お題『朝日の温もり』
前の主様が亡くなってすぐのこと。
残された、生まれて間もない今の主様のお世話にてんてこ舞いの日々を送っていた。
泣けばお腹が空いているのかな、それともオムツが濡れているのかな、といろいろ気を使ったけど、どちらでもなく泣いているのには本当に参った。
執事全員でお世話にあたったけどなぜか俺が抱っこをすれば夜泣きがおさまると分かって以来、夜のお世話はもっぱら俺。
しかし俺の抱っこで泣き止むとはいえ、眠ったのを見計らってベッドに下ろせば、手を離した瞬間に泣きだす始末で、俺は満足に眠れない日々を送っていた。
ある夜、やはり俺は主様のお世話をしていた。
その日は夜泣きが特に激しく、俺もほとほと参っていたこともあって、少しでも気分を上げたくて明け方近くに見張り台まで星を見に出た。寒空の下に幼い赤ん坊を外に連れ出すなんて今にして思えばどうかしていると思うけど、当時はその判断力が鈍るほど神経がすり減っていた。
空をあおげば、一面の星空。
「主様、まだ分からないとは思いますが、お空がきらきらと輝いていますよ」
するとどうだろうか、顔を真っ赤に染めて泣いていた主様が笑ったのだ。
その日を境に、よく主様を夜の見張り台にお連れするようになった。
明け方に響く笑い声は、俺にとって闇夜に差し込んだ陽の光のように温かさとなった。
お題『岐路』
主様のバイオリンとミヤジさんのチェロの二重奏に耳を傾けながら、主様の将来について思いを巡らせた。
主様はまだ八歳だというのに、ミヤジさんに習ってバイオリンもピアノも弾ける。
バレエができるのはフルーレの指導があってのことだし、アモンに教わってお花を上手に活けられる。
まだまだ自分本位なところもあるけれど、マナー担当のベリアンさんから学び、立派なレディの道を歩まれて、貴族の集まる社交界デビューももしかしたら間近かもしれない。
俺は担当執事として、主様に何かして差し上げられているだろうか……うーん、俺なんか何もできてないな……。
静かに凹んでいると、二重奏は突然不協和音を響かせ、キィと金切り声を上げてバイオリンが鳴き止んだ。
「フェネス、ちっともきいてないでしょ!」
バイオリンさながら、主様も癇癪を起こしている。
「あのね、フェネスにきいてもらいたくて、ミヤジとたくさんれんしゅうしたの。なのにきいてくれないなんてシツレイじゃない?」
頬を膨らませている主様に、ミヤジさんが「いけないよ、主様」と諭している。
「フェネスくんもたくさん働いているから疲れているのかもしれないね。疲れている人には思いやりが大事だよ」
少し考えて、形のいい眉が八の字に開いた。
「ごめんなさい、フェネス……わたし……」
「俺の方こそすみませんでした。少し考えごとをしていました」
ミヤジさんは、ふむ、と呟く。
「どうしたんだい? フェネスくん」
「いえ……あの、俺って主様に本当に何もできていないなって。主様は何でもできるようになっていくのに、俺は不要な存在なのかもしれない……と思って……」
俺の言葉に、ふたりは顔を見合わせた。
「ほら、主様。将来の夢をフェネスくんに教えてあげなさい」
「……えー、でもぉー」
言い淀む主様は、だけど俺の顔にチラチラと視線を投げかける。
「それとも私がいない方が話しやすいかな?」
俺とミヤジさんを見比べて少し考えてから主様は首を横に振った。
「あのね、フェネスみたいに本をいっぱいよんで、しょうらいはがくしゃさんになりたいの」
スカートを両手で握りしめながら口を開いた主様の言葉を受けて、ほらね、とミヤジさんが頬を緩めた。
「確かに主様は他の執事たちからいろいろ学んで吸収していっている。だけど一番身近な人の影響に優るものはないんだよ」
俺なんかが主様の人生の帰路に影響をしているなんて。
「え……と、光栄です」
本を読むことぐらいしか取り柄がないと思っていたけどそれは無駄なことじゃなかったと知って、心の底からほわほわと幸福感が訪れた。
お題『世界の終わりに君と』
「……フェネス……?」
まだ早朝のこと。朝風呂の支度をするためにベッドから降りた俺のパジャマの裾を掴んだ主様は、眼に涙を浮かべていた。
「どうされたのですか、主様?」
向かい合い、親指で眦を拭えばそのまま泣きながら胸に飛び込んできた。
「フェネス、フェネスぅ……行っちゃヤダ……」
「主様。俺はここにいますよ」
まぁるい頭を撫でて背中を摩っているうちに落ち着きを取り戻したらしい。すんすん鼻を鳴らしながら俺の首根っこにしがみついてきた。
「あのね、ちきゅうが終わっちゃうゆめを見たの……」
言いながら思い出してしまったらしく、しがみつく腕に力がこもる。
「それで、フェネスとにげるんだけど、フェネスがまいごになって、私、探したんだけど見つけられなくて」
「そうだったのですね。夢の中の俺は主様を残して迷子になってしまったのですね……でも、俺は迷子になることなくここにいます。それに、地球も終わらないです」
「ほんとに……?」
首に回された腕が解け、真っ赤な瞳が俺の顔を見上げてきた。
「本当です。
あ、そうだ。もし主様がよろしければ、俺の仕事ぶりをご覧になりますか?」
悲しんでいる主様を放ってはおけないし、かと言って担当の入浴補助を放ったらかしにするわけにもいかなくて、折衷案を持ちかけた。
「おしごとしてるフェネス……見ていいの?」
悪夢から意識が上手いこと逸れたらしく、ようやく涙が引っ込んでくれた。
そこにノックの音が。
「主様、失礼します。お召し替えのお時間です」
衣装担当のフルーレの声だ。主様は「うん、いいよ!」と元気よくお返事をされた。
「おはようございます、主様……あれ? 泣いてしまったのですか?」
「な……いて、ないもん」
図星を刺されて恥ずかしいのか、今度はむくれてしまう。
「ちょっとあくびをしただけでしたよね。ね、主様?」
助け船を出せば頷いて今度は満面の笑みを作った。
ころころと表情を変える様子はまだまだあどけなくて可愛らしい。もしこの世界に終わりが来ても、主様の手を放せる気はさらさら起こりそうもない。
お題『最悪』
「おやすみなさいませ、主様」
読み聞かせの本に栞を挟み、掛け布団を整えてからランタンの灯りを絞った。
執事としてどうかと思うけれど、夜中に目が覚めた時に誰もいないのは怖くて嫌だと主様がおっしゃる。だから担当執事の俺が添い寝して差し上げているというわけだった。
モノクルを外して主様の幼い寝顔を覗き込んだ。まだ七歳というべきか、もう七歳というべきか。だんだんと前の主様に似てくるその容姿に、時折胸が苦しくなる。
前の主様は、今の主様のお母様にあたる。俺が前の主様と出会ったときには既に身重だった。
シングルマザーだとカラッと笑っていらっしゃったが、ある夜中のこと、ご様子を覗った折にお腹を摩りながら、
「ごめんね、ひとりぼっちにさせちゃう」
とぽつりと漏らしていた。
その言葉は的中した。
元々の体力の無さが祟ったらしい。産後の肥立ちが悪く、ほどなくして亡くなられた。
俺は、前の主様に片想いをしていた。
もし今の主様が生まれていなかったら、俺はいまだに泣き暮らしていたかもしれない。だけど不幸中の幸いというか、生まれたばかりの赤ん坊の世話に追われて泣いてばかりいられなかった。
そして、日に日に前の主様に似てくる今の主様への感情に俺は思い出したかのように振り回されてしまう。
それは、もしかしたら執事としては最悪な感情なのかもしれない。
お題『誰にも言えない秘密』
この屋敷の小さな主様は、遂にベリアンさんを呼んだ。その前はミヤジさんだったし、さらにその前にはハウレスで……他の執事たちを呼んでは部屋の片隅でコソコソ話。主様は話を終えると必ず、
「ね、みんなにはナイショ」
と言ってくふくふ笑い、呼ばれた執事は俺に生暖かい視線を送って出て行ってしまう。ボスキに至っては「よぉ、色男」などと意味深にニヤッと笑っていた。
ハウレスが呼ばれた時には堪えきれず、
「俺には教えていただけないのですか?」
と近づいて話しかけたけど、
「フェネスには特にヒミツ!」
そう言ってハウレスの後ろに隠れた。
主様は一体俺に何を隠しているんだろう?
俺だけ仲間はずれなんてつらい……。
俺が俯いていると、話を聞き終えたらしいベリアンさんは大袈裟なくらいに主様に耳打ちした。
「フェネスくんのことが大好きだなんて、他の執事の皆さんには絶対に言えませんね。そのような、誰にも言えない秘密を私に教えていただきありがとうございました」
……えっ!?