「いいよ。でも1つだけ、約束してほしいことがあるの。」
数ヶ月前、僕は先輩に告白した。7月1日。からっとした風が先輩の長くて艶のある黒髪を揺らしていたのを覚えている。
先輩は少しだけ目を丸くして、けれどすぐにいつも通りの微笑みを浮かべた。その笑みを見るだけで心臓が高鳴って、脈動が不規則になったように感じる。
「3階の突き当たりにある教室には入らないで」
僕が先輩と付き合うために提示された条件。破るつもりはさらさらない。だって先輩は優れた頭脳と美貌を兼ね備えた才媛と現すにふさわしい高嶺の花だ。付き合うだなんて夢のまた夢だと思っていた。その関係性をわざわざ好奇心で壊すだなんて、僕もそんな愚か者ではない。
ふと、校庭から校舎を眺めた。3階の、突き当たり。カーテンが開いているものの、空き教室である上に、日陰になっていて薄暗い。それ以前に僕の視力では中がどうなっているか確認できなかった。
僕の横で僕だけに笑いかける先輩、帰り道、小さな個人商店に寄り道をして僕はアイス、先輩は水をいつも買う。2人で他愛ない話をして。もうすぐ期末テストだね、明日図書室に寄っていかない?勉強教えてあげる。そういえば図書室は2階の突き当たりにある。…僕には関係のない話かな。
『1つだけ』
種明かしをさせて。1階の突き当たりは手前に階段があるのみで教室はない。2階の突き当たりは図書室、その奥にある小さな準備室には、窓はないし教師しか入れない。3階の突き当たりは誰も使っていない空き教室。珍しく突き当たり部分にも窓があって、草が生い茂る裏庭や隣接している特別棟の端にある教室がよく見える。けれど特別棟の窓は大体カーテンを閉めているし日陰になっていて薄暗い裏庭に好き好んで来るような人はいない。何かと都合がいいのは想像に難くないと思う。そこには、私がたくさん咲いている。
母がおやつの時間によく焼いてくれるパンケーキ。まんまるな形をした黄金色のふわふわ生地、光を反射してキラキラと輝くメープルシロップ。
僕の苦手な甘いもの。
疑いようのない幸福を笑みによって周囲に撒き散らしながらパンケーキを頬張る妹と、打って変わって浮かない顔でパンケーキをつつく僕。
気を使って半分にされているパンケーキと、足りない量を補うため添えられた惣菜パンの空袋を見つめる。
頭の片隅で母が「残してもいいよ」と言いながら眉を下げた気がしたから、一口だけ齧った。
パートを終え、帰ってきた我が家のリビング。各々が部屋で好きに過ごしているから電気は消えていて薄暗い空間のテーブル上、ラップをされた平皿の上の三日月。
廊下で煌々と輝く電灯の光を反射したそれに出迎えられる。およそひと月に1回、日常の風景。
『三日月』
『声が聞こえる』
地球上から生命体が滅んで2ヶ月と5日が経った。
最初のうちは管理者を失った機械が狂ったように暴れ騒ぎ立ち、耳をつんざく喧騒に世界が包まれていたのだが、それもいつしか止み、すると一変して荒廃した大地を風が過ぎ去る音や、禍々しく変色した水の流れ落ちる音が聞こえるだけの静かな大地へとなっていった。
自然の音は不規則で、しかし目立った変化もなく、ただそこにあり続けた。じっとそれを聞いていると、静寂だったはずのそれがだんだんと大きくなっていって喧騒のように思えてくる。脳はすごい。これは2ヶ月の間に得た発見だ。
そして2ヶ月と6日目を迎えた今日、突如として異変が訪れた。自然物には到底起こしうることのできない、突然変異と言うにふさわしい変化。
声が聞こえる。
誰かが歌っているのだ。生命が滅びたはずのこの地球で、今確かに、確かにこの耳に届いている。音がどこまでも伸びていき、時折軽やかに跳ねる。歌声は清らかで、透き通っていて、とても耳触りが良い。どこか春を思わせるその歌声に、僕は生命の息吹を思い出す。
終焉は、もうすぐそこ。
『命の燃え尽きるまで』
滴り落ちては土に広がる赤が、痺れ、震える体が、知らせるは自らの幕引きの時。心臓はかつてない程の早鐘を打つ。
これは恐怖だろうか?否、喜びだ。
奥に引っ込んで愛する者に囲まれ、穏やかに残りの時間を過ごすなどやはり自分には向いていなかったのだ。根っからの武士なのだ。戦闘狂とまで呼ばれたのだ。最期を迎えるのは戦闘の最中が良いに決まっている。それにこの名刀を飾りや鈍にすることもない。安心しろ、一緒に連れていってやるさ。
息があがる。まともな思考はもうできていないのだろう。脳裏にぼんやりと浮かぶ、妻や弟子の呆れた顔も今や懐かしさばかりで煩わしくも何ともない。
さあ俺に奇襲に仕掛けた無礼で恐れを知らない、最期の愛すべき決闘者よ、その目でよく見ていろ。後世に名を残す戦闘狂の散り際を、この命の燃え尽きるまで。
スマホのカレンダーを遡る。大した理由はない、暇を持て余して刺激を求めることしかできなくなった脳が、短絡的にいつもと違う動作を指に命じただけ。
表示された先月のカレンダーはたくさんの予定でカラフルに彩られている。友人との旅行やカフェ巡り、推しのライブに見たかった映画。1日に複数の場所を回ったら次の日は丸1日ゆっくり休む。そんな予定を事細かに隙間なく埋めたカレンダーが思い起こさせるのは目に映る全てが煌めいていた弾けるような日々、よりも予定を書き込んだその瞬間の記憶。
更に先々月のカレンダーを表示すれば、半分と少しが1色で塗られていて、その後は夏祭りやらショッピングやらと浮き足立った色が並ぶ。これを書き込んだ頃の私はぷかぷかと宙に浮かんだままの気持ちを隠すこともなく、いずれ訪れる未来に思いを馳せていた。それを、今鮮明に思い出した。
私はこれから、行く先々で撮ったたくさんの写真を見て、買った服やグッズを見て、この夏の記憶を何度でも思い出すのだろう。鮮烈でいつまでも色褪せることのない大切なもの。それは何も、その瞬間だけじゃない。活力にして乗り越えた課題が、あれこれ想像しながらした準備が、そうやって心待ちにした時間全てが愛おしい。
笑みが溢れた。思わぬ所で過去の自分から幸せを分けてもらった。それならば今この瞬間の私は未来の私へ、何か幸せを残せないだろうか。逸る気持ちはそのままに、私は未来のカレンダーを表示した。
『カレンダー』