お題『狭い部屋』
狭い部屋は苦手だ。
心拍数が上がって呼吸も苦しくなる。
その話を世間話のついでで主様にお話したことがある。
ある日の午後、書庫で本を読み解いていると背後から「わっ!」と声が上がった。驚いて振り返ろうとすれば、声の主はそのまま背中にぴとっとくっついてきて俺の頭を撫で始めた。
「主様? これは……?」
「ノックしたけどへんじがなかったから、フェネスどうしたのかなー? って」
そう言いながら主様はわしわし俺の頭を撫で続ける。
「すみません、集中していて気づきませんでした」
「ううん。フェネスが元気ならいいの」
ぱっと俺の前に回り込むと顔を覗き込んでこうおっしゃった。
「せまいところがにがてって言ってたでしょ。だから私がたすけにきたの」
そしてそのままぐいぐいと俺の腕を引っ張る。
「フェネスとお茶、飲んであげる。おいしいクッキーをもらってきたから紅茶はフェネスが淹れてね」
「……分かりました。それではお部屋に戻りましょう」
俺は主様の小さな手を引きながら、手狭な書庫であっても本の世界の広さに救われていることに気づいたのだった。
お題『失恋』
俺が街から帰ってきてから、ほどなくして屋敷の前に馬車が停まった。俺とは別々に行動していた主様もお帰りになられたらしい。
案の定帰ってきた主様だったけれどとても蒼白な顔をされていて、俺が具合を気遣うよりも早く玄関ホールの階段を駆け上っていった。
いつもならにこにこと上機嫌でご帰宅なさるのに、どうされたのかと心配になってしまう。
どう接するのが正解なんだろう? 幼いとは言え主様も立派なレディだ。俺なんかが立ち入って余計にお心を乱してしまったらどうしよう……。
……でも、俺は主様をお支えする執事だ。もし主様が困っているのであればお力になりたい。だけど要らないと言われて担当執事を誰かに代えられたら嫌だな……。そうは思えど……。
俺が堂々巡りをしていると、主様に連れ添って出かけていた医療担当のルカスさんが屋敷に入ってきた。そして俺の顔を見るなりこめかみを押さえる。
「今の主様にはフェネスくんという薬が必要だと思うよ」
ほらほら早くと俺の背中を押しながら、
「誤解は早めに解いてね」
と、謎めいた言葉と共に苦笑いを漏らしている。
「は、はぁ……」
よくは分からないけれど、どうやら主様は俺のことで何か誤解されているらしい。誤解されたままは嫌だし、何より主様のことが心配だ。
3回ノックして、
「主様、俺です。フェネスです」
と声をかけた。
しかし中から反応がない。
「どうかされましたか? 主様?」
すると、中から金切り声が聞こえてきた。
「フェネスのバカー! だいっきらいー!!」
お、俺のことが嫌い……。その言葉は少なからず俺の胸を抉った。
背後についてきていたらしいルカスさんは、
「本当に嫌ってるわけじゃないから」
とフォローしてくれつつドアを開け——そして 俺を中にそっと押し込んだ。
部屋の中に主様の姿はなく、ベッドにこんもりと山ができていて、ヒックヒックと揺れている。
「あ、あの、主様……どうして俺のことが嫌いなのでしょう……?」
ルカスさんは誤解だと言っていた。俺はいつそう思われるような振る舞いをしたんだろう。
「……知らないおんなのひととしゃべってた。それも、すごくたのしそうに」
「えっ」
小一時間ほど前に本屋の入口で、俺と同じくそこの常連のお嬢さんと少しお話をしていたけど、まさか……!?
「フェネスのばか。うわきするなんてサイテー」
「いや、違います! ただ世間話をしていただけです!」
しばらくヒックヒックと嗚咽を漏らしていた主様だったけれど、やがてその籠城は終わりを迎えた。
「……ほんとに?」
「本当です」
痛々しく泣き腫らした目を右手で擦りながら、左手でベッドのマットレスをぽふぽふ叩いている。どうやら隣に座ってほしいというサインらしい。
求められるがままに腰を下ろせば、よいしょ、と俺の膝に跨った。
「私、しつれんしたかと思ったの。ごめんなさい、フェネス。ほんとはだいすき」
首にぐいぐいしがみつかれるのは心地よい苦しみだな、と思いつつも、いつまでこの幸福が続くのかと思うと寂しくもある。
その時がきたら、多分失恋するのは俺の方。
お題『正直』
俺の膝の上に小さな頭を乗せて気持ちよさそうに微睡んでいる。その主様を起こしてしまわないように読み聞かせをしていた本をそっと閉じた。
健やかに上下するピンクのブランケット。静かに流れる、少しだけ擦り切れたレコード。窓に川を作っている雨足。
どれを取っても眠くなる要因しかない。
「フェネス……?」
呼ばれて目が覚めた。いけない、主様の前だというのに居眠りをしていたらしい。
「すみません、主様。何でしょうか?」
モノクルをかけ直して主様に目を向ければ、起き上がって俺の膝にちょこんと腰を下ろし、その上からブランケットを広げた。
「こっちの方がね、私もフェネスもあったかくていいの」
俺に背中を預けて機嫌良くおっしゃるから、俺は小さな幸せを噛み締める。
主様が成長されてパートナーを連れてきたら、今の俺は正直言って祝福できる気がしないな。
お題『梅雨』
書庫で一冊読み終えて気がついた。窓を雨粒がノックしている。時計を見れば午後3時を回ろうとしていた。
アフタヌーンティーの用意をするために階段を降り、庭に目を向ければ庭師のアモンが摘んだばかりらしい紫陽花を片手にして小走りに駆けてくるのが見える。
「あ、フェネスさん」
俺に気づいたアモンはヘラっと笑ってみせた。彼はいつも、どの季節でも最高の花を育ててはこの古びた屋敷を彩ってくれる。
「お疲れ様。その紫陽花はもしかしなくても」
「ええ、主様の部屋に飾るっすよ。もちろんシッティングルームと玄関ホールにも」
よく気が利くなぁ。……それに比べて、俺なんて本を読むことぐらいしか取り柄がなくて……。
いつものマイナス思考に陥っていると、玄関の向こうにパカラパカラと馬の蹄の歩む音が聞こえてきた。どうやら主様が街からお戻りになられたらしい。
いけない。俺がしょげていたら主様に心配される——そう思うよりも早く扉が開いた。
「ただいまー!」
軽やかなソプラノが雨空に差し込む光のようにホールに響いた。
「おかえりなさいませ、主様」
タタタっと俺に駆け寄るなり両手を伸ばしてくる。ねだられるがままに腕に抱え上げれば幼い主様はくふくふと笑った。
「フェネス、またへこんでたでしょ?」
「え! いや、そんなこ」
俺の言葉を遮るかのように、唇にふわりと柔らかな感触。
「元気になれるおまじないなんだって。カタツムリを探していたら公園にいたおにいさんとおねえさんが教えてくれたの」
えー、と。俺、今、主様と……!?
「い、いけません! 主様、このおまじないは他の人にはしないでください!」
背後から「ふーん」と何か言いたそうな声がして、そういえばアモンもいたことを思い出した。
「フェネスさんって独占欲が強いタイプだったんっすね」
「えっ? いや、これはそういう意味じゃなくて」
言葉を続けようとすれば、
「それってどういういみ?」
と首を捻る主様。
「主様をひとりじめしたいって意味っすよ」
持っていた紫陽花をひと枝、主様の耳元に挿したついでにその白い頬にキスをする。
「俺はこれで我慢するっす。フェネスさん、これは貸しっすからね」
それじゃ、と言って屋敷の奥に引っ込むアモンに手を振ると主様はまたくふくふ笑う。
「フェネスは私をひとりじめしたいのね。でもね」
口元を手で覆うと俺の耳に寄せてきた。
「私もフェネスをひとりじめしたいから、りょーおもい、なの」
そしてまたくふくふ笑う。それは梅雨空に差し込んだ日差しのように俺の頬を赤くさせた。