にえ

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8/18/2023, 9:14:44 AM

お題『いつまでも捨てられないもの』

 月日というのは早いもので、主様はもうすぐ14歳になろうとしている。生まれたのは本当に最近な気がするけど、それだけ俺が長生きしているということか。

 主様は、今日は朝から熱心にデッサンをしている。モデルは俺。うーん、俺なんかよりもっと絵画映えする執事もいると思うのに……たとえばハウレスとか……。
「主様、そろそろ休憩になさいませんか? 頑張りすぎるのはよくないですよ」
「うーん……あともうちょい……」
「先ほどもそうおっしゃいました。それに、同じ姿勢をずっと続けている俺も疲れました。少し休憩したいです」
 最近学んだこと。それは、俺がこういう風に言えば、主様はきちんと休憩してくださるということ。
「うぅぅ……分かった! フェネスがかわいそうだから休憩してあげる!!」
 スケッチブックをテーブルにうつ伏せにして置くと盛大に伸びをした主様は、先ほどまで眉間に皺を寄せていたのと同一人物とは思えないほど、あどけない表情を見せている。
「それではお茶をご用意いたしますね。何かご希望はございますか?」
 両手を握りしめて伸びをしたまま椅子の背もたれに上半身を預けている主様は、あくびをひとつした。
「ニルギリのアイスミルクティー。ほんのり甘めで」
「フフッ、かしこまりました」

 グラスが汗をかき始める頃に部屋の扉をノックしたけれど、反応がない。どうしたんだろう?
「主様? フェネスです。入りますね」
 断りを入れて扉を開けば、主様はまた熱心にスケッチブックと向き合っていた。
「ニルギリのアイスミルクティーです」
「んんー……あともうちょい」
 主様、11年前と変わっていないなぁ……。
「アイスミルクティー」
「ん?」
 シャッシャッと走っていた鉛筆の音が止まった。
「デッサンは逃げませんが、アイスミルクティーは薄くなってしまいます」
「うぅ……フェネスには敵わないなー」
 ふぅ、とため息をついた主様の肩越しに見えたのは、椅子に座って窓の外に視線を投げている俺の姿だ。

 まだ主様が2歳だった頃に、紙面いっぱいに赤い丸を描いた画用紙を俺は今でも大事に持っている。その赤い丸は屋敷中にボスキが飾った紅い薔薇だと思っていたけれど、実は俺を描いたものだと知ってからますます捨てられなくなった。多分今描かれているデッサンも俺は捨てられないだろうな。

8/12/2023, 12:43:07 PM

お題『君の奏でる音』

 お風呂の掃除をしていると、すっかり聴き慣れた旋律が流れてきた。食堂のピアノで主様が単独リサイタルをされているようだ。
 日中こうも暑いと、さすがに畑仕事が趣味の主様といえど、外に出る気力も湧かないらしい。街の子どもたちを集めて開く勉強会も夏休みだと先日ミヤジさんから聞いた。

 そういえば主様は、今年は茄子と胡瓜を植えたとおっしゃっていたなぁ。
「ボスキの燻製と交換してもらうの」
 種まきを終えたときの主様の笑顔はいつになく邪悪に満ちていて、いつの間にそんな表情まで身につけてしまったのかと驚いた。しかしそれは多分ボスキ本人の笑い方を覚えたのだろう、口の端の上げ方がそっくりだった。

 あれ? 音が増えた? ……これは連弾かな。そう思っているうちにチェロの音まで加わってきたので、おそらくミヤジさんとラトが一緒なのだろう。
 だけど、主様の音だけは、俺は聴き取れる。ほら、多分ミスした。それを誤魔化すように演奏が走り出す。でもさすがというか、ミヤジさんとラトはそれにぴったり合わせていく。このトリオならではの演奏に、俺も鼻歌で参加する。
 早くお風呂掃除を済ませて水風呂を用意して、俺も演奏会に駆けつけよう。

8/11/2023, 11:56:41 AM

お題『麦わら帽子』

 主様が13歳の夏は水の都・ヴェリスに来ている。貴族の依頼で祭りの警備のためにデビルズパレス一同でやって来たのだけれど、道中主様はずっと不安そうだった。
「畑の野菜、大丈夫かな? 留守中にちゃんと水遣りしてもらえるって本当に信じていいの?」
「はい、大丈夫ですよ。屋敷の世話をしてくれるようグロバナー家にはきちんと話を通していますから」
「でも、アモンのお庭は……」
「そちらもきちんと頼んでいますから大丈夫です」
「だけど貴族との約束だなんて……」
 このやりとりを何度しただろうか? 主様は本当に貴族のことが好きではなく、全然信頼もしていないらしい。まぁ、今までが今までだっただけに、貴族への心象が言い訳はないのだけれど。
「それよりも主様。そろそろヴェリスに到着いたしますよ。ヴェリスに着いたら真っ先に日焼け止めクリームを塗りますからね。あと、麦わら帽子もお忘れなく」
 麦わら帽子と聞いて、お顔の色がパッと晴れた。
「うん、海だもんね。紫外線から目を守るためにもツバの広い帽子は欠かせないんだよね?」
「はい、その通りです」
 そう、主様は13歳にして初の海辺の旅だ。仕事2割くらいで、あとはめいっぱい楽しんでいただかなくては。

8/9/2023, 3:24:03 PM

お題『上手くいかなくたっていい』

『いいですか、主様。上手くいかなくたっていいんです。もちろん上手くいった方がいいかとは思いますが、一番大事なのは楽しめるかどうかではありませんか』

 貴族に招かれたパーティーで上手くワルツを踊れなかった主様に俺が言った言葉だ。
 それは主様が11歳だったときのこと。履き慣れないヒールで思いっきり俺の足を踏んでしまい、下手くそなパートナーでごめんなさいと謝られたときに咄嗟に口から出てきた。
 俺の言葉を聞き、涙目を手の甲で拭いながらこくんと頷いた主様に俺はお願いした。
「もう一度、俺と踊っていただけませんか?」

 あれから二年後。
「うう、俺はなんてダメな執事なんだ……」
 今日も失敗をしてしまった。主様と出かけた際に起こったトラブルに気が回らなかったのだ。そういうわけで今は書庫でひとり反省会をしているところだ。
「わっ!!」
「うわっ!?」
 突然背後で大声を上げられ、俺は椅子から転げ落ちるところだった。振り向けば主様がいて、ニシシと笑っている。
「フェネス、昼間に私が街で転んで膝を擦りむいたことで落ち込んでるでしょ?」
「……本当にすみませんでした……」
 俺が項垂れればそのまま両手で頬をベチッと挟まれた。
「確かに膝は痛いけど、それよりもフェネスが凹んでいる方が私の胸は痛い。それにフェネス、私に言った事があるでしょ? 大事なのは結果より過程だって。私はフェネスとふたりで久しぶりに街までお出かけできて嬉しかった。だからフェネスもそれを楽しんでくれてたらもっと嬉しい」
 ああ、優しくお育ちになられたなぁ。
 そのことも日記に書き留めておくことにしよう。

8/8/2023, 1:18:03 PM

お題『蝶よ花よ』

 今の主様が生まれて間もなく、母親である前の主様は亡くなってしまった。こういうときは子育ての経験があるハナマルさんの役目だと誰しもが思った。
 俺だって例外ではない。前の主様が『あの子をお願い』と俺に言い残したけれど、育児は本で読んだ知識しかない俺には向いていないと思っていた。

 しかし、主様の方が俺を選んでくださった。誰が抱っこしても泣き止まなかった主様だったのに、俺が少しあやしただけでニコニコとよく笑ったものだ。
 ハウレスも「赤ちゃんはトリシア以来だな」と言って育児を手伝ってくれた。しかし後追いが始まると俺を泣いて探して、用足しもゆっくりできなくて、困惑の連続だった。
 ……それも今となってはいい思い出だ。

 あのままだったら、間違いなく執事たちみんながちやほやして育てたことだろう。
 だけど、それを良しとしなかったのは他でもない主様自身だった。
 きっかけは草花の観察だった。アモンが育てていたアサガオという花の記録をスケッチブックにつけ始めた。そこから植物に目覚め、虫を始めとした動物にも興味を抱いた。そうして時間があれば馬小屋近くにある畑を丹精しているか、動植物に関する本を読み解くかという日々を過ごすようになっていった。
 人の命は短くて儚い。ならば主様の興味の赴くがままにお育てしよう。それが執事たちの育児方針となった。
 主様は文字通りの意味で【蝶よ花よ】と、逞しく成長なさった。

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