。
真っ白に焼けた砂浜。
空高く響くカモメの鳴き声。
そして俺の左手には主様の右手。
俺にとって、この状況が楽しくないわけがない。いつものように片膝をついて主様を抱え上げようとした。
「さぁ、行きましょう。主様」
しかし主様は俺の抱っこを拒否する。
「どうされたのですか?」
「わたし、あるきたいきぶんなの」
近頃は前にも増して自己主張がはっきりしてきたので、それが間違った主張(例えば誰かを傷つけたり貶めたりするようなもの)でなければ、割と何でも聞き入れている。
「そうでございますか。それでは波打ち際まで一緒に歩きましょうね。足元にご注意ください」
キュッ、キュッ。
2、3歩歩くと足元で音が鳴り、主様の表情がぱあぁっと輝いた。
「きれいな砂浜は歩くと音が鳴るんです。お気に召していただけましたか?」
主様はコクコク頷きながら何度も何度もその場で足踏みを繰り返している。その様を浜辺待機組も水中待機組も頬を緩めながらのんびり見守っているらしく、誰も急かしたりなどしない。
しばらく足音を堪能していた主様も、いよいよ穏やかな波打ち際へと歩き始めた。
しかし主様は水面まで僅か1メートルほどのところで立ち止まってしまった。
「ふぇね、かえりゅ、」
「どうされたのですか?」
しゃがんで目の高さを主様に合わせると、今にもシーグラスのような涙がこぼれ落ちそうになっている。
「こわいぃぃぃ! かえるうぅぅぅ!」
主様が大泣きしていると、そこに、ザザーン、と大波がきた。危ないと思い咄嗟に抱きしめたけど、波が引いてしまえばふたりともずぶ濡れで……主様はきょとんとしている。
「主様、怖かったですか?」
このことがトラウマになったら可哀想だなぁ……という俺の思いは、いい意味で裏切られた。
「ううん! たのしい! わたしもふぇねすもびっしょり!」
いつになく大はしゃぎで、キャハキャハと笑っていらっしゃって、海にお連れしてよかったと心の底から嬉しくなった。
その日はお昼寝も忘れて遊んだので、夕方はぜんまいの切れたオルゴールのように静かになった。旅程は1週間、最初から飛ばしすぎたかな?
これは俺と主様の、大切な思い出。